第91話 ある一兵卒の死
年が明けて3日が経った。
「新年はお酒が進むわねー」
まだ昼間だというのに、リブ・テンヴィーは杯を重ね、ほろ酔い気分で自宅のテーブルに肘をついていた。
「リブは年柄年中いつだって飲んでいるじゃないか」
向かい合って座っているセイジア・タリウスが突っ込みを入れる。そうは言いながらも、彼女も珍しくワインを飲んでいて、いつもよりもだいぶリラックスしている。「ブランルージュ」を無事に終えたことで女騎士から緊張が失われているのかもしれなかった。
「お酒が美味しいのに越したことはないわ」
女友達の言葉にも耳を貸すことなく、妖艶な占い師はぐびぐびと赤ワインをまた一杯飲み干し、ぷはー、と満足げに息をついた。
「でも、そろそろ坊やたちの顔も見たい頃ね」
「坊や、って誰のことだ?」
訝しむ金髪の騎士に向かってリブはにんまりと微笑み、
「あなたと同じ騎士の坊やたちよ」
そう言われてセイもようやく気付く。シーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズのことだ。「坊や」といっても、シーザーはリブの6歳年下(セイと同い年だ)、アルは8歳年下にすぎないのだが、若い女性に年齢のことをとやかく言うべきではないことくらいは、さすがの女騎士もわきまえていたので黙っていることにする。
「あなたも2人に会いたいんじゃないの?」
美女はいくらか深長な意味を込めてささやいたが、
「いや、それは無理だ」
物事の裏を読む習慣のないセイはあっさりと否定する。
「無理、ってどういうこと?」
「新年は王宮でいろいろと行事があるんだ。シーザーもアルも騎士団のトップとして出席しないわけにはいかない」
宮仕えのつらいところだな、と既に辞めた身の気楽さで女騎士は、ふふふ、と声を出して笑った。騎士団にいた頃も堅苦しい儀式は苦手だったので、解放された喜びを味わっていたのかもしれない。
「ふうん。そういうことなんだ。じゃあ、今度シーザーくんが来たら失敗談が楽しめそうね」
失敗すると決めつけなくても、とセイは悪友を気の毒に思ったが、礼儀作法のなっていない青年騎士が無事にやりおおせるとも思えなかったので、結局リブの予想通りになるのだろうな、と考えるしかなかった。目の前に座った占い師は片方の肩紐のずれ落ちた黒いキャミソールを着ていて、今年も相変わらず色気たっぷりだ。
新春にふさわしくのんびりと過ごしていた2人だったが、そんな平穏は突然の来訪者によって破られることとなった。
「セイ! 今すぐに来て!」
大きな音をたてて扉を開いたのはヒルダだ。息を切らしているので、町はずれの占い師の家まで駆けてきたのだろう。
「どうした? 何があった?」
女騎士はあわてて立ち上がってプラチナブロンドの少女に近づくが、
「大変なの。急いで来てほしい」
要領を得ない返事で事情は分からない。
「ただごとじゃなさそうね」
リブも一緒に行くことにした。すっかり酔いは覚めて、レンズの奥の紫の瞳には知的な光がよみがえっていた。
長屋の前には人だかりができていた。
「来てくれたのね」
入口の脇に立っていたリアスが悲しげな顔でセイを見た。集まった人が皆みすぼらしい恰好をしているのを見ると、スラムの住民が心配しているのだろうか。キャプテン・ハロルドがイクとシュナの姉妹の肩を抱いているのも見えた。
来る道すがら、ヒルダに話を訊くと、シーリンの祖父が危篤だというのだが、何故かセイを呼んできてほしい、と孫娘に頼んだというので、女騎士は驚いてしまった。
「そのおじいさんとあなたは知り合いなの?」
リブに訊ねられたが、
「いや。会ったこともないし、ずっと寝たきりでシーリンが面倒を見ている、ということしか知らない」
と答えるしかなかった。だが、死に瀕した老人の頼みを断るようなセイジア・タリウスではない。事情は分からないながらも行くことに決めていた。
「失礼させてもらうぞ」
長屋に入るなり、セイの鼻を濃い臭いが衝く。窓のない締め切った暗く狭い室内の淀んだ空気は老人の病み衰えた身体から発する死の臭いに染まっていた。この老人は助からない、と女騎士は悟る。戦場で傷病人の看護を何度となくしてきたが、この臭いを発した者が命を長らえた覚えは彼女にはなかった。
「先生、おじいちゃんを助けてください」
目を泣き腫らしたシーリンがバルバロ医師にすがりついていた。街の名医は年末年始も休むことなく診療にあたっていたが、その彼でも目の前の老人の死を食い止めることはできず、少女の願いにも応えることはできなかった。
「シーリン、残念だが、おまえのじいさんはもう助からん。苦しまずに逝かせてやることしか、わしにはできない」
老衰だ、というのがバルバロの見立てだった。寿命が尽きた以上、医師にできることはもうない。だが、
「そんな」
愛する家族の死を少女が受け入れられるはずもなかった。泣き崩れるシーリンのすぐそばで、薄いマットの上に寝かされ、やはり薄い毛布をかけられた老人の呼吸は苦しげに乱れ、いつ途切れてしまってもおかしくないように見えた。
「おお、セイジアさん。来たのか」
バルバロ医師に向かってセイは頷くと、
「先生、ご老人がわたしに用があると聞いたが」
女騎士に向かって赤毛の医師は、うむ、と頷き返すと、
「わしもよくわからんが、とにかくあんたに来てほしい、ということらしい」
セイに気づいたシーリンは顔を上げ、
「おじいちゃん、セイが来てくれたよ。何か用があるんでしょ?」
孫娘が話しかけても老人は反応せず、呻いているだけだ。
「ねえ、おじいちゃん、なんとか言ってよ」
涙声で話すシーリンの隣にセイは座る。
「ご老人、突然押しかけてきて申し訳ない」
老人の耳元で大きな声で話しかける。だが、それでも何のリアクションも見られない。
「わたしはセイジア・タリウスという者だ。あなたのお孫さんのシーリンとは親しくさせてもらっている」
そう告げると、乱れていた呼吸が少し速まり、歯の抜け落ちた口の中で何やらむにゃむにゃと呟いているように見えた。
「おじいちゃん?」
祖父に異変が生じているのを感じたシーリンが白いひげがまばらに生えた皺だらけの顔を眺めていると、長く伸びた白い眉毛に隠れていた2つの目が、かっ、と音が出そうなほどの勢いで突然見開かれた。そして、
「え?」
シーリンだけでなく、セイもバルバロも、戸口から事の成り行きを見守っていた者も皆声を上げて驚いた。がばっ、と毛布を跳ね上げて老人が動き出したからだ。
「嘘」
孫娘が叫んだのも無理はなかった。この数年ずっと寝たきりで、まともに動けずに自分で用を足すこともできなかった祖父がいきなり立ち上がったのだ。驚かない方がおかしい、というものだった。立ち上がりはしたものの、老人の筋力は衰え、足は震え身体はふらついていた。しかし、それでも女騎士を見つめる目から光は失われていない。人生の最後に何か言い残したいことがあるらしい、と気づいたセイは膝立ちになる。小柄な老人と金髪の騎士の視線の高さが等しくなった。
「セイジア・タリウス団長にあらせられるか」
ぜえぜえ、と喘いではいたが、発音はしっかりと聞き取れる。
「いかにも、わたしがセイジア・タリウスだ」
力強く頷く。
「あなたのお話は、孫から伺っておりました。自分は、かつて黒獅子騎士団に所属しておりました、ドゥコという者です。ティグレ・レオンハルト将軍の旗下にて、兵士として戦った者であります」
老人は敬礼する。見事に決まったポーズが、彼の言葉が真実であることの何よりの証明だった。
「おお。それでは、あなたも騎士であったのか」
セイは驚きながらも素直に喜んだが、
(おじいちゃんが、騎士?)
シーリンは唖然とする。そんなことは聞かされたことがない。彼女の知る祖父は朝から晩まで力仕事に明け暮れていた貧しい肉体労働者でしかなかった。
「いえ、タリウス団長。わたしには騎士である資格などありません」
ドゥコ老人は俯く。
「何故そのようなことを言うのだ?」
訝しむセイに、
「自分は騎士団に所属しておりましたが、その期間の多くは後方での任務にあたっていて、直接戦闘に出たことは数えるほどしかなく、武勲を挙げたこともありません。国に家族を残しているのに、このままでは合わせる顔がない、と志願して前線に立ちましたが、その最初の戦いで怪我を負ってしまい、帰還せざるを得なくなりました。誠にお恥ずかしい限りです」
(信じられん)
バルバロ医師は驚きのあまり言葉を失う。あと何分かで息絶えようとしていた、意思の疎通もままならなかった老人が明瞭に話をしている。常識では考えられないことだった。しかし、医師として治療にあたっていると、想像を超える事態に遭遇することは珍しくなく、そのたびに人間は驚異の存在である、と思わざるを得なかった。今、目の前で起こっているのも、そういった一種の奇跡とも呼べる現象なのだろう。医師がショックを受ける一方で、老人の話はなおも続く。
「怪我を治すために自分は国許へと返されました。何年振りかで帰る我が家でしたが、妻が温かく迎えてくれて大変嬉しく思ったのを、つい昨日のことのように今でも覚えています。ですが、息子は違いました。自分が戦地へ行った時にはまだ幼かったせがれは、すっかり大きくなっていましたが、まるで他人みたいによそよそしい態度しかとってくれなかったのです。それに加えて、自分のいない間に、家が経済的に苦しくなっていて、日々の生活が立ち行かなくなっていたことも、戻ってきて私は初めて気づいたのです」
少し口ごもると、
「これは非常につらいことでした。自分は国を守るために戦っていたはずなのに、家族すら守れていないではないか、と。自分が一番大切なものは何なのか、と考えた結果、自分は家族の傍にいることを選んだのです」
暖房のない長屋の中は冷え切っていたが、老人の告白に耳を傾ける人々にはまるで気にならなかった。
「それ以来、自分は家族のためだけを思って働いてきました。息子とも時間はかかりましたが、親子としてそれなりに上手くやれたと思っています。妻にも息子にも先立たれましたが、息子の残してくれた孫を育てることだけが自分の生き甲斐でした」
老人の目から涙が流れていた。透明な雫が深く刻まれた皺に溜まっていく。
「しかし、たったひとつだけ、どうしても頭から離れないことがあります。自分は戦場から逃げた、ということを忘れた日はありません。家族のため、と言いながら共に戦ってきた仲間から逃げてきた負い目が消えることはないのです。命を落とした兵士の家族が嘆き悲しんでいる姿を見て、おめおめと生き残っている自分を恥ずかしく思ったことは数え切れません」
涙に濡れたドゥコの目がセイを真っ向から見つめる。
「だから、タリウス団長。あなたにこのことをお伝えしたかったのです。戦争を終わらせた、騎士の中の騎士であるあなたに、自分の罪を打ち明けたかったのです。今まで誰にも話したことはありませんが、このままでは死んでも死にきれないのです」
この臆病者をどうかお許しください、と頭を下げかけた老人に、
「何を謝ることがある?」
女騎士は力のこもった言葉を投げかけた。
「え?」
ぽかん、と老人が口をあける。
「ドゥコ殿、あなたが謝られることなどない。あなたに罪などない。いいか? 馬を駆り、弓矢を手に取り、剣をふるうだけが戦いではない。愛する者を守り、日々を生き抜くのもまた立派な戦いなのだ。あなたは家族のために一生懸命に戦われたのだ。何も謝る必要などないではないか」
隣にいたシーリンの肩に手を置いて、
「このシーリンがあなたの何よりの勲章だ。100人の敵を打ち倒すよりも1人の子供を育て上げる方がずっと素晴らしいではないか。ドゥコ殿、あなたは立派な騎士だ。他の誰が何と言おうと、わたしは認めよう。いや、かつてのあなたの上官であるレオンハルト将軍もまた、そう認めるに違いない。このセイジア・タリウスが、あなたのことを将軍に必ずお伝えする、と約束しよう」
金髪の騎士がそう告げると、
「なんたる幸せ」
とかすれた声でつぶやいた老人の身体が大きくゆらいだ。
「おじいちゃん?」
セイとシーリンが慌てて抱きかかえるが、その身体はあまりに軽く、失われつつある命が決して戻らないのは明白だった。
「タリウス団長、本当にありがとうございます。これで何の悔いもなく逝くことができます」
「あなたがこれから向かうのは、勇士のみが行き着く天国だ。いずれわたしもそこへ行くつもりだが、そうしたら一緒に戦ってくれないか?」
こちらこそぜひ、と答える老人の胸に恐怖はまるでなかった。人生という戦いの終わりに、素晴らしい指揮官に巡り合えたのだ。雄々しく前へ踏み出すことができる。そして、彼は孫娘を見上げた。最後に話したい相手は愛する家族に決まっていた。
「シーリン、わしはもうそばにいてやれないが、みんなにかわいがってもらうんだよ。おまえのようないい娘と一緒に暮らせて本当によかった」
泣き叫びそうになるシーリンの背中にセイの左手が触れている。12歳の少女には酷な状況だったが、
「うん。わたしもおじいちゃんのこと、大好き」
それでもどうにか耐える。歯を食いしばって耐える。
ありがとう、とやっと聞き取れるほどの小さな声で言ってから、ドゥコ老人は目を閉じた。
布団に寝かされた老人の瞳孔と脈を確かめてから、バルバロ医師は首を横に振る。嗚咽を漏らすシーリンをセイは抱きしめる。
「ねえ、セイ。おじいちゃんは立派だったよね? 偉かったよね?」
「もちろんだとも。わたしよりもずっと勇敢で素晴らしい人だ」
誇りに思うといい、と少女にささやいた女騎士の目にも涙が浮かんでいた。
(ひとりになっちゃった)
そう思って、シーリンは悲しくなるが、
「大丈夫?」
と声をかけられて顔を上げると、リアスと「セインツ」の仲間たちに心配そうに見つめられていた。
「後はまかせて」
そう告げると、リアスは切れ長の瞳の少女をセイから受け取って、優しく抱いた。
「つらいわね。でも、わたしたちがそばについているから」
セラもヒルダもシュナもイクもみんな泣いていた。自分のことのように悲しんでくれている。
(ひとりになっちゃったけど、ひとりじゃない)
シーリンはそう思おうとする。仲間たちもまた家族を亡くしていた。悲しみと苦しみを分け合っていけたなら、共に歩いていけるのだろうか。
長屋を出たセイの前に驚くべき光景が広がっていた。集まった人々が彼女に手を合わせて拝んでいたのだ。「セイジア様」と口々に呟いて祈りを捧げている。
「おい、やめてくれ。なんだってそんなことをする?」
戸惑う女騎士に、
「ここに暮らす人たちにとって、あんたは希望なんだ」
後から出てきたバルバロ医師が話しかける。
「そんな風に思われることなど、わたしは何もしていないぞ」
「しているさ。あんたは何度も戦いに勝ち、戦争を終わらせたんだ。それがどんなにみんなの心の救いになったか」
そういえば、いつだったか、この赤い髭の医者に「あんたはもうここの人たちを救っている」と言われたことがあったのを思い出した。自分が貧しい人たちの希望の星となっていたのを知った女騎士に喜びはなかった。
(わたしには荷が重い)
そうとしか思えない。戦争の英雄とはいえ、まだ20歳の女子なのだ。意図せざる行動によって多くの人々に影響を与えた、と知って、たとえそれがよいものであったとしても責任を感じずにはいられなかった。
「おじいさんのお弔いは、わたしが手配するから」
葬儀の関係者とも交際のあるリブに話しかけられても、
「ああ、頼む」
セイの顔は晴れなかった。
(何か思うところがあったみたいね)
占い師の直感は友人の異変に気付いていたが、
(あの子はまだ道の途中にいる)
そう思って、特に何かをしようとは思わなかった。目的地も刻限も決まっていない旅人は最短距離を行く必要などなく、時には迷ってもいい、というのがリブの考えだ。迷った先で自分なりの答えを見つけることだってあるのだ。女騎士はいずれ自分で気づくだろう、と眼鏡の美女は信じていたが、そうとは知らないセイジア・タリウスが悩みから解放されるまでには、それなりの時間を必要とすることとなる。
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