第77話 女騎士さん、少女たちと踊る(その5)
ターンを決めようとした瞬間、左足から力が抜け、リアス・アークエットは体勢を大きく崩してしまう。
(やっぱりダメだった)
心はたちまち悔恨に染まる。倒れていく身体をどうすることもできない。舞台の上で転んで、大勢の観客の前で恥をかくのはどうということはなかった。今まで彼女が遭遇してきた幾多の困難に比べればたかが知れている。だが、
(ごめんね、みんな)
自分のミスが少女たちの夢を台無しにしてしまうのだけは耐えられなかった。教え子の頑張りをコーチである自分が潰すなんて、最悪と言ってもまだ足りないほどにひどい現実だった。何を詫びたところで取り返しのつかないことだけはわかっていたが、それでも償いはしないといけない。自分の命を引き換えにしても足りるだろうか。そう思うリアスの目にステージの床が近づいてきて、痛みと衝撃を覚悟したそのとき、彼女の左腕は力強くつかみとられていた。
「え?」
その救いの手は、ぐい、とリアスを思い切り引っ張り上げ、勢いのついたまま黒髪の美少女の身体は横に回転し、そのまま細い腰を抱きかかえられた。思わず目を閉じてしまっていたリアスは甘酸っぱい香りに包まれたのを感じ、おそるおそる目を開ける。セイジア・タリウスが微笑んでいるのがしっかりと見えた。「してやったり」と書かれているように見えるその顔を呆然と眺めていると、会場から拍手が大きな波のように押し寄せてくるのが聞こえてきた。客席に顔を向けようとして、
「え?」
もう一度驚いてしまう。何故なら、4人の少女たちがセイとリアスを囲んでポーズを決めていて、観客から見れば実に完璧なフォーメーションに見えているであろう、というのが、かつて踊り子として各地で喝采を浴びてきた少女にもしっかりとわかっていた。そして、
(これがあなたの狙いだったのね)
と自分を抱きしめている金髪の騎士を見上げる。一般の観客は熱狂していたが、しかし、見巧者の目をごまかせるものではなかった。
(どういうこと?)
チェ・リベラは混乱しきっていた。あの背の高い黒髪の娘は間違いなく転倒しようとしていたのだ。断じて演技などではなかった。
(しかし、咄嗟にあれだけのフォローができるわけがない)
舞台を長年にわたって見続けてきたジャンニ・ケッダーにも理解できなかった。突然のハプニングをアドリブで取り繕ったにしては見事すぎるように、芸能界の大物には見えていた。あのブロンドのダンサーが仲間が転ぶのを止めたのはともかく、他の4人の娘たちはまるで段取りでもあったかのように動いていた気がしてならなかった。
「つまり、導かれる結論はひとつ、ということね」
つまらなさそうにつぶやくアゲハに、カリー・コンプが「はい」と頷く。
「セイジアも子供たちも、リアスさんが転ぶのがあらかじめわかっていた、そういうことですね」
2人の会話を聞いたダキラ・ケッダーは愕然とするしかない。信じがたい話だったが、天才同士が認め合ってる以上、それが間違いのない事実なのだろう。
(上手く考えたものね)
助けられたリアス自身がセイの作戦に感心するしかなかった。つまり、リアスが転ばないようにするのではなく、転んでから助け上げよう、と考えていたのだ。もっとも、それは常人には到底なしえないことで、驚異の身体能力と反射神経を誇る最強の女騎士にしかできないことだったろう。
(わたしの銃だって避ける人だものね)
そんな風に呆れる少女は別の事実にも気づいていた。何故、リアス本人に作戦を知らせなかったか、ということだ。仮に「転んだらセイが助ける」と知っていたとしたら、その点に意識が行って動きがおかしくなっていたかもしれない、とリアスは思っていて、それをセイも承知していたから「知らない方がいい」と彼女に言っていたのだろう。おそらく、練習でリアスが何十回も転ぶのを見て、女騎士は「どのように転ぶか」をしっかり把握していて、シミュレーションも済ませていたのだろう。その上で、
「わたしがリアスを助けたら、こんな風に動いてくれ」
と4人にも指示していたのだろう。子供たちも事前にしっかりと練習していたはずだ、と思うリアスの胸に湧き上がる思いがあった。
(みんなが助けてくれた)
友達と教え子が自分を窮地から救い出してくれたことに感謝する気持ちしかなかった。そのために彼女たちがどれほど頑張ったのかを考えると、演技の途中なのに泣きそうになってしまう。そこへ、セイジア・タリウスの顔が近づいてくるのが見えた。
「やれるか?」
激しい動きのために弾んだ息のまま耳元にささやいてきた女騎士に、
「あたりまえでしょ?」
リアス・アークエットは力強く微笑む。ここでやらなければいつやるというのか。若い雌豹の全身から闘志がみなぎるのを感じて、
「それならいい」
セイも青い瞳を輝かせて微笑みを返した。
2人は気づいていなかったのだが、ここで観客席は再び大いに盛り上がっていた。美女と美女が、鼻の頭がこすれるくらいに、唇と唇とが触れ合わんばかりに、顔を近づけているのが何とも色っぽく見えたのだ。
「いやーっ!」
「きききキマシタワーッ!」
ユリとメルは立ち上がって歓喜の涙を流していた。これほどの眼福を今まで味わったことがなく、これからも味わえるとは思えなかった。
6人は再び横一列に戻り、そしてまた踊り始めた。
(やってやる)
リアスは燃えていた。仲間が助けてくれたとはいえ、大舞台で転んでしまった自分を許せなかった。だが、くよくよしてはいられない。これからリベンジすればいい。しくじりは何倍にも取り返してやろう、と少女は心を決める。整った容貌としなやかな肢体にだまされてはいけない。リアス・アークエットの本質は戦士なのだ。
劇場内の全員が舞台上の様子が一変したのを感じていた。振り付けは前半と同じだが、雰囲気がまるで違っている。ツインテールの黒髪の美少女がステージを支配しているのだ。他のメンバーと比べると、彼女の踊りはそれほど激しいものではなかったが、集中の度合いがまるで違っていた。指先から一筋の髪の毛にまで余すところなく気が配られていて、その細やかな動きひとつひとつに、熟成された酒のごとき豊潤な味わいを感じさせ、それに観客は酔いしれていた。そして、支配の手を客席にまで延ばすかのように、リアスの歌声が劇場に流れ出す。
わたしの中にある宇宙を見つけられたなら
心は燃えて どんなことだってできるはず
いつまでも泣いてばかりなのは嫌だと
遠い空の星々にあの日約束したから
夢は天馬のように空を駆けて 誰にも触れられはしない
夢は天馬のように空を駆けて 勇気の翼を与えてくれる
夢は天馬のように空を駆けて 明日に向かってはばたいていく
(こいつ!)
アゲハは舞台を見下ろしながら、深紅の瞳をぎらりと閃かせた。どうしてあの長身の黒髪の娘が気に食わなかったのか、ようやくわかった気がした。あの少女は自分と同類なのだ。芸のために命を懸けられる、そんな愚か者に違いなかった。同じ人種と出会えた喜びなどまるでなく、むしろ憎らしく感じていた。
(わたしと同じ人間なんていらない。わたしはわたしだけでいい)
心からそう思っていたからだ。
(すごい)
(これが本当のリアスなんだ)
一緒に踊っている少女たちには、リアスの持つ力が一番よくわかっていた。あのアゲハに匹敵するほどの圧倒的なオーラに、自分たちのちっぽけさを痛感させられていた。だが、美しいコーチとマズカの歌姫とでは決定的に違う点があって、魔性のディーヴァの歌が人々の心をねじ伏せ強引に跪かせていく力を持っているのに対し、リアスの踊りには弱りかけた心を励まし奮い立たせてくれる力が感じられたのだ。だから、アゲハの歌に打ちのめされた少女たちも、
(ついていきたい)
(追いかけていこう)
と心から思っていた。今は遠く及ばなくても、いつか必ず追いついてやるんだ、と誓った少女たちの演技は伸びやかになり、一段とレベルが上がったのがセイにもわかった。
(厳しい戦いを潜り抜けて、戦士は初めて一人前と言える。おめでとう、きみたちは立派な勇者だ)
4人の少女たちを眩しげに見つめた女騎士の視線がリアスの視線と一瞬だけぶつかりあう。
(やれるか?)
(やれるわ!)
1秒にも満たない間で意志を確認しあったのは、もうすぐ「見せ場」が訪れるからだ。前半、リアスが踊り切れずに転んでしまった場面だ。
(今のリアスならやれる)
セイは確信していた。もう自分の助けなどいらないはずだ。そう心を決めて、自分の演技に集中していく。
(リアス、がんばって)
少女たちもセイと同じ気持ちだった。最高の舞台で最高の自分を見せようと、最後の局面へと気持ちを極限まで高めようとする。
(やれる。わたしならやれる)
リアス・アークエットは生きる炎と化した。もう二度と無様に転ぶものか、と心と命を燃やし尽くそうとする。そう思ってはいても、心の片隅に恐れと怯えは残る。だが、それすらも火種に変えて、少女はターンをするために左足を踏み出した。
(やれる! やるんだ! やってやる! やれる! やる! やる! やる!)
かつて傷つけられた脚を軸として、リアスの身体は旋回した。決して遅くない動きだったが、彼女自身にはとてもゆっくりしたものと思え、そして観客の目にはこの上なく美しく見えていた。花びらが風に舞うような、鳥が水面から飛び立つような、自然界にはありふれていても、人間にはなしえない動きを、そのときのリアス・アークエットはやってのけていた。
(え?)
ターンが決まった瞬間、リアスに喜びはなく、むしろ気が抜けた感じしかしなかった。さんざん悩んだ難問がちょっとしたヒントであっさり解けてしまったかのような呆気なさを感じていた。上手く行った、と気づいたのは、観客が全て立ち上がり、王立大劇場が揺れるほどの拍手と歓声に包まれてからだった。「セインツwithS&R」の5分間の演技は終わり、見事に成功したのだと頭ではわかっていた。それでも、リアスにはまるで現実味は感じられない。
(脚が熱い)
16歳の少女が感じていたのはただそれだけだった。左足が焼けるように熱かったのだ。怪我をしたわけではない。灼熱の炎によって鍛えられた鋼が芯になったかのような、そんな熱さだ、と思いながらリアスはそっと目を閉じていた。
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