第66話 セインツ最大の危機(前編)
今日は「ブランルージュ」本大会3日前だ。お昼前になって、
「みんな、やってるか?」
セイジア・タリウスは「セインツ」の少女たちの練習場所である廃工場へとやってきた。昨晩大変なことがあって心配になっていたのだが、
「ええ、みんな元気よ」
リアス・アークエットが笑って出迎えた。少し離れた場所で5人の娘たちが、きゃっきゃっ、と楽しげに声を上げている。
「イクの顔も思ったよりひどくなさそうだし」
悪党に何度も張り飛ばされた少女の顔は赤く腫れ上がっていたが、それでも二目と見られないほどでもない。これなら大晦日までにはなんとかなりそうだ、と女騎士も安心するが、
「ところで」
声を落として黒ずくめの少女に訊ねる。
「そっちの方は上手く行ったのか?」
昨日の悪党どもの後始末をリアスひとりでやろうとしていたのも気にしていたのだが、
「ええ。心配しなくても大丈夫よ。責任を負ってくれるダンディーなおじさまがいらっしゃってね」
「おじさま?」
セイが驚いて訊き返しても、雌豹によく似た少女は「ふふふ」と意味ありげに笑うだけだ。
「さあ、みんな、練習よ。本番まで気を抜かないで、気分を高めておくのよ」
ぱんぱん、と美しいコーチが両手を叩くと、5人はそれぞれの位置につく。左から、シュナ、イク、セラ、ヒルダ、シーリン、と並んでいる。
「じゃあ、始めて」
リアスが声をかけると、少女たちはゆっくりと動き出した。動きは次第に激しく速くなっていく。
(いつもながら見事なものだな)
セイはひそかに感心する。自分も踊るようになったからわかったことだが、少女たちのダンスは実にレベルが高いもので、一人一人の持ち味をしっかり出しながらも、バラバラにならず「セインツ」としての一体感も保っていた。しかも、肉体的にも成長著しいこともあって、日に日に上達していっている。
(負けられないな)
あらためて闘志を燃やす女騎士はすぐ隣のリアスが怪訝な表情を浮かべているのに気づく。黒ずくめの少女は桃色に光る唇をわずかに震わせてから、
「やめて」
と少女たちの動きを止めさせると、つかつかと左端のシュナの前へと歩いていく。
「なに? どうかした?」
いつになく怖い顔をしたコーチに小さな少女は訊ねるが、
「足、どうしたの?」
と訊き返されて黙り込んでしまう。
(足?)
セイが足下に視線をやると、シュナが左足にだけ靴下を履いているのが見えた。しかも毛糸で編まれた分厚いものだ。女騎士もここで何かがおかしいと気づくが、リアスはそれよりも先に気づいていたことになる。
「なんでもない。どうもしないよ」
一番年下の娘は首を横に振るが、リアスはそれに耳を貸すことなく、屈みこむとシュナの左の足首に軽く触れた。すると、
「痛いっ!」
少女は悲鳴を上げて尻餅をついてしまう。
「シュナ!」
妹に異常が生じていると気づいた姉のイクが駆け寄り、他の3人も顔を真っ青にする。
「見るわよ」
リアスが靴下をめくると、無惨にも赤く腫れ上がった足首が見え、誰かが小さく悲鳴を漏らすのが聞こえた。
(あのとき、怪我をしていたのか)
セイも事情を察する。昨晩、悪党に拉致されて馬車から舗道に落とされたときに、足を痛めてしまったのだ。
「どうして黙ってたの?」
どうにか平静を保とうとはしているものの、リアスの声は震えている。
「だって、このままだと大会に出られなくなるから」
ぼそっとシュナが呟き、
「みんなに迷惑がかかると思ったから」
と続けた。シュナらしい、と誰もが思っていた。引っ込み思案でいつも周りの空気を乱さないように気を付けている女の子なのだ。
「ごめんね」
「え?」
リアスに謝られてシュナは驚く。怪我を隠していて、てっきり怒られるものだとばかり思っていたからだ。
「あなたが痛い思いをしているのに気づいてあげられなくて、コーチ失格だわ」
リアスが沈痛な表情を浮かべているのを見て、
「ううん、違う、違うよ。リアスのせいじゃないよ」
小さな娘の目から涙がこぼれた。自分は間違っていたと、大事な人を悲しませてしまったのだと気づいたのだ。
「わたしのせいだよ」
イクも泣いていた。
「わたしが無理して遅くまで働いたから、それを迎えに来たから、シュナは」
シーリンも泣いているのは同じように責任を感じていたからだろう。いつの間にかセラとヒルダも泣いていた。仲間たちの悲しい気持ちを我が事として受け止めていたのだ。
「そうじゃない。おまえたちのせいじゃない」
セイの声が大きくなったのは、いたたまれない思いを感じたからだろうか。
「悪いのは、シュナに怪我をさせたやつらだ。おまえたちは何も悪くない」
その言葉がどれくらい少女たちの気持ちを楽にしたかは、セイ自身にもわかりかねた。広い工場跡に嗚咽だけが響く。
「とにかく」
暗い気持ちを振り払うようにリアスは大きな声を上げた。
「お医者様に診てもらいましょう。話はそれからよ」
そう言うと、
「セイ、この子を診療所までおぶってくれる?」
女騎士に頼んだ。
「まかせてくれ」
せめてそれくらいはしてやりたかった。ぐすぐす、と涙ぐむシュナの身体の熱さを背中で感じながら、セイは歩き出した。
「しっかりつかまってろよ」
ん、とかすかな声を聞いてから、ゆっくりと歩き出す。リアスとイクが同行し、残った3人は不安な表情を浮かべながら見送った。
「これからどうなるんだろう」
イクがつぶやいたのに、
「それは後で考えましょう」
リアスが優しい声で答えたのが、前を行くセイにも聞こえた。
(なんということだ)
あんなに頑張っていた少女たちに、土壇場でこのような事態が訪れるとは。世の無情をセイは思わざるを得ない。いつも前向きな彼女も心に黒い雲がたちこめるのを振り払えないまま、昼間でも暗い路地裏を黙って歩き続けた。
「骨には異常ない。捻挫だ」
シュナの白く細い左足首に包帯が巻かれているのを見て、バルバロ医師はむっつりした顔で告げる。
「ただし、激しい運動はしばらく厳禁だ。おまえはまだ子供だ。後遺症が残ったら大変なことになる」
「走ったり、踊ったりしたらダメ?」
シュナの質問に、中年医師はむっつりした顔のまま黙り込む。彼は少女たちが「ブランルージュ」に出場するのを知っていて、そのせいで答えられなかったのだ。
「残念だけど、決まりね」
自分が言うべきだと判断したリアスが教え子の肩に触れた。
「あなたを今度の舞台に立たせるわけにはいかないわ。シュナ、わかってくれるわよね」
唇を噛みしめて静かに頷く妹を見て、姉のイクは涙ぐみ、セイも、
(えらい子だ。つらいはずなのに周りに気を遣っている)
と感心しながらも、その気遣いを痛々しく感じていた。そのとき、診察室の扉が開いた。
「シュナ、大丈夫かい?」
知らせを聞いたノーザ・ベアラーが駆けつけてきたのだ。食堂の女主人の顔を見た瞬間、シュナはそれまでの気丈な態度を一変させ、声を上げて泣き出し、そんな少女をノーザはあわてて抱きしめる。
「悪いことをしたね。もっと気をつけてあげないといけなかったね」
子供だけで夜道を歩かせるべきではなかった、と悔やむおかみさんに、ううん、ううん、と腕の中で抱かれたシュナは首を横に振って、そして、
「おかあさん」
と思わず呟いてすぐに、はっ、とした顔になる。
「え、あの、ごめんなさい」
いつも優しくしてくれるノーザを慕う気持ちがつい出てしまったのを恥ずかしく思って、顔を真っ赤にして謝る少女に、
「どうして謝ることがあるんだい」
女主人は優しく笑いかけた。
「え?」
「わたしはとっくにあんたを娘だと思ってたんだよ」
そう言ってもう一度抱きしめた。暖かな胸の中でシュナは涙を流しながら、おかあさん、おかあさん、と何度も呼び続ける。
「うちの母さんはシュナが生まれてすぐに死んじゃったから、シュナは全然覚えてないんだ。わたしはギリギリ覚えてるけど」
そう言ったイクの頭もノーザは抱きかかえた。
「え、いや。わたしはいいよ、おかみさん。大丈夫だから」
「遠慮するんじゃないよ。あんたもわたしの娘なんだからね、イク」
最初はじたばたしていたイクもそう言われると、黙って目を閉じた。
(あったかい)
閉じられた目から、すっ、と涙が一筋流れ落ちる。昨夜苛酷な体験をして傷ついたばかりのイクの心に愛情が染み渡っていく。
「セシル、悪いんだけど、セラとシーリンとヒルダを食堂まで呼んでくれないかい? みんなで一緒に美味しいものを食べさせたいんだ」
「ああ、わかった。ありがとう、おかみさん」
心得た、とばかりに頷いたセイはノーザとバルバロ医師に黙礼してから診察室を出て行く。
「ありがとうございます、先生。それにノーザさんも」
リアスに頭を下げられて、バルバロはびっしり生えた赤い髭に手をやりながら、
「なに。わしにはこれくらいのことしかできんからな」
「わたしだって同じさね。みんな自分に出来ることをやるしかないんだ」
ノーザ・ベアラーは吊り気味の目を光らせて黒衣の少女を見つめた。
「リアスさん、大変だとは思うけど、頑張っておくれよ。この子たちが一番頼りにしているのは、わたしでもセシルでもなくて、あんたなんだよ」
はい、と返事はしたものの、大事なメンバーを一人欠くこととなった状況で、どうやって「ブランルージュ」に挑むべきなのか、リアスの頭の中ではまるで描けていなかった。
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