第65話 グウィドラの破滅・トニー編(その4)

寒さを感じて、ジャンニ・ケッダーは夜中に目を覚ました。

(窓はちゃんと閉めたはずだが)

そう思いながら、体を起こそうとして動きを止めたのは、室内に自分以外の人間がいるのに気づいたからだ。今はアステラ王国に出張していて、自宅ではなく常宿に泊まっているのだ、と寝ぼけた頭で思い出してから、

(賊か)

と考えた。大手プロダクションの社長の金を狙った泥棒か、あるいは自分に恨みを持つ輩が襲ってきたのか、と思ってその可能性を否定する。コソ泥ならば自分のいない隙を狙っただろうし、襲うつもりがあったのなら眠っている間にさっさとやっていたはずだ。そして、それ以上に枕元の椅子に腰掛けた黒い影はそんなけしからぬ人間にしてはあまりに美しすぎた。黒のボディスーツに隠された肢体を思わず凝視してしまっていると、

「あら、やっとお目覚め?」

覆面の隙間から見下ろしてくる黒曜石のように輝くふたつの瞳に男は息を飲む。職業柄、美しい女性は見慣れているはずだが、そんな彼でもたじろぐほどの美貌だとマスクをつけていてもわかってしまった。

「あなた、大物なんでしょ? もうちょっといいホテルに泊まった方がいいんじゃない? ジャンニ・ケッダーさん」

警備がゆるゆるよ、と自分から忍び込んできておきながら説教をされてジャンニは苦笑いをしてしまう。

「若い頃に長い間地方をドサ回りしたことがあって、そのせいで何処ででも寝られるようになったんだ。あんまり高級な宿だと落ち着かなくなってしまったくらいでね」

掛け布団を跳ね上げると、水色と白のストライプの、これぞパジャマ、といった趣きの寝間着を着ているのが見えて、「ふふっ」と美しい賊は思わず笑い声を漏らした。おじさんだけど、坊やみたい、と微笑ましくなってしまったのだ。

「前にお会いしたことがあったかな?」

人前ではかけることのない眼鏡を身に着けながらジャンニが訊ねると、

「あるけど、たぶん覚えてないと思うわ。あなたは他のことに集中していたから」

リアス・アークエットは、「ブランルージュ」の予選会が終わった後に、ジャンニがカリー・コンプを懸命になって口説いていたのを思い出しながら答えた。

「それでこんな夜中に何の御用かな? あんたみたいな若い娘さんに夜這いを仕掛けられて悪い気はしないが」

「残念だけど、そんな色っぽい用事じゃないの」

そう言いながら、リアスはサイドテーブルの上に置かれたランプに火をともした。

「わたしにとっても、あなたにとっても、今すぐ解決しておかなきゃいけない問題があるのよ」

朝まで待っていられない、という少女の呟きを耳にしながら、自室の中に目をやった男は驚きのあまり叫びそうになるのをどうにかこらえた。板張りの床の上には何者かが横たわっているのが見えた。身じろぎもせず、声も立てないところを見ると、気を失っているのだろう。

「あなた、こいつを知ってるわよね?」

リアスに訊ねられたジャンニは「もちろんだ」と言ったつもりだったが、乾ききった咽喉にへばりついた声は、空気に触れることなく、老齢に差し掛かった男の体内へと溶けて消えていく。

「トニー」

その声はしっかりと出せた。自らのプロダクションで力を入れて売り出している最中の「グウィドラ」のメンバー、トニーが倒れていた。身体を縛られ、猿轡を噛ませられているが、見間違えようはなかった。

「目覚めて暴れられても面倒だから、念のためにね」

覆面の娘に弁解するかのように言われてよく見てみると、両手と両脚がどす黒く染まっていた。かなりの出血だ。命に別状はないとしても、早めに治療した方がいいのは、素人でもわかった。

「耳もひどいな」

お抱えのタレントの右耳が大きく欠けているのを見て社長は苦い顔になる。ルックスが一番の売り、というよりもそれしか売りがないのに、と思っていると、

「ご自慢のピアスを吹き飛ばしたのは悪かったと思ってる」

黒猫によく似た女子の口から飛び出したジョークは辛辣すぎて笑えるものではなかった。

「あんたがやったのか?」

「ええ、拳銃で、バーン、バーン、ってね」

右手で銃の形を真似して冗談めかして言ったが、ベッドの上の男が迫力を増しつつあるのを感じたリアスも真剣な表情になる。

(さすがは業界の大物ね。優しい外見は見せかけで、中身は結構怖い人なのかも)

気を取り直しながらも、唇からは笑みを消すことなく、

「どうしてそういうことになったのか、教えるわ」

そして、リアスはほんの数時間前に起こった出来事をジャンニに説明した。特に誇張を交えることなく、自分に都合のいいように誘導することもなく、あくまで客観的に事実のみを伝えた。少女はいつでも公正であろうと努めようとしていたのだ。

「なんということだ」

しかし、ただ事実を聞かされただけでも、年老いた社長を打ちのめすには十分だった。自分が育ててきたタレントが引き起こした思いがけない凶行に言葉を失う。いや、「思いがけない」というのは誤りだ、と自分から訂正する。少年はこれまでに何度もトラブルを引き起こしてきたではないか。犯罪に至るサインを目にしながらも、何も手を施さなかったおのれの責任を認めざるを得ない。そうは思ってみたものの、想像を超える蛮行をしでかしてくれた、という怒りもやはりあった。未成年の少女に手をかけようとするとは、どんな理由があれ許されるはずもないのだ。

「あんたに感謝すべきなのかな」

「はい?」

自分の方に向き直った男がこの数分でさらに年を取ったようにマスクをつけた少女には感じられた。

「この大馬鹿者の命まで奪わずに済ませてくれたことだ。本来なら殺されていても文句は言えないところだった」

「感謝する必要はないわ」

リアスがきっぱり言い切ったのにジャンニは驚く。

「本当だったら他の2人と同じように殺したかったけど、殺せなかっただけだから」

「殺せなかった?」

ええ、と頷きながら、少女は立ち上がる。気絶した少年の方に歩み寄るが、足音をまるでたてないところも黒猫によく似ている。

「殺してひそかに始末するには、こいつは有名すぎるのよ。こいつがいきなりいなくなったら、あなたもファンの人も必死になって探そうとするでしょ? そうしたら、わたしが危なくなるもの」

矢のような視線を受けながら、

「ああ、そうだな」

と男は同意する。頭がひどく重くて、肩の上から落としてしまいたくなる。

「だから、こいつの処分は、あなたに任せることにするわ。ジャンニ・ケッダーともあろう者が無罪放免で済ませるはずもないんでしょうけど」

脅すつもりもなく無意識でリアスは50歳近く年の離れた老人を脅しつける。もしも、お咎めなし、ということになれば、トニーだけでなく自分もどうなるかわからない、とジャンニは正しく理解する。そして、

(警察は信用できない)

と思っていた。トニーの父親はマズカ帝国の市警の幹部だ。以前、トニーが暴力事件を起こした際にも、少年の方に明らかに非があったにもかかわらず、何ら罪に問われることはなかった。

「わたしがいれば、どうとでもなりますから」

父親が自信たっぷりにジャンニに告げたのは、何らかの保証を与えたつもりだったのかもしれないが、大物プロデューサーはむしろ不快になったものだった。もしかすると、警察は既にトニーの凶行を把握していて、見逃しているのではないか、という疑惑さえ抱いていた。この手の犯罪者は何度も犯行を繰り返す、というのを男は経験で知っていた。だから、今夜の犯行が初めてだったとも思えない。

(結局、わしが自分でなんとかするしかないようだ)

短い時間に多くの思いが老人の胸に去来したが、

「ああ、そうだな」

と表情を変えずにもう一度頷く。

「こいつの不始末はわしの不始末でもある。これ以上あんたの手を煩わせるのも申し訳ないからな。わしがなんとかしよう」

そう、と麗しき侵入者は小さく頷いた。狙い通りに事が運んで安堵もしていた。

「それから、ついでと言ってはなんだけど、わたしが始末した他の2人のこともお願いしたいんだけど。どうもそれなりに地位も資産もある家の出らしいから」

「ああ。まかせてくれ」

毒を食らわば皿まで、の心境にジャンニはなっていた。トニーの悪い仲間なら心当たりもあった。どうにかなるだろうし、どうにかしないといけない、と心を決める。そこで、ふとあることに気づく。

「あんた、最初からそのつもりだったのか?」

「はい?」

可愛らしく首をかしげた少女に向かって、

「あんたの大事にしているお嬢さんたちを助けるために小屋に踏み込んだ、と聞いたが、その時点でこの馬鹿を生かしておくつもりだったのか?」

質問の意図を理解したリアスは「ああ、それは」とつぶやいてから、

「まあ、最初は皆殺しにするつもりだったけど、こいつの顔を見て、『グウィドラ』だ、って気づいたときから、こうすることに決めていたわ。有名人だから殺せないけど、その代わり利用させてもらおう、ってね」

恐ろしい娘だ、と男は思わざるを得なかった。芸能界と裏社会は密接に関係があるため、彼もその筋で凄腕とされる人間を何人も知っていたが、ここまでの実力と判断力を兼ね備えているのは記憶になかった。そのうえ、若く美しいと来ている。

「じゃあ、そいつの始末はお願いね」

夜更かしは美容に良くないのよね、と軽口を叩きながらリアスは窓から出て行こうとする。3階にあるこの部屋からも、彼女ならば怪我もせずに簡単に降りられると見当がついたが、

「待ってくれ」

思わず呼び掛けたジャンニに、

「あら、まだ何か文句でも?」

窓縁に長い左脚をかけながら、覆面の娘は男を見る。外から忍び入る寒気が彼女の長い髪を揺らしているのを眺めながら、「その、なんだ」と口ごもってから、

「きみとまた会えるだろうか?」

と訊ねていた。ジャンニも深い考えなしに言ったので、言われた娘の方も驚いて、黒目がちの目を見開いてから、

「なあに? もしかして、わたし、口説かれてるの?」

と噴き出した。

「ああ、いや、その」

じきに70代になる男の精神は少年時代のまだ恋を知らなかった頃に戻っていたのかもしれない。目の前の娘を見ていると、どうしようもなく胸が騒いでしまうのだ。

「そうね」

と、あまり気を悪くした様子も見せずにリアスは答える。自分の魅力に男が参るのを見るのは、まだ10代の少女でもそれなりに気分がいいものらしい。

「きっとまた会えると思うわ。そのとき、あなたがわたしに気づけるかどうかはわからないけど」

そう微笑んでから、

「じゃあ、おやすみなさい、ジャンニ」

そのまま窓から姿を消した。今まで彼女と過ごした時間が全て夢だったかのように思えて、ジャンニ・ケッダーは開いたままの窓の向こうに広がる夜明け前の一番暗い空を見つめ続けた。次に出会うときは、あの娘の素顔を見たい、名前も知りたい、と心から思っていた。青春を取り戻したかのように心が揺れ動くのを感じていた男は、

「う、う、う」

床を這いずり回るかのような呻き声を耳にして、現実へと帰還させられる。さっきまでのきらめきが消え失せた目は、金属で出来ているかのように冷たく硬いものになっていた。

「なあ、トニー」

かすかな意識の中で少年は、自分を諭す声を聞いていた。

「おまえは悪いことをした。とても悪いことをだ。わかるか?」

ティーンエージャーではなく、幼児を相手にするかのような語り口の中にとても恐ろしいものが潜んでいるのに神経の鈍いトニーでもなんとなく気づく。

「悪いことをしたら責任を取らねばならん。報いを受けねばならん。これはこの世の掟であって、誰も逃れることはできん」

少年は気づいていた。社長は何かを諦めたのだ、と。その「何か」とは一体何なのか。

(おれだ)

老人に見放されたことに気づいたアイドルは顔から涙と鼻水とよだれを噴き出しながら懸命に身体を捻って逃れようとする。だが、リアス・アークエットに四肢を破壊された彼の動きは緩慢なものでしかなく、

「心配するな」

ベッドからゆっくりと立ち上がったジャンニ・ケッダーの影が横様に倒れた少年の上に落ちる。

「おまえを苦しませたりはせんよ」

わしは誰かと違って快楽殺人者ではないからな、と思いながら厳父が放蕩息子を見下ろしていると、外から吹き込んできた風でランプの明かりが消え、暗闇に包まれた部屋からは何も聞こえては来なくなった。


その翌朝の出来事である。大会の三日前になって、「ブランルージュ」の目玉のひとつであった「グウィドラ」の出場がキャンセルされたと聞かされても、会見の場に詰めかけた記者たちに特に驚きはなかった。なにしろ、3人のメンバーのうち2人が既にマズカ帝国に帰ってしまっているのだ。唯一残ったトニーにだけ歌わせるのもきついだろう、と思っていたからだが、「グウィドラ」のマネージャーであるイチマの口から、トニーが昨晩遅くに友人とともに馬車で帝国への帰途についたまま行方不明になった、と聞かされるとさすがに騒然となった。トップアイドルが消息を絶っただけでも大事件だというのに、業界有数の敏腕マネージャーとして知られるイチマが号泣し、会見に同席した社長のジャンニ・ケッダーの肩を借りなければ立っていられないほど憔悴しきっていた、とあっては、かなり異様な事態が起こっているものと、マスメディアの人間も判断せざるを得なかったのだ。

「イチマさんは何らかの秘密をご存じだと思います」

会見を取材したユリ・エドガーは「デイリーアステラ」本社に戻ると、上司のチェ・リベラに報告した。

(なかなかいい勘をしてるじゃない)

若い部下を心の中で褒めてはいたが、彼の目の付け所は違っていた。

「ジャンニ・ケッダーはどんな感じだった?」

「ケッダー社長はとても冷静でした。自分の会社のタレントが大変なことになっているとは思えないくらいでしたね」

「ふうん」

眼鏡の少女の話を聞いた文化芸能部部長は天井を見上げて、

(ジャンニが動いて、後からそれをイチマさんに知らせた、というのが本当のところじゃないかしら)

と想像していた。まだ若いユリは知らないのだろうが、ジャンニ・ケッダーは今でこそ好々爺のように見えても、かつてはかなりの武闘派で、タレントの引き抜きを図ったライバルのプロダクションに殴り込みをかけるような男だったのだ。年齢を重ねても人間の本質は簡単に変わらない、とリベラは考えていた。

(「グウィドラ」の3人は素行がよろしくないと聞いてるから、おそらくそれが原因で御大が動いたような気がするけど)

派手派手しいスーツに身を包んだ見た目こそ際物めいているが、実はかなり優秀な記者であるリベラの推理は真実に限りなく近いもの、と言えたが、

「どうします? 『時報』と『王国キングダム』は取材班を作ってこの件を追うそうですけど」

とユリに言われたことで、心を決めていた。部下の少女の方を向き直ると、

「よしましょう。よそはよそ、うちはうちよ。わたしが部長のうちは読者の夢を壊すような野暮な真似は絶対にしないわ」

もとよりスキャンダルの追及をリベラは好んでいなかったので、そうなったことにユリもさほど驚かない。

「じゃあ、明日の紙面は予定通り、ということでいいですか?」

「ひとつだけ変更があるわ。ユリちゃん、あなたの書いたあの女の子たちの記事をトップにするつもりよ」

とても良く書けてたからね、と上司に告げられたユリ・エドガーはレンズを光らせて飛び跳ねた。頑張った甲斐があったというものだし、「セインツ」のみんなも喜んでくれるに違いない、と嬉しく思っていた。

「新年最初の号で「ブランルージュ」の特集を組むから、あなたもまだまだ頑張らないとね、ユリちゃん」

リベラにあまり上手でないウインクをされて、

「はい!」

少女記者は元気よく返事をした。


もし仮に、チェ・リベラがトニーの失踪について調査に乗り出していれば話は違っていたかも知れないが、結局、少年アイドルの行方は幹部である彼の父親の指揮の下、帝国の警察が全力で捜索したにも関わらず、判明せずに終わることとなった。アステラ王国とマズカ帝国の国境付近には昔から盗賊の集団が棲みついていて、トニーもその犠牲になったのではないか、という見方がなされ、いつしかそれが定説となっていった。

だが、この事件を巡る奇妙な噂はその後もたびたび流れた。帝国の首都ブラベリに霧の夜になると現れる殺人鬼の正体がトニーである、というものや、国境の森林地帯の奥深くにトニーの死体が埋められている、という話、また、ジャンニ・ケッダーの広大な別荘地の一角に立ち入りを禁じられた区画があり、そこにある建物に鉄仮面をかぶせられた何者かが幽閉されていて、その正体はトニーではないか、という噂まであった。とはいえ、どれもあまりに荒唐無稽すぎる、と考えられて、酒の席で冗談として取り上がられるのはまだしも、この手の与太話を真剣に吟味する者はいなかった。

大著「ケッダー家の興亡」の著者は、失踪事件に深入りすることを避けながらも、ジャンニ・ケッダーがインタビューにおいてトニーの話題をNGにしていたこと(チャドとカネロの話はOKだった)や、それまで彼がプロデュースしてきた男性アイドルは「グウィドラ」を含めて不良っぽさを売りにしていたのが、「グウィドラ」以降はまじめさ、優等生らしさを売りにするようになった点を指摘して、

「ジャンニにとって『グウィドラ』の存在が大きな蹉跌となり、人生のやや遅めの転換点となったのは火を見るよりも明らかだろう。トニーが姿を消した理由は不明なままだが、それが老社長の大きな心の痛手となっていたことも想像に難くない」

と記している。

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