第23話 盤面は覆る

形勢は逆転した。ここから先は、それまで「くまさん亭」を攻め立てていた「フーミン」が逆に押される側となる。この物語の世界には無い遊戯であるが、それでもあえて将棋にたとえるなら、大衆食堂が飛車角どころか香車も桂馬もない六枚落ちで、マズカ帝国のレストランチェーンだけは待ったがかけ放題、というほどにかけはなれた戦力差であったにもかかわらず、どうしてこのような事態になったのか。その問題について、後世の学者や研究者、一般の歴史ファンが長きにわたって議論を戦わせていくことになる。


「そもそもセイジア・タリウスと事を構えたのが間違っている」

当の女騎士本人がそう思っていたし、100年200年後も存在する数多くの彼女のファンはそのように主張するのだが、これはいささか「フーミン」に酷な見方だろう。街のどこにでもある食堂で伝説の女騎士が働いていると想像するのは極めて困難であり、しかも彼女が本職である戦闘以外でも高い能力を発揮すると予測するのもまた困難だったからである。

「シュバリエシチューの戦略が失敗した時点で一歩引くべきだった」

この意見に関しては一考の余地があるが、その当時において実行できたかというと、その可能性は極めて低い、と言わざるを得ない。仮に「フーミン」アステラ支社長トビアス・フーパスがそのように考えていたとしても、マズカ帝国の本社が認めるはずもなく、フーパスを「弱腰」と見て更迭したうえで後任の支社長に強攻策を継続させたことだろう。

フーパスに関しては、「金色の戦乙女」に楯突いた愚か者、という評価が定着している一方で、彼自身はさほどミスをしたわけではなく、弟のカルペッタ・フーパスの愚行に引き摺られて貶められすぎている、という見方もまた存在する。弟の愚行については、この後の物語で詳しく語られるはずだが、とはいうものの、「フーミン」を劣勢に導く最初の一歩を踏み出したのが、トビアス・フーパス支社長である、という見方もまた根強く存在するのであった。


「くまさん亭」への食材の供給の妨害、を「フーミン」の最初の悪手だと考える後世の研究者は多い。それまでの、「くまさん亭」の至近距離への14号店の出店、「シュバリエシチュー」の発売も、大衆食堂を潰すための作戦ではあったのだが、それらには「フーミン」の販売促進という建前が存在していて、攻撃として明確なものではなかった。しかし、仕入れの妨害はそうではなく、「くまさん亭」への明らかな敵対行為にほかならなかった。それによって、「フーミン」はそれまでとは一段階あるいは二段階は違うレベルに足を踏み入れていたのだが、それを決定したトビアス・フーパスにはそこまでの覚悟はなく、

「食料がなくなればあの食堂はすぐにもたなくなる」

くらいの安易な考えでいたのではないか、というのが多くの研究者の見立てであり、それが「フーミン」を取り返しのつかない状況へと追い込むことになった、とも考えられているが、残念ながらこの点に関するフーパス自身の証言は残っていないので、その点は推測に頼らざるを得ないのが実情である。

妨害自体は成功した。金をばらまき、それでなびかない相手は支社長の手先として動いていた「影」が暴力を駆使して言うことを聞かせた。問屋もギルドも「フーミン」の思うがままとなり、「くまさん亭」に食糧を供給する道は絶たれた、はずだった。しかし、そんな圧倒的な不利な状況を、セイジア・タリウスがかつてともに仕事をしたシュウ・マグラに依頼して、なんとか乗り切ることに成功したのは、この物語でも語った通りであるが、マグラを味方につけたことによって、女騎士も予測できなかったことが起きた、というのが以下に紹介する逸話である。


その日の仕事を終えて、シュウ・マグラは馴染みの酒場に立ち寄ることにした。「くまさん亭」への食料の運び込みが安定し出していることで、男の表情は緩み、顔からもいつものいかつさは少しだけ消えていた。

「いらっしゃい」

よく見知ったバーテンダーに迎えられ、カウンターに近づき早速酒を頼もうとすると、

「そんな奴に酒なんてやるな」

と、後ろから罵声が飛んできた。聞き覚えのある声だ、と思いつつマグラが振り返ると、何人かの同業者の見覚えのある顔がテーブル席に集まっていた。この酒場は運送業者の集まる店でもあった。

「よくおめおめと顔を出せたもんだ」

「裏切り者に出す酒なんかねえ」

帰れ、帰れ、と怨念に満ちた声が飛んできて、酒を出そうとしたバーテンダーもどうしていいかわからずに立ち往生している。やれやれだ、とマグラは広い肩をすくめる。「くまさん亭」の仕事を引き受けて以来、こういったことは毎日のように起きていた。当てこすりや嫌がらせも日常茶飯事だ。理由はどうあれ、同じ仕事をしている人間が自分たちとは違う動きをしているのが許せないのだろう。狭い業界ではよくあることだ。しかし、シュウ・マグラは一向にへこたれていなかった。その理由を仲間たちにも説明しよう、とテーブル席へ近づいていく。マグラの動きが予想外だったのか、運送業者たちの顔に動揺が見えた。なんだ、やる気か、と口だけは威勢はいいものの、明らかに腰が引けている。

「ああ。確かにおれは裏切り者かもしれんな。あの食堂と仕事をしちゃならねえ、っていうのが業界みんなの考えだというなら、間違いなくそうだ」

そう言いながらも、マグラの顔が晴れ晴れとしているのを、座ったままの男たちは口をあんぐりと開けてみている。

「だが、おれはこの業界なんかよりも、もっと大きなもののために仕事してるんだ。だから、ここのところ毎日楽しくて仕方がない。おまえらはどうだ? あんな小さな食堂をいじめて楽しいか? その酒はよその国の会社からもらった金で飲んでるのか?」

痛いところを突かれたのか、黙れ、とか、馬鹿、とか反論にもならない精神年齢の低さを証明する声しか飛んでこない。

「なんだよ、その『もっと大きなもの』って?」

ぼそぼそと訊いてきたのは、マグラの友人だ。長年の付き合いだったが、「くまさん亭」のことがあって以降疎遠になっていて、話をするのは久しぶりだった。よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに胸を張ると、

「何を隠そう、おれはセイジア・タリウス様から頼まれて今の仕事をしてるんだ。あのお方のために働けるなんて、こんな光栄なことはないってもんだ」

驚きのあまり、一同が黙り込んだ後で、嘘つけ、と罵声が飛んできたが、

「まあ、信じられないのも無理はないが、そう思うなら、ぜひうちの会社に来てみるといい。ちゃんと証拠はあるからな」

そう言うと、シュウ・マグラはそれまでにやけていた顔を一変させて、表情にすごみを利かせる。もともといかつい顔なので効果は絶大だった。

「おれが業界の裏切り者だというなら、おまえらはこの国を裏切って、セイジア様を裏切ってるんだよ。いったい、どっちの罪が重いんだろうな?」

そう言うと、カウンターに戻って、

「セイジア様のために働いているおれに一杯くれないか?」

と頼んだ。かのうるわしき女騎士のためならば、とバーテンダーは笑顔で酒を用意した。その夜、マグラは酒を楽しんだが、同業者たちは終始暗い顔をしていたところを見ると、マグラと同じというわけでもないようだった。


シュウ・マグラはセイジア・タリウスの武名を積極的に持ち出したわけではなかった。崇拝に近いレベルで尊敬している金髪の少女騎士の名前を軽々しく出したくない、と思っていたからだが、結果的にそれが効果的な手段となっていた。彼女の気配がある、というだけで、アステラ王国の人々は大いに反応するのだ。そして、「マグラ通運」を訪れた人間が、社長室の机の上にきちんと額装された女騎士からの手紙があるのを目撃した、との情報が流れると、飲食店ならびに運送業に携わる人々は完全に震え上がり、そして彼らが所属するギルドにもそれは当然大きく影響した。

「自分たちはセイジア様のお考えにかなわないことをしている」

そう思うとどうしても気分は落ち込んだ。それと同時に、自分たちをこのような事態に陥れた「フーミン」への反感が高まった。もともと強引なやり方で追い込んできた相手に好意など持てるはずもなかったのだ。そして、もうひとつ、トビアス・フーパスが無視ないしは軽視していることがあった。それは、今進出しようとしている場所はマズカ帝国ではない異国の地である、ということだ。ナショナリズム、というものはこの物語の世界でも存在していて、外国の人間に好き勝手にされて素朴な一般市民が良く思うわけがなかった。フーパスだけでなく、マズカ帝国にはアステラ王国を下に見る風潮が広く存在していたのだが、それが影響したのか、作戦立案を担当していた支社長はそのあたりのフォローを完全に怠っていて、それが戦略の破綻へとつながっていったのだった。


そんな状況の中、兄トビアスに呼ばれてやってきたカルペッタ・フーパス主導のもとに行われた「くまさん亭」への嫌がらせが、結果的に「フーミン」をさらに苦しい状況に追い込むことになる。もとより軽薄この上なく野生動物ほどの知能もないフーパス弟は、嫌がらせをすればすぐに店をたたむだろう、と子供のいじめと同様の感覚で行為に及んでいたのだが、大人の世界はそんな単純なものではない。嫌がらせを見れば、嫌がらせをされていない他人でも嫌な思いをするもので、そしてそのネガティブな感情が何処へ向かうかといえば、嫌がらせをしている方に決まっていた。では、誰が「くまさん亭」に嫌がらせをしているのか、というと、食材の供給も邪魔していた「フーミン」だろう、と人々が考えたのは当然のことだった。しかも、その嫌がらせは連日続き、人々の不快感は高まっていき、それに比例して「フーミン」への反感も高まっていった。そして、セイジア・タリウスはこの状況を正確に読んでいた。

「嫌がらせが続けば続くほど、こちらは同情され、向こうは嫌われていく一方なのだが、やっている方は気づいていないらしいな」

好き嫌い、というものが決して馬鹿にできないことを、戦場での経験から彼女はよく知っていた。いかに強かろうと愛されない人間は部下に謀反を起こされたり領民に反乱を起こされたりするのだ。そして、この状況を女騎士はしたたかに利用しようとしていて、「くまさん亭」の店員のコムが自ら犯人を捕えようと提案したのを止めたのも、そういう考えがあったからだった。反撃してしまえば嫌がらせをしている方と対等の立場になってしまう。世間一般の人は「どっちもどっち」と思いたがるものらしく、「被害に遭った方にも何か落ち度があったに違いない」と探そうとするなんともいやらしい側面も持っているのだ。

「なんとかもちこたえるんだ。そうすれば味方は必ず増える」

少女騎士の思いを証明するかのように、嫌がらせをされている間、店の客足は減ることなく、むしろ激励に訪れる人が増えたくらいだった。そして、「くまさん亭」の女主人ノーザ・ベアラーが驚いたことに、何人かの同業者や運送業者もひそかに励ましてきたのだ。

「表には出せないけど、何か困ったことがあったら言ってくれ、だって。どういう風の吹き回しだろうね」

そう言いながらも彼女が嬉しそうにしていた様子が、ある民間人の記録には書き留められて、今に残されている。それだけ「くまさん亭」への同情もしくは「フーミン」

への反感が高まっていた、ということでもあるだろうし、シュウ・マグラの酒場での言葉も少なからず影響していたものと思われる。

また、セイジア・タリウスや「くまさん亭」の人々は知らないことだったが、「くまさん亭」への嫌がらせが続いている間に、「フーミン」のいくつかの店舗も嫌がらせを受けていた。店先を汚される、という「くまさん亭」と同様の手口で、報復なのは明らかだった。誰がやったのかは不明で、外国の店への反発がそうさせたのか、義憤にかられて行動に及んだのかもわからない。仮に女騎士がそれを知っていれば「余計な真似をするな」と憤ったはずだが、トビアス・フーパスはその情報を聞いて震え上がっていた。

「弟のやったことへの仕返しだ」

自らの主導で大衆食堂を追い詰めておいて、弟の行為も黙認しておきながら、いざ自分の身にトラブルが降りかかるとあっさり参ってしまう、というのは何ともだらしのないことだが、「くまさん亭」への嫌がらせが8日間で終了したのは、そのような事情もあったからなのである。


しかし、嫌がらせが終了した、終了せざるを得なかった最大の要因は、カルペッタ・フーパスが8日目に行った街中への怪文書のばらまき行為であったのは間違いない。

「あいつら、しつこすぎだっての」

店先を汚す嫌がらせが功を奏しないと見るや、品のない金髪の男は過去の成功体験に基づいてビラを撒くことにしたのだ。そうすれば、あの食堂の評判はガタ落ちになり、客も来なくなり、店も閉めざるを得なくなる、と単細胞生物ほどの知性でそう考えたようだった。

だが、これはかなりの悪手であった。フーパス弟には想像も及ばなかったかもしれないが、怪文書をベタベタ貼られた側は「くまさん亭」よりもまず貼った人間に対して怒りを感じたのだ。そして、その犯人の見当もおおよそついている、ということもあって、「フーミン」への悪感情は相当なものに高まってしまった。現に、その日のうちに市警とギルドには被害に遭った店から報告が多数寄せられたのだが、中には「フーミン」を名指しで取り締まりを要求する声もあったという。また、「フーミン」の店員が客から、「よくあんなことできるね」と文句とも皮肉ともつかないことを言われた、という事例が怪文書が撒かれた当日だけで複数あった、と聞かされれば、小心な支社長がショックを受けないはずもなく、ただちに弟に中止を命じたのは言うまでもないことだった。


だが、怪文書をばらまいた影響は後々まで残ることとなった。まず、市警が捜査に乗り出してきたのだ。基本的に市警は動きの鈍い組織で、民間の揉め事は可能な限り民間で解決してもらおう、という立場を取っているのだが、嫌がらせを受けた食堂の女性店員―もちろんその正体はセイジア・タリウスである―が持ってきた怪文書の束を見た上層部はさすがに顔色を変えた。無視するにはあまりにも量が多すぎたのだ。

「これは放置できない」

「くまさん亭」からの要望はすぐに認められ、夜間のみならず日中の見回りの強化、女主人の警護、などが実行する運びとなった。実は本編のヒロインもこれを狙っていたから、繁華街で怪文書を撤去したときに「捨てないでくれ」と一緒にいたコムに頼んだのである。それだけでなく、警察の職務として、犯人の検挙も目指すこととなった。ただし、「フーミン」が関係していると想定されたことが捜査を難しいものとしていた。何と言っても外国の大企業が相手なのだ。どんな横槍が入るかもわからない。

「有無を言わさぬ証拠が必要だな。いっそのこと、現行犯で捕まえてしまえば、向こうだって文句は言えないはずだが」

捜査主任はそう言って、部下に慎重に動くように求めた。しかし、慎重な動きであっても、水面を伝わる波紋のように影響は広がっていき、

「『フーミン』が何かしでかして、警察が動いているらしい」

という噂が業界で周知のものとなるのにさほど時間はかからず、トビアス・フーパスをこの上なく憂鬱な気分にさせた。すぐに検挙されることはないにしても、軽々しく動くことは許されない、ということでトップのみならず「フーミン」アステラ支社全体に緊張が走るようになっていた。もっとも、それはカルペッタ・フーパスをのぞいて、という話ではあって、支社長の出来損いの弟は会社をさらなる窮地へと突き落としていくこととなる。


そして、もうひとつ、怪文書が生み出したものがあった。ビラが撒かれた2日後の朝、新聞に目を通したトビアス・フーパスは言葉を失った。「デイリーアステラ」の社会面の中央に、「くまさん亭」を取り上げた小さな記事が載っていたのだ。小さな食堂を健気に切り盛りする未亡人、地域の人々に愛される数々の料理、そういったことが丁寧かつ詳細に描かれていた。

「なんということだ」

フーパスがいくら臆病でも、それだけならショックは受けなかっただろう。彼に衝撃を与えたのは、記事の中の、

「『くまさん亭』の経営は厳しい。だが、どんな大きく黒い影が待ち受けていようと、女主人はこれまで通りたくましく乗り越えていくことだろう」

という一文だった。この「大きく黒い影」というのは明らかに「フーミン」を指している、と彼は受け取っていたし、多少事情を知っている人間はみなその記事を目にして、「フーミン」のことだ、と考えていた。

「あからさまなあてこすりだ」

と支社長は腹を立てたが、最大の問題はそんな文章が公然と新聞に掲載されたことだ。アステラ王国には、「アステラ時報」、「王国キングダムニュース」、「デイリーアステラ」という3つの新聞が存在していて、そのすべてに「フーミン」は広告を出している。新聞もまた商売である以上、スポンサーの顔色をうかがう必要もあるため、これまで「フーミン」に都合の悪い記事は載ることがなかったが、どうやら新聞業界にも空気の読めない人間がいるらしかった。こうしてみると、「くまさん亭」を好意的に紹介すること自体が「フーミン」への批判になっているのではないか、とフーパスは疑心暗鬼に駆られた。

「いまいましい。広告を取り下げてやる」

支社長は怒りのままにそう決めたが、「デイリーアステラ」を担当している人間に落ち着くように言われていったん考え直すことにした。その判断が正しかったのかは知らないが、その次の日の朝、フーパスはもう一度言葉を失うこととなった。今度は「アステラ時報」と「王国ニュース」が「フーミン」に批判的な記事を載せてきたのだ。もちろん、明確に批判しているわけではないが、遠回しな書き方をしている分、余計に毒を感じさせる記事で、支社長の頭に血が上って、あまりに上りすぎて午前中は顔が赤いまま過ごすことになってしまった。このような事態になったのは、「デイリーアステラ」の記事を読んだ「アステラ時報」と「王国ニュース」の人間が、

「おや。『デイリー』さんがこんな風に書いた、ということは、『フーミン』を批判しても、もうOKなのかな」

と判断したからなのだろう。ジャーナリストにもそんなずるい一面があるようだ。ともあれ、新聞紙上での「フーミン」批判はなしくずしに解禁される格好となり、トビアス・フーパスを毎朝悩ませることとなったのであった。


「フーミン」批判の口火を切った「デイリーアステラ」の記事を書いたのは、新米記者ユリ・エドガーだが、この記事の執筆に関してはひとつの逸話が残されている。

市警本部で怪文書の存在を知った彼女はすぐに「くまさん亭」まで取材に赴いて、女主人から話を聞くと、自宅で徹夜で原稿を書いたのだが、

「だめだ。まるで使い物にならない」

翌朝原稿に目を通した「デイリーアステラ」社会部長ウッディ・ワードに全部ボツにされてしまった。しかし、彼女はそれでもへこたれることなく、何度も何度も書き直し続け、結局その日は一日中休むことなく食事を摂ることもなく机に向かい続けた。目だけをぎらぎらと輝かせて執筆に没頭するユリに、いつもは小馬鹿にしている先輩記者も何も言えずに圧倒されるばかりだったという。

(もんきちにはまだ早かったか)

と最初は思っていたワードもしつこく食い下がる少女の度胸と、注意されたことをきちんと直してくる適応能力の高さを認めて、予定していた取材をキャンセルしてユリに付き合うことにした。後になって、「どうしてそこまでして少女の面倒を見たのか?」と訊かれたワードは、

「別に面倒を見たつもりはありません。あいつが2回目か3回目に原稿を直しに持ってきたときに、『こいつ、絶対に引かないつもりだな』ってわかったから、こっちもついむきになっただけです」

と苦笑いしながら語ったという。そして、夕方になって原稿は完成した。ユリが希望していたトップは無理だが、社会面にそれなりのスペースは確保して載せてもらえるという。頭も身体もへとへとなので喜びたくても喜べないまま、年代物のアパートの狭い一室に戻って休もうとすると、突然不安になってきてしまった。

(どうしよう。もしかすると載っていないかもしれない)

そう思うと、明かりを消してベッドに入っても眠れない。「フーミン」が文句を言ってきてボツにされるかも知れないし、あの頑固なデスクがいきなり考えを変えてやっぱりボツにするかも知れない(あとでそれを話して、ユリはワードに死ぬほど怒られた)。とてもじっとしていることなどできなかった。

そういうわけで、夜中に家を飛び出すと、ユリ・エドガーは会社の近くにある印刷工場まで走って行った。実際の紙面を目にするまでとても信じられなかったのだ。

「おや。ユリちゃんじゃないか」

記者に採用される前はこの工場で働いていたこともあったので、工場長は顔見知りだった。だから、頼めばすぐに中に入れてくれた。

「もう明日の新聞を刷り始めているところだよ」

機械が大きな音を立てて動いている。その周りにたくさんの工員が固まっているのが見えた。ローラーからレーンに弾き出された新聞をまとめて縛り、街へと配達に向かうのだが、そのうちのひとつをユリは抜き取って開いてみる。出来上がったばかりでまだインクも乾いておらず、強い臭いが鼻をついた。おそるおそる社会面を開き、真ん中を見ると、そこには「くまさん亭」について書かれた記事が確かに載っていて、その末尾には「ユリ・エドガー」の署名があった。

(わたしの文章が、わたしの名前で載っている)

昼間、ウッディ・ワードからいくら厳しく注意されても表情を変えなかった少女が泣き崩れていた。レンズが濡れるほどに涙が流れたが、それでも止めることができない。

「そうか。ユリちゃんの書いた記事が載ったんだね。おめでとう」

事情を知った工場長に肩をそっと叩かれてユリ・エドガーは何度も頷いた。後で工場長からその話を聞いた少女の上司は、

「それくらいで泣いてもらったら困る。あいつにはこれからたくさん記事を書いてもらわないといけない」

と褒めているのかよくわからないことを言った後で、

「まあ、あの『大きく黒い影』という言い回しはどうかと思ったが、いくら言っても直さないから、根負けしてそのまま載せてしまったんだけどな」

とも言ったという。つまり、トビアス・フーパスを不快にさせ、他の新聞社が「フーミン」を批判するきっかけになった表現は、少女記者ユリ・エドガーの独創だった、ということになるわけだった。


この物語で語られてきた、「くまさん亭」と「フーミン」の争いはこれから終盤へとさしかかる。流れが変わったとしても、どちらの勝利で終わるかはまだわからない、とここでは一応書いておくが、戦いというものは終わりに近づけば近づくほど凄惨を極めるものであり、それはこの物語においても変わりはないのは確かである、ということもまた記しておきたい。

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