第15話 過去の女騎士さん、人生最大の試練に直面していた

「セイ、おまえには炊事を担当してもらう」

「わたしがですか?」

いつものように野外に手早く設営された陣地で、天馬騎士団団長オージン・スバルの命を受けた13歳のセイジア・タリウスはあからさまに不服そうな顔をした。小枝のような細い身体と短く刈られた金髪を見る限りでは少年のようにしか見えないが、れっきとした少女である。

「ああ、しっかり頼むぞ」

少女の不満など見なかったかのように団長は速やかに立ち去った。騎士団に入って間もなく、遠征に帯同させてもらった喜びはすっかり消し飛んでしまっていた。食事当番などではなく、もっと戦いに関係のある、勇ましい仕事をしたかった。セイとほぼ同時期に黒獅子騎士団に入ったシーザーとかいう生意気な少年は武具の整備を言いつけられたそうで、自分もそういうのがよかったのに、と桃色に光る唇を少女は尖らせる。

(わたしが子供だから、女だから、団長は見くびっておられるのだ)

とは言いながらも、団長の命に逆らうわけにもいかないので、炊事場へと足を向けた。料理長はツンジという丸い顔をした太った男だった。元々は騎士だったが、怪我で前線に立てなくなり、やむなく自己流に料理の腕を磨いてきたという。他の炊事係も同じように、まともに戦うことのできなくなった元騎士が集められていた。やってきた少女に、ツンジは簡単な食事の準備をするように言いつけた。

(こんなの、騎士のやることじゃない)

しかし、セイにまともに聞くつもりはなかった。さすがに無視はしなかったが、きわめていい加減な仕事しかせず、言われたことを一通りやると、すぐに炊事場を離れて、本来騎士がやるべきだと彼女が信じる、剣や槍の練習に励んでいた。そうする方が食事の準備よりずっと大事だと思っていたのだ。不真面目としか言いようがない少女の態度にも、料理長は鷹揚な態度を示し続け、それから3日目が経った夕暮れ時に、セイは団長に呼ばれた。

「今夜の食事はこれを作ってくれ」

歴戦の騎士は新参の少女に紙を手渡した。書かれてから相当な時間が経ち、黄に変色した紙には、材料と調理方法が書かれている。

「何かのレシピですか?」

「ああ。わが騎士団に代々伝わる由緒あるメニューでな。それを今夜は食べたいのだ」

そう言うとオージン・スバルは威儀を正し、

「ただし、セイ。おまえひとりで作るんだ。料理長も、他の人間の助けも借りてはいかん」

革の鞭をふるったかのような鋭い口調で言われて、セイの背中に冷や汗が流れる。貴族として生まれ育った少女に実家で料理の経験などあるはずがない。せめて、炊事当番を真面目にしていれば少しはましだったかもしれない、と今頃悔やむ羽目になっていた。だが、レシピに目を通してみたところ、さほど難しいことは書かれていないように見えた。

(シチューだ。なんとかなりそうな気がする)

そう思った少女は炊事場まで走ると急いで調理に取り掛かった。既に事情を知っていたのか、料理長は何も言わずに何も手を出すことのないまま、セイが調理台で悪戦苦闘するのを見守っていた。1時間以上、食材と格闘した末に、なんとかシチューらしきものを仕上げることができた。さっそく、団長専用のテントまでシチューの入った深皿を運んだ。

「すぐに食べ終わるからそこで待ってろ」

背筋を伸ばし椅子に腰かけたまま、団長は木のスプーンを木の皿へと入れ、熱い汁を口へと運んだ。「まずい」とすぐに吐き捨てられるかと思いきや、男は表情ひとつ変えぬまま、シチューを食べ続けた。

(よかった。食べてくれた)

少女はほっと安堵の息をつく。皿を空にすると、スバルはそれをテーブルの上に置き、セイの方を見た。

「セイジア・タリウス」

「はいっ」

「気を付け」の姿勢を取る少女。

「おまえは自分のすべき仕事を怠った。実に許しがたいことだ」

決然とした口調とともに黒々とした瞳に直視されてセイは身動きもままならなくなる。

(そんな。全部食べ切ったのに)

少女の思いは司令官にはお見通しだったようで、

「いかなる時も出された食事は残さないのが騎士のマナーだ。たとえ、それがどんな代物であろうとな」

と言い切られた。

(ろくでもないものを食べさせてくれたな)

という憤りが込められた言葉だった。自分が恐ろしい過ちを犯してしまったことにようやく気付いた少女は全身をがたがた震わせてから、深く頭を下げた。

「団長、まことに申し訳ありません!」

「貴族の娘の言葉など軽すぎてわたしの胸には響かんな」

そう溜息をつかれて、少女の頭が、かっ、と灼熱と化す。見くびられている。馬鹿にされている。だが、そう言われても仕方のない愚かな真似をしてしまったのだ。

「真の騎士ならば、償いは言葉ではなく行動でするものだ。いいだろう、もう一度チャンスを与える。今度こそまともなものを食わせてくれ」

それから、と眩い眼光とともに男が告げる。

「それができるまでは任務にも訓練にも参加することは許さん。わたしが命じたことをできない人間を騎士として働かせることは断じて認めない」

その言葉を聞いたセイジア・タリウスは暗い奈落へと突き落とされた気分になった。


(わたしは騎士になるために家を飛び出してきたのだ。食事の係になるためなどではない)

口惜しさと腹立たしさでべそをかきながらも、炊事場に戻ってきた少女は、まず最初に鍋から自分の作ったシチューを掬って味を見てみた。

(なんだこれは。えぐい)

とても食べられたものではない。団長はよくこれを完食したものだ、と感心すらしてしまう。自分が食べられないものを他人に食べさせようとするなど、非常識にも程がある、とセイは自らの愚かさに頭を抱えてしまう。

(わたしはなんという馬鹿者なんだ)

しかし、セイジア・タリウスはただの貴族の娘ではなく、一度の失敗にくじけることのない、倒れても立ち上がろうとする根性を生まれながらに備え持っていた。ズボンのポケットに突っ込んだままにしてあったレシピを取り出すと真剣なまなざしでそれを眺め出した。

(同じ過ちを繰り返してたまるか)

そう誓った少女は、すぐにレシピを読み込み出した。ここに書かれてある通りに作れば、団長の納得するシチューが出来上がるはずなのだ。その夜からセイはレシピ通りに料理を作り上げようと懸命になって努力を始めた。材料の切り方も、火を通す時間も、記述通りにするよう最大限注意を払い、そして、何度も試食を繰り返した。その様子をツンジを始めとした炊事係たちは遠巻きに見てはいたが、誰も彼女に話しかけようとはしなかった。それから10日が経った。

(これ以上のことはできない)

何度失敗を重ねたのかわからなくなるまで奮闘を続けた結果、今の自分にできることはすべてやった、と夕暮れの炊事場に立ったセイは判断するに至った。彼女の目の前にはぐつぐつと煮えたシチューの入った鍋がある。味見をすると、ちゃんと食べられた。この前からは格段に進歩しているように思えた。

(今度こそ団長に認めてもらうんだ)

セイは再び皿をオージン・スバルのテントまで運んだ。早く訓練に戻りたい、という思いもあり、すぐに判定してほしかったのだ。

「ふむ」

シチューを眺め、匂いをかいでから、男はおもむろにスプーンを口へと運ぶと、滞ることなく完食した。この前のこともあり、食べ切ったとはいえ油断することはできず、セイは息を飲んで感想を待った。

「確かにレシピ通りに作られてはいるようだ」

狙い通りに行ったのが分かって、喜んだのも束の間、

「だが、ただそれだけだ。つまらない料理だ」

スプーンがテーブルの上に抛り投げられ、再び少女は奈落へと突き落とされる。それも前よりもずっと深くずっと暗い谷底へと落ちていく。

「そんな。書かれてある通りに作ってもダメなら、いったいどうすればいいんですか?」

「それはおまえが自分で考えることだ。それくらいのことを思いつかないようでは、この天馬騎士団ではやっていけない」

(無茶苦茶だ)

解決策を思いつくこともできず、かといって団長に反論することもできず、恐慌状態になるセイを見て、騎士は溜息をつく。

「おまえは失敗を繰り返した。本来であれば断じて許さないところだ」

(まさか、追い出されるのか。やだ。そんなのはやだ)

セイの胸にたちまち涙がこみあげてきて、絶望の叫びを上げそうになる。

「だが、おまえはまだ新人だ。それに加えて、努力の跡は一応見えたのを評価しないのも公平ではない。よって、今回だけは特別にもう一度だけ機会を与えよう。ただし」

男の眼光が少女を射抜く。

「これが本当に最後だ。次しくじれば、そのときは必ず出て行ってもらう。わかったな?」

涙を流しながらも、それでも団長から目をそらさずに「はい」としっかり答えたのは、少女なりのプライドだったのかもしれない。


(しかし、いったいどうすればいいんだ)

追い出されなかったことに安堵しながらも、夜更けにでセイは何度も寝返りを打った。新米の彼女は他の団員と共用のテントを寝床としてあてがわれていた。

(わたしには、あれ以上どうしたらいいのかわからない)

レシピ通りに作っても、ただそれだけ、と言われてしまった。それ以上の何かが必要なはずだが、それが何なのかわからないまま、眠ることもできず朝を迎えていた。

それから何日か、セイは炊事の係を続けながらも、突破口を見いだせないまま鬱々とした日々を送っていた。料理を続けていれば何かつかめるかもしれない、と思って、炊事係としてツンジの指示通りの作業をこなしてはいたが、何も手がかりをつかめないまま、むなしく時間だけが経った。

(今度こそ成功しないといけないのに)

いつ団長に呼ばれるかもわからない恐怖に脅え、不意に涙がこぼれるようになってしまっていた。なけなしの勇気すらも失いかけ、少女はそんな自分をこの上なく無様だと思うようになっていた。


セイは食事に関する作業をすることでヒントを得ようとしていたが、皮肉なことに全く逆の出来事から彼女は気づきを得ることになった。団長への料理が2度目の失敗に終わってからしばらく経ったその日、天馬騎士団は運に見放され食糧を手に入れることができなかった。朝から強い雨が降り続いたこともあって補給線は絶たれ、加えて敵が近くに潜んでいるとの報告を受けたため徴発に出ることもできず、騎士たちは廃城に拠って夜を過ごすことにした。

「明日には天候が回復するからそれまでの辛抱だ」

敬愛の的であるオージン・スバルの言葉に励まされた男たちは不満を漏らすことなく、なるべく腹を空かせないように地面に横たわったり、崩れかけた石垣に背中を預け、ただ時が経つのを待った。

(おなかすいた)

黒の雨がっぱを着込んだセイジア・タリウスはとぼとぼと城の周りを歩いていた。貴族の家に生まれ育った少女は食事に事欠いたことはなく、ひもじい思いをすることのないままこれまで生きてきた。そんな彼女にとって初めて味わう欠乏感だった。水だけは城内の井戸や溜められたものが十分あったので、がぶがぶ飲んで空腹を紛らわそうとしてみたが、身体の中からたぼたぼと音がするようになっただけで、かえって苦しくなった気もしていた。

(ごはんがないというだけで、こんなにも不安になるのか)

見渡してみると、他の騎士たちの顔も一様に暗かった。自分だけでなく、みんな不安なのだ。このままだと、敵と戦うまでもなく負けてしまう。そう思って、セイはふと立ち止まる。

(そうか。そのための食事なのか)

少女の頭に閃くものがあった。騎士にとって敵は人間だけでなく空腹や飢餓とも戦わねばならないのだ。それに勝利を収めるためには食事が必要で、炊事係が食事を作るのもまた戦いなのだ、とセイは悟っていた。

(いや、それだけじゃない)

ただ腹を満たせばいい、という話でもない、と追放されかけの新米騎士は思う。美味しい食事も騎士には必要なのだ。まずい食事は人を落ち込ませ、落ち込んだ人間はつまらない失敗をする。そして、戦場での失敗は死につながる。それを防ぐのもまた炊事係の使命なのだ。

(なんて馬鹿だったんだ、わたしは)

降りしきる雨の中で、少女は炊事の重要性に気づかず、仕事を舐めていた自らの不明を悔やんでいた。ただ、もう涙は流れなかった。自分が何をやるべきかようやく理解していたからだ。団長は最初に炊事を担当するように命令したではないか。まずはその勤めをしっかりと果たすことから始めるべきだった。

(団長が満足するシチューを作る方法をわたしは知らない)

勇気を取り戻したセイジア・タリウスの頭脳は冴えわたり、青い瞳は夜の雨の中でも輝きを失わない。

(でも、わたしが知らなくても、他の誰かは知ってるかもしれないじゃないか)

オージン・スバルに炊事を担当するように言いつけられてから初めて少女は笑みを取り戻していた。


「お願いします! わたしに料理を一から教えてください!」

翌朝。ようやく届けられた食材を使い、急いで朝食を作ろうとしていた料理長のツンジに向かってセイジア・タリウスが頭を下げていた。

「今まで言うことを聞かずに本当に申し訳ありませんでした。わたしを騎士と思わずに、どうか炊事係として働かせてください!」

その言葉に嘘はなかった。騎士であろうとする気持ちを忘れないと上手く行かない、とセイは覚悟を決めていた。ただ、今までの不真面目な仕事ぶりから断られても仕方ないと思っていた。だが、それでも頼み込むより他に仕方なかった。

「やっと頼みに来てくれたね」

意外なことにツンジはセイの懇願に優しく答えた。

「え?」

「お嬢ちゃんが最近頑張るようになってくれたのはわかってたんだけど、どうにも危なっかしくて、いつもハラハラしてたんだよ。でも、団長さんに『あいつが自分から頼んでくるまでは手を出さないでくれ』って言われてたから、教えることもできなくて困ってたんだ」

「団長がそんなことを?」

いったいどういうつもりなのか、上司の考えが分からずに少女騎士はとまどう。

「それじゃあ、早速シチューの作り方を教えてあげようか」

「いえ、その前に基礎から教えていただきたいのです」

セイの申し出に丸顔のコックは目も丸くする。

「基礎から、かい?」

「ええ。わたしは基本的なことも何も知らないのです。それなのに料理を作ろうとするのはおこがましい、とようやく気付きました」

セイが目指す騎士に例えるなら、身体を鍛えないまま、鎧を着こまないまま、戦場に飛び出すにも等しい、それくらいの愚行だと少女は感じていた。

「でも、それだとかなり時間がかかるよ。お嬢ちゃんは早く騎士になりたいんじゃないのかい?」

「かまいません。今のわたしは騎士ではなくまず炊事をやらなければならないのです」

セイの本気を見て取ったツンジはその朝から本格的に鍛えることに決めた。道具の使い方、食材の見分け方、配膳の仕方など何から何まで手取り足取り丁寧に教えた。教え始めてみて気づいたが、少女は実に優秀な生徒だった。指導されたことを忠実に実践し、知識を水を吸うスポンジのように吸収していった。そして、少女の方も技を身につけるだけでなく、料理をすることにやりがいを感じ出していた。


セイがツンジの指導を受け始めてから1か月余りが経ったある日、天馬騎士団は森の中で夜を過ごすことに決め、騎士たちに食事が振る舞われていた。

「はい。どうぞ」

「お、すまないねえ」

クリーム色のエプロンを身に着けたセイジア・タリウスからスープの入った皿を受け取ったいかつい騎士が満面の笑みを浮かべる。最近、セイはこの格好で朝晩の食事の用意をするようになり、「食卓の妖精さん」と騎士たちには好評を博していた。金髪の少女がせわしなく食事の用意に動きまわる姿は、長い遠征の中での男たちの数少ない楽しみになっていた。幸運に恵まれているのか、この遠征で敵と接触することは無かったが、それはそれで暇で仕方がない、という問題もあったのだ。

(やることが多くて大変だ)

今日は珍しく果物も手に入ったので、早くみんなに食べさせたい、と思いながら、また皿にスープを入れていたセイの背中を、どん、と何者かが突き飛ばした。幸いスープをこぼさなかったからよかったものの、危うくやけどをするところだった。こういういたずらをする人間の見当はついている。まともな騎士はこんなつまらないことをしないから、半端者の仕業だ。

「またおまえか、シーザー」

振り返るとシーザー・レオンハルトがにやにや笑っていた。黒髪を逆立てた背だけはやたらに高い生意気な少年だ。今日は黒獅子騎士団も近くに野営しているらしく、わざわざやってきたらしい。

「よう、タリウス。おまえ、騎士を辞めたらしいな」

「はあ?」

「毎日毎日、食事ばっか作って、飯炊きに転職したんだ、って、うちの騎士団じゃもっぱらの噂だ。まあ、女が騎士になろうってのが無理なんだから、早く諦めて正解だよな」

ひひひ、と嫌な笑いを浮かべた少年の鼻先に熱いものが近づけられる。セイがスープの入った皿を差し出していた。

「飲め」

「はあ?」

「いいから飲め。おまえみたいなやつでも、ここまでやってきたからには一応客だ。だから、うちの晩飯をごちそうしてやる」

「馬鹿言うな。おまえが作ったものなんか食えるか」

そう言いながらも、少年は少女のまっすぐな瞳に腰が引けているのを自覚していた。

(なんだよ。こいつ、前よりずっと気合入ってるじゃねえか)

「さっさと飲め」

ついに断り切れずに少年は皿を両手で持ってしまう。

「わかった、わかったって。飲んでやるからぐいぐい来るんじゃねえよ。それからスプーンをくれ」

「おまえには必要ない」

ちっ、と舌打ちすると、シーザーは皿にじかに口を付けてスープを飲みだした。2人のやり取りを見ていた騎士たちから「一気」のコールが自然と湧き起こる。

「ぷはーっ」

咽喉と舌をやけどしながらもなんとか飲み切った少年に拍手が送られる。汚れた口の周りを手で拭くシーザーにセイが問いかける。

「で、どうだ、味は?」

「は?」

「味はどうだったか、と聞いてるんだ」

「ああ、その、美味かった。かなり美味かった」

それを聞いた少女の顔がほころぶ。

「そうか。それは何よりだ。せっかく来たのに変なものを食べさせるわけにはいかないからな」

夜の森に金色の大輪の花が咲くのを見た少年の顔が赤くなるが、少女はそれに気づかない。

「あのな、タリウス」

「なんだ?」

「おまえがりき入れて食事を作ってるのはわかったけどよ、でも、おまえは騎士なんだからな。それを忘れるなよ」

それだけ言うと、シーザー・レオンハルトは走り去っていき、すぐに焚火の明かりも届かない暗闇へと姿を消した。

(そんなの、言われなくてもわかってる)

金髪の少女は俯き加減で少年の言葉を胸の中で反芻する。だが、今は何よりも自分に与えられた仕事を全うすべきなのだ、と思い直して、配膳に戻ろうとしたその頭を、こつん、と何かが叩いた。

「え?」

振り向くと天馬騎士団団長がうっすら笑みを浮かべながらセイを見ていた。さっきの衝撃は右のげんこつで軽く叩かれたものらしい。

「団長?」

「ずいぶん久しぶりだな、セイ。一体何をしてたんだ?」

「えーと、あの、それはその」

怖くて逃げ回っていた、とは言えなかった。なにしろ、今度失敗すれば追い出されてしまうのだ。だから、なるべく顔を見ないようにするだけでなく、団長の気配を感じるとその場から立ち去るようにしていた。

「まあ、いい。それでは、またシチューを作ってもらうぞ」

(やっぱりそうなるのか)

オージン・スバルの精悍な顔を見た瞬間にそうなるのはわかっていた。ツンジから指導を受けながら、団長を満足させられるシチューを作るように試行錯誤を繰り返していたが、いまだに納得できるほどの出来には至っていなかった。このまま挑戦してもダメなのはわかりきっている。

「時間は十分与えたはずだ。今度こそ最後だ」

「はい、わかりました」

セイは覚悟を決めて男の顔を見つめた。どうせ最後なら堂々としていたい。騎士らしく振舞って終わりたい。そんな少女の思いを知ってか知らずか、

「ならば、早いところ作ってわたしのところまで持ってきてくれ」

ふい、と騎士は立ち去って行った。


「それじゃあ、行ってきます」

ツンジに頭を下げてからセイは炊事場を後にする。シチューを作っている間、料理人は弟子に何も言わず、ただ黙って微笑みながら料理を作る様子を見ていた。団長専用のテントからは、ランプの明かりが漏れているのが見えた。

「失礼します」

「来たか」

少女は男の前のテーブルにスープの入った皿とスプーンを置く。

「どうぞ」

「ああ」

オージン・スバルはかすかに頷いてから、スプーンを手に取り、シチューを掬い口へと運んだ。これまでの2回と何も変わらない。だから、結果もこれまでの2回と変わらない、というのはわかりきっていた。

(でも、悔しい。頑張っても上手く行かなかったのは悔しい)

騎士になれなかったのはしょうがないが、これからどう生きていけばいいのだろう。家に戻ることもできないから、なんとかして働き口を探さなけらばならないはずだった。だが、13歳の少女にできる仕事など何があるのかまるで見当がつかない。悔しさに続いて不安で胸がいっぱいになっていく。

「ふう」

表情を変えぬままシチューを食べ切ったスバル団長が一息ついてからセイジア・タリウスの方を見ると、金髪の可憐な少女がぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、懸命に歯を食いしばっていた。常に冷静沈着な騎士もこれにはさすがに驚く。この前も泣いていたが、それは課題に失敗した、という理由があったから理解できた。しかし、今日はまだ何も起こってはいないのに、娘はもう泣きじゃくっている。驚くなと言う方が無理だった。

「おい、いったいどうした?」

「短い間ですが、お世話になりました」

「なんだと?」

「団長を満足させられる料理を作ることができなかったので、もう出ていくしかないというのはわかっています。だから、これで団長ともお別れです」

少女が最初からダメだと決めつけているとわかって、男は思わず苦笑いを浮かべる。

(しまったな。どうやら薬が効きすぎたようだ)

生意気だが、それ以上に素直な少女なのだ。自分の仕打ちが娘を追い詰めていたことにようやく気付いた騎士団長は反省しながらも、どうにかしてなだめようとする。

「おい。勝手に決めるんじゃない。おまえの処遇を決めるのはわたしだ」

「でも、どうせダメに決まってます」

「いいから話を聞け。セイジア・タリウス。おまえに天馬騎士団団長として命じる」

「はい」

泣きながらも少女は返事をする。

「炊事係の職務を今日限りとし、明日からはわたしの従者を務めるように」

(そうか。やっぱりダメだったか)

予想通りの結果だった、と落胆したセイだったが、どうもおかしなことに気づく。

「え? じゅうしゃ、というのはどういう処罰なのですか?」

「処罰とはいったいなんのことだ?」

「わたしはただ辞めさせられるだけでなく、じゅうしゃ、という罰を受けなければならない、ということですよね?」

「獣車」とでも書くのだろう。一体どんな罰なのか、想像しただけでも恐ろしくなる。

「そんなわけがあるか! どうしてわたしがおまえに罰を下さなければならないんだ? おまえはわたしの出した課題を立派にやってのけたのだぞ」

あまりの天然ボケに、謹厳実直と称えられる騎士が混乱して大声を出してしまう。

「ということは、課題を見事にやりとげたのでわたしは辞めなければならない、ということになるんですか?」

「あのなあ、セイ。そんなわけのわからない理由でおまえを辞めさせたら、わたしは史上最大の大馬鹿者になってしまうんだぞ。なあ、頼むから『辞めないといけない』という思い込みを捨ててくれないか?」

団長が部下に懇願する、という天馬騎士団始まって以来の珍しい光景が繰り広げられる中、セイジア・タリウスの脳髄は上司の話をようやく理解し出していた。

「あの、それじゃあ、本当に辞めなくてもいいんですか?」

「もちろんだ。そして、明日からわたしの付き人として働いてもらう」

男は空の皿を右手で持つと、

「短い期間でこれほどの料理を作れるまでに努力を重ねた、今のおまえになら安心してわたしの槍を預けられる、というものだ」

少女の目をしっかりと見てから微笑んだ。ツンジからは彼女の頑張りと成長を逐一報告されていて、シチューの味も料理長のお墨付きをもらっていた。つまり、団長には新米騎士を追い出すつもりなど毛頭なく、少女の心配は杞憂でしかなかったのだ。だが、それを知らずに不安におびえ続けていたセイの青い瞳が再び潤みはじめると、ふえええええ、と大きく開いた唇から泣き声が洩れだした。さっきまでとは違う、安堵と喜びの涙だ。それを見たスバルがあからさまに動揺する。騎士はただでさえ女性の涙に弱く、それが美しい少女とあっては尚更だった。

「いや、あの、えーとだな。セイ、ちょっとこっちに来るんだ」

「ふええええええ」

「いいからこっちに来るんだ」

椅子から腰を浮かせると、少女の右手を取って、自分の方へと引き寄せる。

「ふええええええ」

「そんなに泣くんじゃない。わたしが悪いことをしているみたいじゃないか」

そう言ってから、悪いことをしたようなものだ、と思い当たる。自分の出した課題のせいでセイは人生で最大の困難に直面してしまったのだ。

「すまなかったな。おまえを傷つけてしまったみたいだ。もっと気を付けておくべきだった」

「えぐっ、えぐっ、団長が、ひっく、謝ることじゃ、ありません。ひっく。わたしが、悪いんです。ふえええええ」

泣くかしゃべるかどっちかにしてほしい、と思いながらも、少女を見守る男の胸には暖かなものが確かにこみあげてきていて、自らの精神は鉄でできている、と思い込んでいた彼はわずかにとまどっていた。だが、それを表には出さずに語り始める。

「そうじゃない。セイ、おまえは悪くない。わたしはただ、おまえに足りていないものを教えてやりたかっただけなんだ」

「わたしに足りないもの?」

ようやく泣き止みかけた少女がじっと騎士の顔を見つめる。

「そうだ。おまえの身体能力はなかなかのものだ。鍛えればものになるのはわかっている。だが、強いだけでは騎士はやっていけない。何事もおろそかにせず、言われたことをきちんとこなし、周りの人間とうまくやっていく、そういったことができなければ騎士ではない。いや、それ以前にまっとうな人間とは言えないのだ」

(そういうことだったのか)

セイはようやく団長の意図を理解していた。ただ単に料理を作らせようとしていただけではなく、もっと大切なことを彼女に学ばせようとしていたのだ、と。

「おまえはまだ若い。いや、幼い、と言ってもいいくらいだ。だから、世間の常識を知らなくても仕方がないのかもしれない。だが、おまえが騎士になると決めてここに来た以上、わたしには特別扱いすることはできなかったのだ。悪く思わないでくれ」

男が話す間にも、少女のつややかな頬に涙はこぼれ続け、ランプの明かりにきらめいている。

「ツンジに鍛えてもらったようだが、今度はわたしが直接鍛えてやろう。手加減するつもりはないから覚悟するんだな」

言葉とは裏腹に、男の指がセイの前髪を優しくくしけずる。まるで父が娘にするような手つきだ。実際、2人の年齢は親子ほどに離れていた。

「髪が伸びたな」

「はい?」

青い瞳が涙でにじんで色が薄くなっているのを見て男は微笑む。

「うちに初めて来たときは、もっと短かったのが、もうすぐ肩まで届きそうだ」

「見苦しいようなら切りますが」

「だめだ。切るのは許さん。団長命令だ」

本気とも冗談ともつかない口ぶりにセイは戸惑ったが、ようやく年頃の娘らしくなってきた姿を惜しむ気持ちが堅物の騎士にも存在した。「そうだな」と騎士団長は少しだけ考えてから、

「どうせならもっと伸ばした方がいい。しっかりと結えるくらい、伸ばすといい」

「どうしてですか?」

オージン・スバルは静かに笑ってから少女の問いかけに答えた。

「それくらい長くすれば、おまえの髪はよく目立つはずだ。それなら戦場ではぐれたとしても、すぐに見つけてやれるからな」

心から尊敬する騎士にそう言われたのが、セイジア・タリウスが髪型をポニーテールにした理由であった。




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