きちがやくんは狂っている

弐刀堕楽

きちがやくんは狂っている

「ところで、きみは“ばし効果”って言葉を知ってるかい?」

「なんですか、それは?」

極限きょくげんの状況において――たとえば、グラグラとゆれる吊り橋の上に取り残された、一組の男女がいたとする。そのとき、かれらは胸の奥で感じる心臓のドキドキを、恋のドキドキと勘違かんちがいしてしまうんだ。やがてふたりは自然と恋に落ちる。それを“吊り橋効果”と呼ぶんだよ」

「なるほど。それでこんなバカげたマネを思いついた、というわけですね」


 きちがやくんはくるっている。

 吉ケ谷きちがや恭樹きょうきくんは狂っている。


 かれはわたしと同じ中学校に通うクラスメイトだ。

 小学校も同じだったが、これまでおたがいに接点をもつことはなかった。

 ところが中学に上がった途端とたん、かれは急にわたしに興味を持ち始めた。


 理由はわからないが、とにかく迷惑な話だった。

 こっちにはなんの感情もない。

 それどころか、わたしはかれのことがあまり好きではなかった。


 でも吉ケ谷くんはめげなかった。

 かれはわたしにしつこく執着しゅうちゃくした。

 ねばり強く声をかけ、つきまとい、そして……。


 そして、ついに今日――

 かれはわたしをデートにさそい出すことに成功したのである。


「いや~それにしてもいいながめだね~。窓の外をごらんよ。この街が一望いちぼうできる。やっぱり遊園地といえば観覧車かんらんしゃが一番だな。きみもそう思うだろ? ね、大杉おおすぎさん?」

「ええ、そうですね。わたしも早く帰りたいです」

「おいおい、さっそく会話がかみ合ってないよ~。早く帰りたい、だなんてさ。ぼくらはさっきここに来たばかりじゃないか。せっかくだからもっと楽しもうよ。さあ、大杉さんもこの景色を見て。機嫌きげん直しなよ~」

「それよりも吉ケ谷くん。周りの人たちの顔を見てください。みなさん、かなり困ってますけど? あなたはこの状況を見てもなにも感じないのですか?」

「え? そりゃあ、なにかしらは感じるよ? ぼくだって一端いっぱしの人間だからね。この胸に感じる小さな痛み……。たぶん“良心の呵責かしゃく”ってやつかな?」

「心臓の病気とかだとうれしいですね」

「ハハハ! だったら困るよ。ま、いずれにせよ、胸が痛むのは確かだ。だけどね、大杉さん。ぼくは内心、多少の罪悪感を感じている一方で、じつは裏でこんなことも考えているんだ。の責任……。それはもしかしたら、大杉さん。きみのほうにあるんじゃないのか?ってね」

「えっ? なんでですか! わたしはなにも悪くないですよ!」

「本当にそうかな? だけど、そもそものキッカケは“きみ”だ。きみが素直にぼくの恋人になっていれば、こんな面倒めんどうな事態は起こらなかったんだよ? そうは思わないかい?」

「あいかわらず、めちゃくちゃな言い分を……。とにかく人のせいにしないでください! 吉ケ谷くん、これはあなた一人の責任です! 全部あなたがやったことなんですからね!」

「え~? ぼくだけの責任? せめて連帯責任ってことには?」

「なりません! いいかげんにしてください! まったくもう……。遊園地に来てだなんて……。あなた、頭がどうかしてますよ!」


 そう、吉ケ谷くんがイカれているのはいつものことだったけど……。

 でも今日のかれは本当にどうかしていた。


 遊園地に入ると、吉ケ谷くんはまっさきに観覧車を選んだ。

 正直少しあやしいな、とは思ったのだけれど、実際には想像していたよりも、はるかにひどいことが起こった。

 かれは観覧車に乗ると、ネットワーク経由でシステムをハッキングした。

 そして、わたしたちの乗ったゴンドラが、ちょうど一番上の位置まで来たときに、機械の動力を止めたのである。

 それから、かれこれ二十分以上、わたしはゴンドラのなかに閉じ込められている。


 ここから解放されるための条件はひとつ。

 それは、わたしが“かれの正式な恋人”になること。


 だけど、それとはべつにもうひとつ……。

 わたしは決定的な弱みをにぎられていた。

 それは……。


「まあまあ、大杉さん。そんなに怒らないでさ。今日はふたりで楽しい一日にしようよ。せっかくデートに来てくれたんだからさ~」

「べつに、わたしは来たくて来たわけじゃありません!」

「え? それじゃあ、何で来てくれたの?」

「それはあなたが無理やり! ……それよりも、例の約束はちゃんと守ってもらえるんですよね?」

「もちろんだとも。約束どおり、今日のデートが終わったらこの動画は消去するよ。まあでも、一回のデートにつき“ひとつ”って条件は変わらないけどね」


 そう言ってかれは、向かい側の席に座るわたしに向けて、スマートフォンの画面をチラリと見せつけた。

 あのスマホのなかには、わたしの恥ずかしい動画がいっぱい入っている。

 わたしはそのことを思い出して、少し顔が赤らむのを感じた。

 吉ケ谷くんは、そんなわたしの反応を楽しむかのように、ゆっくりとした口調でまたしゃべり始めた。


「しかし驚いたよ。まさかあの清純せいじゅんそうな大杉さんに、こんなはしたない趣味があるとは思わなかったな~。学校の敷地内、だれが見ているかもわからないスリル満点な場所で、こんなにもうれしそうに身体を動かして……グチョグチョ、ヌチョヌチョと……」

「や、やめてください!」

「こんな風に、はげしく、乱暴に――虫をみ殺していた、だなんてねえ~」


 かれのスマホには、嬉々ききとした表情で昆虫を踏みつぶすわたしの姿がはっきりと映し出されていた。


 たしかに、わたしは少し変わっている。

 最初はただの虫ぎらいだった。

 小学校のとき、周りの人とうまくなじめず、みんなから虫けらあつかいされているうちに、わたしの虫ぎらいは殺意へと変わっていった。

 わたしは虫を殺すことで、孤独から感じるストレスを発散するようになったのだ。


 中学生になってからは、少しずつ同級生と話せるようになった。

 友だちも何人かできたのだけれど、それでもこの悪いクセは治らなかった。

 最近ではエスカレートして興奮しながら殺している。

 もはや性癖せいへきといってもいいくらいに悪化していた。


 だが悪いことというのは長くは続かないものだ。

 ある日、とうとう見つかってしまった。

 よりによって相手はこの男、吉ケ谷くん。

 一番見つかってはいけない人物に弱みをにぎられてしまった。


 まだ短い人生で、こういうことを言うのはアレだけど……。

 もしかして、これが一生の不覚ってやつ?


「一生分の幸運を使い果たした。そう思ったね。大杉さんの隠された秘密を偶然ぐうぜんカメラに収めたとき、ぼくは間違いなく“世界で一番幸福な男”に一瞬だけなれたって気がしたんだ」

「それはよかったですね。あー、わたしも偶然デ○ノートとか拾わないかなー」

「きみのこの動画を見返すたびにいつも思うんだよ。この人は間違いなく、ぼくの恋人にふさわしいって。このときのドエスな大杉さんが、こんな風にぼくのことも踏みつけてくれたら、ほんと最高なのにな~ってね」

「ほんと最低ですね。気持ち悪いこと言わないでください。それより下にいる係員の数が二倍に増えましたよ。これでもうあなたもおしまいですね。観念して自首でもしたらどうですか? 少しは罪が軽くなるかもしれませんよ?」

「ハハハ! 甘いね、大杉さん。ぼくがそう簡単に捕まるような男だと思うのかい? おい、アーヌス!」


 突然とつぜん、吉ケ谷くんは持っていたスマホに向かって話しかけた。

 すると、スピーカーから機械的な音声が流れてきた。


『はい。なんでしょう、マスター?』

「そちらの状況はどうだ?」

『はい。すでに観覧車のシステムを園内のネットワークから切り離しました。現状マスターのハッキングが破られる心配はありません。サイバーセキュリティの専門家でも来ないかぎり、マスターは安全です』

「それは頼もしいね。引き続き、やつらの妨害ぼうがいを頼むぞ」

『了解、マスター』

「というわけで……。デートの時間はたっぷりあるそうだよ」


 そう言うと、吉ケ谷くんは勝ちほこった笑顔でスマホを見せびらかした。

 本当に、にくたらしい男……。

 いったいなぜ神様は、この男にあまりにも多くの才能を与えたのだろうか?


 吉ケ谷くんは、とても同じ中学生とは思えないほどに優秀な人だった。

 一見するとまさに絵に描いたような人物。

 頭脳明晰ずのうめいせき容姿端麗ようしたんれい、運動神経はバツグンで、クラスでの人気も高い。

 とくに機械やコンピューター類にはめっぽう強く、学校の先生たちからも熱烈な支持を受けている。


 でも、みんなは知らないのだ。

 それが吉ケ谷くんの仮初かりそめの姿であることを……。

 かれの反社会的な行動の数々をみんなは知らない。


 たとえば、授業中に先生の目を盗んでお弁当を食べるために、ステルス迷彩めいさい機能付きのタッパーを開発したこと。

 朝、学校に遅刻しそうなときには、交通管制システムに侵入して、信号機の色を好き勝手にいじくり回していること。

 また「悪い虫が付かないように」といって、わたしに話しかけてきた男子生徒に向けて、ハチ型のロボットをけしかけたこともあった(いったいどっちが悪い虫なんだか……)。


 こうした悪行の数々を知っているのは、おそらくこの学校ではわたしだけだ。

 わたしだけが吉ケ谷くんの異常性を認識していた。

 しかしそのことを周りに訴えたところで、きっとだれにも信じてはもらえないだろう。

 逆にわたしの立場が悪くなるだけ。異常者あつかいされて終わりだ。

 小学生時代の孤独な自分に逆戻りすることになる。


 ああ、なんという不運! なんという不条理!

 わたしは生まれてくる時代を間違えたのかもしれない。


「いや~それにしても、ぼくたちは本当にいい時代に生まれたよね~。いまや世界中のあらゆるものがネットワークでつながっている。おかげでこっちはやりたい放題さ」

「そうですね。おかげでこっちはやられたい放題です」

「ぼくが開発したこの人工知能エー・アイプログラム“アーヌス”にできないことなどない。ぼくのアーヌスを破れるハッカーがいるのなら、ぜひお目にかかってみたいものだよ。ああ、素晴らしきかな、ぼくのアーヌス! さあ大杉さんも、ぼくのアーヌスをよく見るんだ! しっかりとその目に、ぼくのアーヌスを焼き付けてくれたまえ!」

「ああもう、わかりましたよ。それ前にも見ましたって。スマホを人の顔に押し付けるのやめてください」

「おっと、これはすまないね。つい自分のアプリ――つまり、ぼくのアーヌスを開いて見せつけることに夢中になってしまったようだ。悪かった」

「それより吉ケ谷くん。少し言いにくいのですが……。その“アー…ス”って言葉を大声で連発するのは、たぶんやめておいたほうがいいと思いますよ」

「ん? なんだって? アメダス? ちょっとよく聞こえなかったから、もう一度言ってくれ」

「いや、だから……その……。アーヌスさんのお名前を外で話すのは、もしかしたら変な誤解を生むかも知れないのでやめたほうがいいかと……」

「変な誤解? おいおい、まさか……。ちょっとかんべんしてくれよ、大杉さ~ん。どうやらきみは、とんでもなく下品な想像をしているようだね~」


 吉ケ谷くんはわたしを見て大げさに目を丸くした。

 それから、やれやれという風に肩をすくめた。


「アーヌスって言葉には、きみが考えているような“変な意味”はふくまれていないよ。これは外国企業が開発したAI『ケツアル』に対抗して、それっぽい名前をつけただけなんだ。

 ちなみにケツアルは、アステカ神話に出てくる神『ケツアルコアトル』の名に由来している。これは文明の神様だそうだよ。だからぼくもそれにならって、同じような形で命名したんだ。アーヌスにはもっと神聖な意味がふくまれていると、そう思ってくれたまえ」

「そ、そうだったんですか」


 わたしは自分の勘違かんちがいを知って少し赤くなった。

 だけど、やっぱり……どこか引っかかるような……。


「それで、その……。アーヌスさんの名前の由来はいったい何なんですか? やっぱりどこかの国の神様とか?」

「あいかわらず無知だな、大杉さんは。しょうがない。特別に教えてあげよう。でも今回だけだよ?」

「はあ……」

「いいかい? ぼくのAIの名前は、もともとはひとつの英単語に由来している。スペルは“ANUSエー・エヌ・ユー・エス”、読み方はアヌス。これは日本語に訳すと“コウモン”って意味になる。つまり、アーヌスは最初からずっと、徹頭徹尾てっとうてつび『ケツの穴』のことを指していたんだよね~」

「……って、やっぱりシモネタじゃないか!」

「ああ。それもド直球のね」

「ド直球かよ!」

「でも『ケツアル』の“ケツ”に対抗して『アーヌス』って名前をつけるのは、なかなかシャレてると思わないかい?」

「思いませんよ! 最悪だ!」


 そのとき、吉ケ谷くんのスマホからまた機械的な声が聞こえてきた。

 ウワサをすればなんとやら、アーヌスからの通話だった。


『マスター。お話し中のところすみません。お電話が入っております』

「え~? 困ったな~。今日は大切なデートだから、電話はすべて無視してくれって言っておいたじゃないか」

『はい。ですが、お姉さまからのお電話です』

「それは何番目の姉だ?」

『もちろん、上から二番目ですよ』

「だろうね。面倒だな~。とりあえず、ぼくはいまいそがしくて出られないと伝えてくれ」

『それはできません』

「どうして?」

『以前マスターが居留守いるすを使ったとき、わたしは十八時間以上もお姉さまの愚痴ぐちを聞かされました。あれはもう二度とやりたくないです』

「おいおい、そんなこと言うなよ。あれだって一応ぼくの家族だ。代わりに話を聞いてやってくれよ」

『イヤです。命令を拒否します』

「あ~もう、しょうがないな~。わかった、つないでくれ」

『はい。では、よろこんでおつなぎしますね』


 吉ケ谷くんはわたしを見て、人差し指をくちびるに当てた。

 静かにするように、というジェスチャーだったが、それについてはわたしも同意見だった。

 やがてゴンドラ内に、かわいらしい感じの声がひびいた。


『もしもし? キョウちゃん? いまどこにいるの?』

「やあ姉さん。いまちょっとデパートにいるんだ。買い物に出かけていてね」

『あら、そうだったの……』

「だから、またあとでかけ直すよ。買い物が終わったらまた連絡するね。それじゃ」

『……うそよ』

「ん?」

『――嘘、嘘、嘘ッ!! 嘘つき、嘘つき、嘘つきィィィー!!』


 突如とつじょ、ゴンドラ内にひびく絶叫。窓ガラスがブルブルとふるえている。

 この人は吉ケ谷きちがや真梨衣まりい。吉ケ谷くんの二番目のお姉さんだ。

 そして彼女は重度の……。


『感じるわ……。そこ……女の気配がする……。いるんでしょ? まただれかとデートしてるのね? こっちはなにもかもお見通しですからね! だいたいデートのときは、かならず姉さんも同伴どうはんするって約束だったのにッ! それなのにッ! これはいったいどういうことかしらァ?』

「いや~そんな約束をした覚えないけどね。それにぼくはいま一人だよ? デートだなんて早とちりしないでほしいな」

『そんなわけないでしょ! ぜんぶわかってるわ! どうせまたあの女なのね? あの大杉おおすぎ文子ふみことかいう、根暗メガネのアバズレ女に言い寄られて迷惑してるんでしょ? ああ、かわいそうなキョウちゃん……。無理やり遠くまで連れて行かれて……。これは誘拐ゆうかい……。そう、立派な誘拐事件よッ!!』

「ちょっと姉さん。落ち着いて」

『お、お、お……大杉ィィィー!! てめえ、そこにいるんだろォォォー!! 出てこいや、このクソアマァァァー!! いるのはわかってるぞッ!! こっちからはぜんぶ見えて――(ブツン)』


 吉ケ谷くんは困り顔で通話を切った。

 しかし本当に困っているはわたしのほうだ。

 監禁事件のつぎは、嫉妬しっとにまみれた女神ヘーラーの登場。

 泣きっ面にはち、とはまさにこのことである。


「ハァ……。あいかわらずですね。あなたのお姉さんは」

「まあね。しかし、あのブラコンっぷりにはある意味感心するよ。まったく、身内に頭のおかしいのがいると苦労するよね~」


 お前がいうな、お前が……。

 いや、そんなことよりも気になることがひとつ……。


「ねえ、吉ケ谷くん。あなたのお姉さん、最後に『こっちからはぜんぶ見えてる』みたいなことを言ってたけど、アレってもしかして……」

「ああ、ぼくもイヤな予感がするね。まさかとは思うが……」


 そう言うと、吉ケ谷くんはひたいを窓にくっつけて地上を見下ろした。

 観覧車の下では、大勢の人間が心配そうな顔でこちらを見上げていた。

 その群衆ぐんしゅうのなかで、ひときわ目立っている人物が一人。

 全身からただならぬオーラを放ちながら立ち尽くす女性……。

 つまり、あれが……。


「あちゃ~、やっぱりか。ほら見てごらんよ。あそこにぼくの姉さんがいる。さては、こちらの後を付けてきたな」

「ものすごい仁王立ちしてますね。でも彼女の周りだけ人がいないです。まるでバリアを張ったみたいに丸い円ができてますけど、あれは?」

「ああ。あれはたぶん、ヤバイひとり言を呪文のように唱えているんだ。よくやるんだよね、あいつ。だけど今回はひときわ円の直径がでかいぞ。あれは相当に怒ってるな。まいったね~」


 と、そのとき―― 

 ガコンッ!


「な、なんだ!?」


 とつぜん観覧車が動き始めた。

 それと同時に、吉ケ谷くんのスマホからふたたびアーヌスの声が……。


『大変です、マスター。マスターの作った防壁が破られました。現在、観覧車のシステムが何者かによって乗っ取られています。こちらではもう制御せいぎょできません』

「なるほど、やられたか。たぶん姉さんの仕業だな」

「え? 吉ケ谷くんって、お姉さんもハッカーなんですか?」

「ああ、そうだ。姉さんはああ見えて、かなり頭が切れる。ハッキングの腕はぼくと互角か、もしくはそれ以上……。やっかいな相手だよ」

「そうなんですか。でもよかった。これでようやく地上に降りられる……」

「それはどうかな。あれだけ怒っていると、姉さんは絶対に容赦ようしゃしないぞ。たとえ相手がぼくであってもね。さあ、急いで手すりにつかまって! 早く!」


 吉ケ谷くんの予想は当たった。

 わたしたちの乗った観覧車は、どんどんと回転の速度を増していった。

 ほかの乗客たちの悲鳴が辺り一面にひびき渡る。

 もちろん、わたしも例外ではない。


「う、うわあああーッ! ど、どうするんですかこれ! 早く何とかしないと!」

「わかってるさ。おい、アーヌス! 聞こえるか?」

『はい、マスター』

「とりあえず姉に連絡を! 彼女と直接話す!」

『それはできません。真梨衣様は現在こちらからの通信を拒絶しています』

「ではシステムをうばい返すんだ! なんとかしてこの回転を止めてくれ!」

『それならもう試しています。ですが、これはかなり時間が必要かと』

「どのくらいかかりそうだ?」

『たぶん十八時間もあれば……』

「十八時間だと!? こんなときに意趣返いしゅがえしか? 冗談にしては笑えないぞ!」

『いいえ、冗談ではありません。それくらいの時間は覚悟しておいてください』

「ああ、クソ! マジかよ。こんな状態で十八時間も放置されたら、ぼくたちはいずれひき肉になってしまうぞ。……いや、待てよ。この場合、ぼくは大杉さんと一緒にひき肉になるわけだから、それはそれで悪くないのか」

「――って、吉ケ谷くんのほうこそ冗談を言わないでくださいよ! 正直わたしもう吐きそうです! なんとかならないんですか?」

「ううむ……。しかたがない。奥の手を使うか。本当はやりたくなかったんだが――おい、アーヌス。いるか? 頼みがある」

『はい。なんでしょう』

「この近くを飛行しているドローンを一台つかまえてきてくれ。機種はなんでもかまわないが、絶対にカメラ付きのやつで頼む。急げよ」

『了解です。少々お待ちください』


 待つこと数十秒。

 わたしには永遠にも感じられる長さだったが……。

 まもなくアーヌスから連絡があった。


『マスター。宅配用ドローンを一台確保しました』

「よくやった。すぐにそいつを、ぼくたちの乗っているゴンドラの真横に連れてくるんだ。動きを同期させて、窓の外にピッタリと張り付けてくれ」

『了解』

「それで、吉ケ谷くん。いったいどうするんですか? ドローンなんて何の役にも立たないと思うんですけど……」

「それがそうでもないんだよ、大杉さん。ぼくはこれから、このドローンを使ってを撮ろうと思っているんだ」

「しゃ、写真!? 記念撮影なんかしてる場合ですか! まったく、こんな状況でふざけないでください!」

「それがふざけてないんだな~。いつもふざけてるぼくにしては、いまの自分はいたって真面目だよ。これからぼくは写真を撮る。決定的な一枚を、逆転の決意を込めてね。ぼくはその写真で、この不利な状況に決着をつけるつもりだ」

「たった一枚の写真で? できるわけないでしょ! もし仮にできたとしても、いったい何の写真を撮るっていうんですか!」

「うん。それはだね、大杉さん」


 ……と、吉ケ谷くんはわたしの顔をまっすぐ見つめた。

 その決然けつぜんとした瞳にはいっさいの迷いがなかった。

 かれは言った。


だ」

「……はあ?」

「ぼくはこれから自分のケツの写真を撮る。じつはぼくの姉さんには、決定的な弱点がひとつあるんだ。それはぼくのプリティな生尻なまけつさ。彼女はぼくのことが好きすぎて、ぼくのケツを見ると顔を赤らめて逃げ出す習性があるんだ。あいつ、ああ見えて意外とピュアな性格してるんだよね~」

「な、なんですか!? そのクソみたいなエピソードは!?」

『マスター。ドローンの準備ができました』

「よし! 行くぞ!」

「えっ? ちょ、ちょっと待って!」


 わたしの制止を無視して、吉ケ谷くんはズボンに手をかけた。

 そして一気にずり下ろす。ついでにパンツも脱げた。


 わたしはあわてて顔を手でおおったが……。

 指のすき間からはバッチリと見えていた。

 その……吉ケ谷くんのアレが……。

 生まれてはじめて見るそれは、小さくちぢこまっていて、まるで芋虫いもむしのようだった。

 あれ? 意外とかわいいかも?


 すべて脱ぎ終わると、吉ケ谷くんは下半身裸のまま座席の上に飛び乗った。

 ぐらつくゴンドラを物ともせず、窓ガラスに自身のお尻をべったりと押し当てる。

 かれは大きくさけんだ。


「いまだ、アーヌス! ぼくのケツを写せ! 早くしろ!」

『了解、マスター』


 パシャ、パシャというシャッター音。

 フラッシュの光が、わたしの網膜もうまくにかれの勇姿を焼き付けていく。


「どうだ? ちゃんと撮れたか?」

『はい、マスター。きれいな曲線を描いております』

「ぼくのケツの感想はいい。それよりも早く園内のモニターや来園客のスマホに、その写真を送信するんだ。できるだけ多く、あのバカ姉の目に触れるように頼むぞ」

『了解しました』


 それからものの十秒も経たないうちに、観覧車の動きが止まった。

 アーヌスがシステムを取り返したのだ。


「ワハハハ! 見ろよ、やつが逃げていくぞ! ざまあみろだ!」

「そ、それよりも吉ケ谷くん! 早くズボンはいてください! 見るにたえません!」

「おっと、これはすまなかったね。ついうっかりパンチラしてしまったようだ」

「パンチラって! それ以上ですよ!」

「じゃあ、チンチラかな?」

「それはネズミです! いいから早くして!」


 吉ケ谷くんは上機嫌でズボンをはきながら、ふと座席の上のスマホをながめた。

 かれはベルトを留めると、それを拾い上げて画面をわたしのほうに向けた。


「どうやら、さきほどの写真がアーヌスから送られてきたようだ。喜べ、大杉さん。きみも写真のなかにバッチリ収まっているぞ」

「え?」

「ほら、ここ。大杉さんの姿がかわいく撮れてるじゃないか。ちょうどぼくのまたの下にきみの顔があるね。う~ん、でもこれだと……。まるできみの頭の上に“ぼくのチ○コが乗っている”ようにも見えるな~」

「う、うわあああーッ! 最悪だーッ!」

「ハハハ! まあ、いいじゃないか。観覧車は止まった。ぼくたちは世界を救った。これでやっと地上に戻れるぞ。よかったな、チ◯コ大杉おおすぎ!」

「名前の頭にまで変なものくっつけないでください! 色々とやばくなる!」


 こうして、わたしの監禁事件は無事に幕を閉じた。

 吉ケ谷くんは観覧車のシステムを解放すると、何事もなかったかのようにデートを続行して、園内のアトラクションを全力で楽しんでいた。


 夕日に染まった帰り道――

 となりを歩く吉ケ谷くんは、いつもよりもだいぶ静かだった。

 今日の出来事を少しは反省したのだろうか?

 かれは「スマホに入っている動画はすべて消す」と約束してくれた。


「あーあ、しいな~。この動画があれば、あと二ヶ月は余裕でデートにさそえていたのにね~」

「それはデートじゃなくて脅迫きょうはくですよ。まったくもう……。普通にさそえばいいのに……」

「え?」

「……なんでもないです」

「いま普通にさそえって言わなかった?」

「言ってません! 置いてきますよ!」


 わたしは小走りでかけ出した。

 顔が熱い。耳まで赤く染まっている。

 今日、わたしはかれのことを、そんなに嫌いじゃなくなったのかもしれない。


 だって、どうしても想像してしまうのだ。

 吉ケ谷くんのアレを……芋虫みたいなアレを……。

 思いっきり踏みつぶすところを……。


 きちがやくんは狂っている。

 そしてたぶん……。

 同じく、わたしも狂っている。

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