TEN ~僕たちの覚悟~

綾瀬 ーAYASEー

プロローグ







 西暦2010年 9月6日

 

「活動を休止させてください」

 彼が綴った、その一言は

 彼らが思っていた以上に

 多くの戸惑いと涙を誘った










 



ファミレスで仕事の電話を切った直後だった。


「ねぇ、再開はないの?」 


自分と同じようにスマホを握ったままの特に抑揚のない響きだった。


「ん?」


「だからパパの仕事、本来の仕事だよ。私が約束守らない度にママが言うの。パパの仕事のせいで私たちは別れたんだって。その頃のパパが守る約束はたった一つだけで、それ以外は守る気なんてなかったから別れることになったんだって」


 高校受験を控える彼女は視線を向けることもなく、淡々と述べる。


「そうかもな」


 冷え切ったコーヒーを飲んで、小さく答える。


「否定しないの? 仮にも受験前でナイーブな娘の前で」


「それくらいのことで未歩が道を誤るような子じゃないと俺は思ってるから」


 スマホの画面からやっと目をこちらに向けると彼女は笑った。その表情は自分が恋をした元妻によく似ている。


「褒めて伸ばそうなんていう教育は小学生くらいにしか通用しないよ」


「別に褒めてないよ。ママの言う通りだから否定しないだけ」


 彼女と出会い、恋をし、そして結婚。自分の人生において多くのことが起き、それに決断を下しながら、片方で大きな、とても大きな俺たちの人生も歩いていた。


 だから一区切りがついた自分自身の人生は横に置いたのだ。


 何しろ、もう片方の大きな俺たちの人生は最も華やかで、それ以上に忙しく、そして最高に楽しかったのだから仕方ない。


「パパは娘の私から見てもカッコいいのになんで再婚しないの? ママに未練でもあるの? 仕事で綺麗な人にもたくさん会えるのに」


 年頃の娘の興味は最初に放った言葉でなく、こっちが本題なのだろう。


「別に理由はないんだけど。まぁ再婚を考えた時期もあったけど、その頃には未歩も大きくなってたし、こうやって月に一度は会うし、ママとだって必要なことはやり取りしてるし。一人でいても特に困らないし」


「そんな無責任じゃ相手は逃げていくよね。責任取らない男なんてカッコよくても最低だよ」


 身に覚えでもあるのか彼女は不機嫌な顔つきでスマホをガチャと伏せて置く。


「健君と喧嘩でもしたのか?」


 離れて暮らす分、娘とは出来るだけフラットな関係を維持している。そのことに元妻は「美味しいとこだけ持っていくのって不公平。痛いことは全部こっちに押し付けて」と会うたびに文句を言われている。


 十分、卑怯だと分かってはいるが、割れてしまった物は戻せない。しかも向こうには新しい器を作ろうとしている相手もいる。だからせめて愛しい我が子には、カッコよくて、理解があって、経済力があることだけは示していたい。


「健とは揉めてないけど、友達の彼氏にはパパみたいなタイプがよくいるから」


「そりゃ男は基本、そういう生き物だしな。まぁお手柔らかにお願いします」


「最悪~。でも、そんなパパが一つだけ絶対守っていた約束って何?」


 自分のネイルの出来にちょっと不満なのか何度も指を擦りながら彼女は尋ねる。


「もちろん、仕事の約束だよ」


 もう十年も経っているが、そのことだけは今でも妙に誇らしげに断言できる。


当時は地獄のような日々だったのに、何度思い出しても、あの頃の日々は輝いているのだ。


「だったら余計に再開はいつなの?」


 話は振り出しに戻った。


「さぁ。いつだろう」


 敢えて沈黙をせずに即答した。


 その方が話題を逸らせると思わなかったわけでもない。


 だが、それは無意味な防御だった。


「誤魔化そうって思ってる? それは通用しないよ」


 彼女は得意げな顔つきで頬杖をついてこっちを見ている。


「バレた? けど嘘じゃない。本当にいつか分からないんだ」


 幾度となく約束を、多くの人たちとの約束を守ってきたけれど、最後の約束はしなかった。


「じゃ、再開はないってこと?」


「いや。再開はあると俺は思ってる。思っているけど」


 即座に訂正しつつも、後に続く言葉が見つからない。職業柄、最も得意なことのはずなのに、返す言葉がない。


「それって約束しなかったってことだよね。だから守れないし、守る義務もない。つまり」


 娘が次に放つ言葉が何だか怖くて、被せるように発した。


「大丈夫。TENは必ず戻ってくるさ。俺はそう信じている」



 しなかった約束を守ることは、今にして思えばある意味、無謀な未来だ。

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