龍神の住む渓谷 物語はここから始まった

糸已 久子

第1話 プロローグ

この谷は、龍の住まう谷であり、迷いの谷とも呼ばれている。


 龍神様が御座すと崇められている渓谷は、大木や雑草が鬱蒼と生い茂る暗い森の奥にある。川辺には多種多様な樹木が混生しており、四季それぞれに実の生る樹木が原生林のまま残っている。今、風に押されてポトリと一つ完熟した実を落とした木も、この辺りには珍しい樹木である。澄み切った川には沢山の魚が群れ、時に水面から飛び出して跳ねてみせる。「ビュービュー」「ピッピッ」金色のアイリングが可愛いコチドリの雄の声が響くと、辺りは靄に包まれてしまった。静寂に包まれた後は、足元も見えないくらいの深い霧が辺りを覆い、川流の音以外に聞こえるものはなくなった。


 この渓谷のある森の奥に入ろうする村人は、あまりいない。気まぐれな濃い霧は子ども以外を嫌っており、間違って足を踏み入れたら最後迷って森から出られなくなってしまう。この森は、人を惑わすことを楽しんでいるかのようだ。肝試しのつもりが、森深く入ってしまったばかりに、二度と戻らなくなったという人の逸話は絶えない。デタラメと言って笑えないほどに、行方不明者は多い。そう、森から戻った大人は一人もいないのだ。



 渓谷のある森を囲むように馬や荷車が通ることができる道が作られている。森を通らずに隣町へ行くときに使う、どこにでもあるような道だ。変わったことと言えば、可愛らしいお地蔵様が薄暗い小道へと続く三差路の脇に佇んでいるくらいのことだろうか。村から森の前を通って隣の村にいくまでの大きな道は、歩きやすく平坦に均されてある。一方の寂しい感じのする小道の両脇には高い木や林が茂り、その奥にある廃墟は、誰にも見えない。そもそも人が住むような場所とも思えない。

両手で子を抱く弥勒菩薩様に似せて作られたお地蔵様の前には、花や子どもが遊ぶ紙人形などが置かれ、賑やかしげに飾られていた。

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