土曜日の恋人

天川 榎

第1話 私は悪くない

 人は、どこかに安らぎを求めている。常に無意識的に。


 安らげる場所が無ければ、人は途端に枯れてしまう。

 田舎から出て来てから、都会には安らげる場所なんてどこにもないと思っていた。

 

 しかし、遂に私は見つけた。

 都会の喧噪を忘れ、心を取り戻せる場所を。

 街の中にある、小高い丘を登ったところにある、喫茶店『サンティ』。

 

 ここの窓際の席に座れば、街が一望出来る。

 平日の仕事の疲れも、ここに来ればあっという間に浄化される。

 一日中この窓際の席でボーッとするのが、私の休日ルーティンだ。


 いつも注文するのは、ハニートーストとコーヒー。

 口に入れた瞬間に広がるハチミツの甘みとフローラルな香り。

 後から追いかけてくるように、トーストの生地の旨味が舌を刺激する。

 それらが口の中で混ざり合い、恍惚の時間を作り出す。

 それが私とハニトーとのエターナルだし。


 最後にコーヒーを口に流し込み、鼻腔に研ぎ澄まされた焙煎の香りを潜らせる。

 既に口の中は甘みで満たされているので、決まってコーヒーは純粋ブラックだ。


 嗚呼、至福。

 これこそ私が憧れていた都会暮らし。


 元々大学に進学するまでは、電車もまともに走っていないような田舎で暮らしていた。

 

 家は子だくさん。あろうことか7人きょうだいの一番上。

 幼い頃に両親が興した事業が失敗し多額の借金を抱え、食べるのもやっと。

 

 両親が働きに出ている時は私が親代わり。

 プライベートなんて皆無に等しく、苦労が絶えなかった。

 恋の一つもしたかったが、そんな気持ちにはなれなかった。


 そんな毎日を送っていた中で、テレビから流れる煌びやかな都会の光景の数々に、心躍らされていた。


 いつかあの世界で暮らして、金持ちになってやる。

 そう心に誓った日から、寝る間を惜しんで勉学に励んだ。


 その結果、高校、大学と返済義務無しの奨学金を手にし、進学した。

 大学はもちろん都会。実家を離れて一人暮らしも始めた。


 そうしてようやく手に入れた都会暮らし。

 今では社会人になり、親に仕送り出来るまでになった。

 ここまで来るのに他の人と違って何かと辛い事は多かったが、毎日夢に向かって頑張っていると思えば辛くは無かった。

 

 そんな私が、色んな事を忘れて都会の一部になれる瞬間こそ、この喫茶店なのである。

 朝早くから閉店時間まで、この喫茶店に入り浸る。

 街の風景や歩く人を眺めて居るだけでも、色々な発見があるのだ。

 季節の移ろいや、人々の喧噪。

 朝方はホストやホステスがお気に入りの客を捕まえてホテルへ消えていくのを眺め、夜は酔っ払いが電信柱に嘔吐する。


 そう、この喫茶店は繁華街の中に位置している。まさしく都会の中心だ。

 ふらっとこの喫茶店に入って来る人も、様々だ。

 仲睦まじく二人で入って来たカップルがいつの間にかケンカを始めて、店内がしっちゃかめっちゃかになったり、コーヒーとパンを食べてそのまま財布を忘れたと言って店に戻って来なかったり、店員が私のハニトーを一枚つまみ食いしていたり・・・・・・


 今まで通ってきて、何度も修羅場に遭遇したことはあるが、私はそういったことも含めてこの店を気に入っている。

 なんだろう、この空間が醸し出す雰囲気が気に入っているのかな。

 マスターも髭を蓄えた優しい目元のおじさんだし。

 

 今日もそんな喫茶店に、珍妙な客が入り込んできた。

 ねずみ色のパーカーを着て、靴もズボンも泥だらけだ。

 泥の中にでも落ちたのだろうか。乾ききる前の生臭い香りが辺りを漂う。

 背丈や格好から察するに、若い男性のようだ。

 コーヒー一杯を頼み、私と同じ窓際のカウンター席に間を開けて座った。

 

 うっ・・・・・・臭っ!!!!!

 

 臭い、臭すぎる。呼吸するのが辛い。

 この距離でこの臭さなんだから、近くの客はもっと臭いだろう。

 案の定、周りの客が退席し始めた。


 あっという間に店に居る客は私と彼だけになってしまった。

 何故私はその場に留まったのか。なぜだろう?

 臭すぎてその場に居られないハズなのに。


 やっぱり、まだこの喫茶店での時間を堪能しきっていないからか?

 それとも、この男を放って置けないからか?

 マスターに目線で支援を求めたが、どうもコーヒーの焙煎具合が気になるようで、目をそらされた。


 店員はとっくに居なくなっている。どうなっているんだこの店は。

 すがる者も無く、タダ呆然としている訳にもいかない。

 孤立してしまった彼に、私はおもむろに声を掛けた。


「あの・・・・・・大丈夫ですか?そんなに汚れてしまって」

「ああ、ありがとうございます。ちょっと、臭いますかね」


 ちょっとどころじゃないよ!周り見てないのかこの男!


「相当臭ってますよ。早く体洗った方がいいですよ」

「いや、家に今帰れないんですよ。事情があって」

「事情ってなんですか?ケンカでもしたんですか?」


 そのまま男は沈黙してしまった。

 ははーん。さては親とケンカしたんだな?


「今からでも遅くないから、親戚でも良いから連絡取って匿ってもらったらどうです?」

「頼れる人が居ないんです」


 反抗期に加えボッチとは、救いようが無いなこいつ。

 どうしようか、このままじゃ埒があかなそうだな。

 とはいえこのまま放って置けないし。ああ、こういう時に見捨てられる勇気があればいいのにな。

 私はどうもそうは出来ないようだ。

 困り顔でこちらを見つめられたら、どうしてもきょうだいが重なって見えてしまう。

 ・・・・・・こうなったら、腹を括るしか無い。


「なら、うちで洗ってください!これ以上居られると喫茶店が汚れます」


 何も考えず、彼を家に引き取ることにした。

 大人しく警察に突き出せば良かったものを。 

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