第五話 惣助の想い
おそのを止めたのは、惣助であった。惣助は、おそのを泣きながら抱きしめていた。
おそのは、「誰かに止められた」というのはあまり分かっていなかった。「やりそこなって転んだ」ような気でいた。
なにしろ、おそのはたった今自分の首を自分で吊ろうとしたのだ。怖くて怖くて、でも死ぬために必死に自分を駆り立てていた気持ちは、すぐには離れない。おそのは目を見開き、ぶるぶると全身を震わせたままだった。
でもしばらくしておそのははっと気がつき、確かに転びはしたが、誰かにぎゅうっと抱きしめられていることにやっと気づいた。
自分は死なずに、誰かが自分を止めて助けたようだ。
それが分かったおそのは、「やりそこなった」と思った。また、「なぜ止めてくれた」とも思った。だからおそのはとにかく起き上がりたいと思って地面に手をつき、体を起こそうとする。
しかし、とても起きられないほどの力で、おそのは抱きすくめられていた。惣助はとにかく、おそのが「もう死なない」と言うまでは放さないつもりで、必死におそのの背中を抱いていたのだ。
おそのは少し怪訝に思い、なんとか闇の中で相手の顔を見ようと、首をねじった。するとその時、雲に覆われていた月がちらりと見えて、月光が惣助の顔に差す。
「…そ、惣助さん…?」
惣助は目をつぶって腕に力を込めたままで、おそのに名前を呼ばれても、しばらく無我夢中で歯を食いしばっていた。
「惣助さん、惣助さん、あのー…放して…」
あんまり惣助が真剣に自分を抱くものだから、おそのはなんだかみだらなことをしているような気持ちになってきて、もう一度、「だいじだから、放して下さい」と丁寧に繰り返した。
惣助がおそるおそる目を開ける。その時、おそのがもう正気に返ったと分かったか、腕の中におそのが居たからか、助けられて良かったと思ったか、惣助はえへへと笑ってしまった。
その笑顔は月の光だけがひっそり浮かび上がらせて、一番明るく輝いている目尻の涙だけが、やっとくっきり見えるくらいであった。
「……だか」
おそのは惣助がなぜそんなふうに笑うのか分からないのに、胸がどきどきとしてくるような気がして、惣助が言ったことが聴き取れずに、聞き返した。
「ごめんなせ…なんて…」
惣助はまだおそのを放さずに、おそのが落ち着くようにと思ってか、背中を撫でていた。
「もう、死なねえだか。おそのさん。死なねえだか」
それはまるで頼み込むように引っちぎったような涙声で、震えて詰まった。
「あい……」
おそのが「落ち着いたので大丈夫だ」と言うと惣助は手を放したが、「大丈夫け?帰れるけ?」とおそのを家に入れようとした。
すると、今度は手を引いても、肩を押しても、おそのの方が動かない。びたっと地面に足を吸いつけたようになってしまったので、惣助はわけを聞こうとした。
「どしたぁ?うちでなんかやだくなるげなことあったけ?」
おそのは、少しだけ戸惑った。でも惣助は極端に恥ずかしがり屋だし、噂話を好かない男だったので、惣助に話すことには、あまり抵抗はなかった。だが「誰にも言わねえでな…」と言って、今晩の染二郎の様子を話した。
一つ一つ、惣助は「うん、うん」と相槌を打ちながら、さして驚かずに、でも哀しそうな顔をして話を聞き終えた。そしてこう言った。
「やっぱりそうだったけな…」
「えっ?」
おそのは惣助の「やっぱり」という言葉に、「まさかもう染二郎のことは村中で噂になってるのか」と思い、焦った。
「誰かに…聞いたんだか…?」
そう聞くと惣助は首を振ったが、なぜ知っているのかを言わない。おそのは、「変だな」と思った。
確かに染二郎が家を空けがちになってから、まだひと月も経っていない。そろそろ噂が立ち始めるとは思っていたけど、よそから聞いたわけではないらしい。
「じゃ、なんで……」
その時、惣助がぎくりと身を震わせ、俯いて顔を隠すのをおそのは見た。それで、惣助がいつも陰から自分の様子を、自分の家を見ていたのではないかと、おそのは気づいてしまった。
「まさか、惣助さん…」
おそのの声色が疑いを滲ませると、惣助ははっと顔を上げて叫んだ。
「違う!違えだよおそのさん!おら、なんもしやしねえ!なんも思ってねえ!違えだ!」
惣助はそう言ってぶんぶんと首を振ったが、それでおそのは、惣助の心を見抜いた。だからかえって、おそのには不思議だと思っていたことが分かったのだ。
そうだ。惣助はさっき自分が首を吊って死のうとするのを止めてくれた。それに、「もう死なないか」と、泣きながら何度も自分に聞いた。それから、自分が落ち着くまで腕の中に置いていたし、今も親身になって話を聴いてくれている。
なぜそこまで気遣って一生懸命になってくれるのかが、おそのには不思議な気がしていた。でも、いつも陰から覗いているくらいに自分を想っていれば、それも自然なことだ。
しかも、惣助はそんなことは一言も言っていない。シラを切り、ただ通りかかっただけのように振る舞って、自分に対して「なにも思っていない」と言っている。
惣助は自分をたぶらかそうなどとは考えていないし、本当に、ただ助けたかっただけなのではないか。
おそのは脇を見ながらそう考えてから、もう一度惣助の顔を見た。
惣助は今度は、おそのに悪く思われたのが悔しくて悲しいのか、唇を噛み締めて泣き、ずっと小さく首を振っている。
おそのの胸の中で、何かがぷちんとはじけた。それはほんの小さなものだったけど、少しだけ、「今は惣助さんと一緒に居たい」と思った。
二人はそれから、おそのが「こっち、こ」と言ったので、村で一番目立たない川辺に来た。葦の中で虫たちが競い合って鳴いているのが大層騒がしかったが、他には誰も居なかった。おそのは川縁の石に腰掛け、惣助を隣に座らせた。
膝に乗せた手を震わせ、時折涙を拭って、おそのはぽつりぽつりと、家であった苦労を話した。
染二郎が店の売りだめから儲けを全部持って行ってしまい、後で聞いても知らん顔をされたこと。
ある晩、母親と自分が用意した夕食を、染二郎が「大してうまくもねえ」と言い、それから家で食事をすることがほとんどなくなったこと。
父が病気になった時、「病人の近くにゃ寄りたぐねえ」と言って、一緒の部屋に居るのを嫌がったこと。
そして、それらはみんな、染二郎可愛さに、甘やかし放題にしてしまった自分のせいだと、おそのは泣いた。
「こんままじゃ、染二郎さんはそのうち帰ってこなくなる……でも、もうどうにもなんねえと思って…そんでおら、気がついたら、あんなことぉ……」
そう言っておそのはさめざめと泣き、着物の袖口で目元をぎゅっと押さえた。
惣助はどうしてやったらいいのか分からず、かといって、今おそのを帰してしまうのも不安だった。おそのを家に入れて家族の者を起こし、わけを話そうとしたとして、喧嘩や言い争いになって、おそのがますます傷つくのは目に見えている。
おそのは泣き続けていた。
その泣き声は、こおろぎやすずむしの声に紛れて哀しく響き、惣助の胸を切り裂いてしまいそうになる。
「おそのさん…うちに、来るけ…?」
それを聞いておそのは、急に慌てたように着物の袖をあわせた。すると惣助はまたえへへと笑って、顔の前で両手を振る。
「だいじだ、だいじだおそのさん。おらならこねえだ、“独り身で通す”ってのぉ、婆様達に納得してもらったばかりだでぇ。それに、おめさまは死にかかったんだで。だから“一晩休むためだった”っつうのを、朝になったら話せばええだよ。それにおら、朝まで畑で暇ぁ潰してでもええし、うちの中にあ、入らねえだ。ただ、おらのうちにあ、多分おめさまのうちみでえに、うんといい寝床はねえけんども…」
そう言って恥ずかしそうに笑う惣助を、おそのは信じられない気持ちで見ていた。
なぜこの男は、自分のためにそこまでするのだろう?自分には、もう夫も居るのに。だからこそ気持ちを告げないのだろうけど、それなのになぜこの男はずっと…。
おそのはそれで、ふっと思い出した。
染二郎には、あんなにきつく抱かれたこともない。思い返せば、染二郎は自分との結婚を、美しい娘を自分の傍に置くためと思っているのではないかと思う時もあった。
自分だって、必死に「夫を支えなければ」とは思っていたけど、「愛する気持ちがあったか」と聞かれれば、答えに窮してしまうだろう。
それからおそのは、しばらく考えていた。
染二郎は変わってしまった。かつてのように店を手伝うこともしてくれず、もう自分にも興味すらないようだ。
では、惣助はどうであろう。夫を持つ自分には何一つ口に出せやしないというのに、なんという想いの強さと、心根のやさしさであろう。
でもおそらく、ここで惣助の言葉に従えば、村人はみんな自分たちの仲を決めつけ、蔑むだろう。惣助が考えているほど、人々は疑いを知らないわけでも、素直なわけでもない。だから、断らなければ 。
「せっかくだけんど…それは、惣助さんに迷惑かかるだで…」
おそのが俯いたままそう言うと、惣助は迷わずおそのの手を取った。
「でも、こんままじゃ、おそのさんがあぶねえだ!とにかく、何も考えずに休まにゃなんねえだよ!」
「惣助さん…」
「自分で死のうとするなんて、よっぽどのことだ!ほっとけねえだよ!」
惣助の目には、おそのの身を守るのが本分だとでも思っているような、強い光があった。それが川の水にきらきらと反射した月明かりで、おそのにはよく見えた。
おそのはしばらく俯いて黙っていて、その顔色はよく見えなかったが、やがておそのはぽそっとつぶやく。
「じゃあ、一晩だけ…頼んます…」
つづく
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