リップス

海老飛 りいと

リップス

 時々、あっちの世界の生き物の方が、女よりももっと女らしく見えたりする。

 汗がどこまででどこからがただの熱になるのか分からない世界の、夜になったばかりの狭い部屋は、虫のように群がってざわめく黒色の人影を詰め込んだ玩具箱のようになっている。

 前の人と後ろの人との距離感はほとんどがゼロ。

 距離がなくなると意識とは別のところに体もいってしまったようで、自分から抜け出した自分は部屋全体を上から見渡せるようだった。

 

 足は常につま先の利用価値がない。胸もじっとりとしていて一向に乾かない。

 不規則なベースの音が淡々と鳴って、前にいてぴったりくっついている人たちを震わせた。

 一音が、また一音。

 丁度、前の人がつけていたブルージーンズと右隣の人がつけていた別の香水の相性が悪く、安っぽくて辛い独特のにおいが反撥しあって落ち着きがない。

 ここまでにおいの違いがはっきりしており、混ざると酷い臭いに変わる二つが並んでしまった最悪さ。

 特徴が強烈で印象的なものほどぶつかり合う確率が高く、絶対にどちらも退こうとしない。

 それは匂いだけでなく、浮くことを怖がる人々の心の中でも呪文か暗黙の了解として広まりつつある。この一組はまさにその手本だ。


 声が挙がり、挙げられた声に大声が掛け返す。高い声も低い声もひたすら自分を主張する。

 赤いネオンは縦揺れの合図で、青いネオンは手拍子の合図。茶色が射すと皆一斉に黙る。

 すぐに意識を手放すのはルール違反だ。倒れるのはまだ早い。

 始まりと一緒にこの部屋で作り出されたルールに従っていなくては。

 

 体力だけは十分ある人々なので、自分から動こうとしなくても体は勝手に流されていった。

 見回す余裕はないけれど、同じような顔つきの、同じような服装の、大体同じにしかできないでいる化粧の人々。

 時折、それでも他人と違う個性を訴えたい人たちがああやって別々のブルージーンズをつけてくるのだけれど、結局それが何になるのだろうか。

 

(差がないどころか不快臭。どうにかしてよ!)


 耳から入る音に制限ができた。部屋中に飛び回っていた雑音が一気に収まる瞬間。

 暗闇の中に組み上げられた四角いステージの上で足を軽く二度鳴らし、背筋を伸ばしたスタンドマイクへ彼女が手をかける。 

 

 メインで歌う彼女が囁くような声で何かを告げた。

 ざらついたマイクの先へ、黒く厚塗りにした唇を押し付けるように近づけて。

 小気味の良いメロディーへ乗せた洒落た台詞に、一度静まった箱部屋がまた、どっとざわめいた。

 舌の扱い方も、細い指がマイクスタンドをつねる様も、この場の誰よりもキツくて個性的なブルージーンズを漂わせる姿も、緩くうねって戻す腰の突き上げも、全てが人外的に美しい彼女の声をよく見せるための要素にすぎない。

 超音波のような音を細かく振り分ける喉を持った彼女の登場に、人々は何を求めているのだろうか。

 今、目で見ている光景をどうとらえているのだろうか。


 首を振るまでおとなしくやっていられるはずもなく、何人かの傍観者が彼女の名前を呼び叫ぶ。

 まるで人ではなく鳥の頭がついた幼児のようだと思ってしまった。

 筆頭に続いて連鎖が起きる。鎖繋ぎかドミノ倒しのように後ろから前へ波を送り出す。

 とうとう会場全体が彼女の名前でいっぱいになってしまった。

 メインボーカルの彼女だけでは終わらず、迷惑そうな笑みを投げながら手を振るベースの男と、ドラムの男と。と、メンバーの名前が一巡してもまだ止まなかった。

 また間もないうちに静寂を追い出してしまった愚鈍な人々を、精神で鳥瞰する私。

 この時間が非常に不愉快で、汚らわしくて口を開かずにただ一人を見守っていた。



「嫉妬? 何? あんたさ、アタシのファンに嫉妬してんの? いつだってあんたが一番だって言ってんじゃん」


 出番を終えて舞台袖に戻ってきた彼女は、涙目の私を見るなり開口一番「あきれた」と言った。

 私の好きな顔が私の大嫌いな匂いと一緒に目の前でかぶりを振る。


「だって、みんながアキちゃんのこと呼ぶんだよ。私だって声出してるけどあの中じゃ……」

「聞こえてる。ちゃんとあんたの声聞こえてるよ」


 彼女はそうやって私の言い分をいつもキスで塞いでしまう。真っ黒い口紅の色を私の顎に移らせて、あたたかい舌を差し込んで。嗄れた声を口と口の僅かな隙間で出す。


「アタシ、耳がいいからさ」


 唾液の糸を引きながら体を背け合うと、ネオンの赤色が天井から反射した。

 口を離してもずっと艶っぽい彼女の先端ばかり見てしまう。

 ゆっくりと返される踵を引き留めようとしても、キスされたあとはすぐに反応できなくて。


「アンコール。行ってくるよ。ここから応援してて」


 ギターを掴んでまた舞台へ上がっていく彼女を目で追う。何も言わずに、心臓が脈打つ音がベースの重低音に重なるまで黙って見送っていた。

 

 私の彼女は駆け出しのバンドマン。中学以来の幼馴染で、私たちが意識し始めてからは六年がたっている。

 付き合っているかと言われたら、きっと友達の延長。彼女は私に友愛のキスをする。けれど私にとっては特別。何よりも彼女を感じられる大好きな行為。

 私と彼女はすれ違っているのだろうか。

 この想いは閉じ込めておくべきなんだろうか。

 

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