まそかがみ
カスミカ
1
「そうして、すべてを諦めて受容してしまうことこそが、人生における大いなる浪費に繋がるということはおわかりですか」
槐琴音の言い分はいつも唐突で、尊大で、傲慢で、居丈高で高飛車だった。
やる気のない音楽部が滅多に近寄らぬ音楽実習室を放課後の縄張りにし、卓越した天賦の才でピアノの鍵盤を叩き、技巧に任せた演奏を奏でるのが、彼女の日課であった。
かと思えば、不貞腐れたような表情で気紛れに演奏を取り止めて、ろくな事前知識もない乾雅代に感想を無理強いしたりもする、天衣無縫の体現とも呼ぶべき少女である。
「自分がどうこう周囲がどうこう比較して、勝手に諦めるその姿勢に理解が及びません」
雅代の隣に座り込んだ彼女もまた淑女たちの例に漏れず、それ相応の躾を受けて育ってきた才媛に違いはないはずであった。
よほど暇を持て余しているか、それとも雅代がこの御影女子學園の看板を背負うに足らぬほどの劣等生であることを指摘せずにはいられなかったか。ブリックパック入りの野菜ジュースをストローで啜りながら、雅代は後者だろうかと考えて、ぼさぼさの短髪を手でかき回した。
体育館のアリーナでは、汗だくになった剣道部員の面々が、各々帰り支度を始めていた。
雅代もまた、汗の染み込んだ藍色の上衣の内側に制汗スプレーを振りまいた。いくら体臭に気を遣っていようと、小一時間の乱取りを経た剣道部員ほど筆舌に尽くしがたい熱気と異臭を放つ存在はそうそういない。雅代なりの、琴音への配慮でもあった。
八月の晩夏ともなれば、多少なりともやる気のあった高等部の三年生は言わずもがな、二年生も受験の準備で練習に顔を見せなくなる季節である。もっとも、内部進学で済ませる生徒にとっては、愛しのモラトリアム期間に他ならない。
駄弁りもほどほどに、部員たちは手早く竹刀と防具を用具室にまとめて放り込むと、行儀よく最年長の雅代に一礼し、その場を後にしていった。
「その割には、ずいぶんとお甘い指導のようで」
「だって夏場だよ。本気でやりたい子は、言われなくても勝手に練習してるだろうし。私や顧問がとやかく言うことでもないでしょ」
「それで、結果は出ましたか?」
「結果の為に剣道やってるわけじゃないもの」
お世辞にも上手いとは言えぬユーフォニアムとチューバの二重奏が、開け放たれたアリーナ両サイドの扉から、濡れた土の香りを連れて流れてくる。グラウンドのスプリンクラーが水を撒く音が、それらに混じって聞こえてきた。
「別にインターハイに出て優勝する、みたいなのだけが目標じゃないよ。内申だって立派な動機でしょ」
「トップを取ってやろうとは思わないというんですか?」
「生憎、私は警察官志望でもなけりゃあ、天才剣士を目指してるわけでもない」
「出ましたね。先輩の妥協が」
琴音は、妥協というものを蛇蝎の如くに嫌っている。生来の潔癖症が彼女をそうさせたかどうかは定かではないが、入学当初の一年坊の時分より、その妄執すら感じさせる極端な感性は、学校内の部活動全従事者を震撼させ、彼女たちに井戸端会議の議題を提供した。
まず彼女は、部室棟の全部室に対して、片っ端から体験入部の届け出を提出した。毎年四月、部活動やサークル、同好会というのは貪欲で、喉から出た手で手招きするほど新入生を欲するものである。言うまでもなく、琴音の体験入部は二つ返事で受理された。
文武両道を地で行く琴音を欲しがる団体は、枚挙に暇がなかった。竹刀を握れば有段者を軽々蹴散らし、道着に袖を通せば黒帯をちぎっては投げ、軟球を投げれば高等部の主砲を空振り三振に追い込み、ラケットを持てば言わずもがなのコールドゲーム。八面六臂の活躍を周囲にこれでもかと見せつけ、在校生の信頼と羨望と嫉妬を一手に引き受けた事実は、少女たちの記憶の隅で今なお風化することはなかった。
しかしいずれの部活においても、琴音が本入部の意思を示すことはなかった。引く手数多の選択肢は、琴音本人にとっては何ら意味をなさないものに過ぎなかったのだという。
曰く、妥協は人を腐らせる。
この一言で、あらゆる勧誘を切って捨ててしまっていた。
「なぜ限界をほんのわずかな試行回数だけで定めてしまうのです?」
「したくてしてるわけじゃないと思うよ、妥協」
「先輩や皆さんの、諦めに関する情熱にはほとほと辟易させられます。なぜです?」
槐琴音のいう妥協なる言葉ほど厄介なものはない。彼女の『結果を出せなくてよいのか』という主張とは、すなわち『健全な手法、健康な手段による目標の達成』である。合理主義と成果主義をかけ合わせたかのような、ある種超克しているともいえる琴音の思想に合致する環境など、いかに御影女子が格式高い横浜山手の私立女子校といえども、用意するのは困難であった。資金面では多少の融通が利いたところで、今度はメンバーのスタンスが琴音の機嫌を損ねた。逆もまた然りである。
基本的に、槐琴音という少女には協調性がない。物怖じせずに明け透けにものを言うということは、すなわち四方八方に敵を作るということに他ならない。
必然的に、学校での彼女の話し相手は、雅代のほかにいなくなる。腐れ縁の延長だが、意外にも雅代は、この関係を嫌ってはいなかった。
友達未満の話し相手。
口は恐ろしく悪いが、跳ね除けるほど冷酷にはなりきれない。なんだかそれが僭越が過ぎるようにも思えたからだ。他人を値踏みして裁定を行い、主観だけで彼女を無視する行為ほど、いとも容易にして憚られることはなかった。
ブリックパックの中身を飲み干すと、雅代は手荷物をまとめて立ち上がった。
「先輩」
そう呼びかけながら並び立った琴音の背の丈は、雅代と比べてバスケットボール一つぶんほど高い。喪服を思わせる学校指定のジャンパースカートには、皺の一つも見当たらない。墨のような純黒の生地が、彼女の起伏豊かな体躯を包んでいた。
「これ、どうぞ。お土産です」
琴音が差し出したのは、灰色を基調にした小さな紙袋だった。
「……なに、これ。どこのお土産?」
「先日、海外に行く用事がありましたので」
言い放って、琴音は言葉少なに踵を返して去っていった。鮮やかな赤のヘアバンドから流れる黒髪がしなやかに舞うとともに、ふうわりとした柑橘の香りが辺りに漂った。
一人残された雅代は、紙袋の中身を検めた。
エメラルドグリーンの化粧箱に書かれていたのは、『4711』の四文字。それ以外のアルファベットの羅列はどうにもドイツ語らしく、読み解くことができなかった。
「やっぱり汗臭かったかな、私」
中には、オードトワレを注がれたアトマイザーが入っていた。
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