1月15日 桃野 千秋

 桃野千秋はそっと本を閉じた。「あぁ」と思わず声が漏れた。

 指で表紙に触れながら、素敵な物語だった、と感動を振り返っているときだ。ドアチャイムが鳴った。

 桃野の部屋にはカメラ付きのインターホンなどという便利な代物はついていなかった。玄関ドアの脇についているボタンを押すとチャイムが鳴る。訪問者の顔を確かめるには、ドアスコープからのぞき見るしかない。

 もっと不便だと感じたことは、ほとんどなかった。連絡もなく誰かが訪ねてくることはまずない。管理人がうるさいからか、新聞の勧誘や訪問販売もめったに来ない。米や野菜などの仕送りをしてくれるような親でもない。

「はーい、今、出ますよぉ」

 頼んでいた「北海道の名店スイーツ食べ比べセット」が届いたのだ、と思った桃野の声は弾んだ。

 ドアスコープをのぞくも、宅配業者らしき人物の姿はない。誰もいない。薄暗い廊下が見えるだけだ。

 ピンポンダッシュをするなら、一階でやればいい。わざわざ階段をのぼってまでするイタズラではない。それにこの一帯の物件は学生か単身者向けで、ピンポンダッシュをして喜ぶような年齢の子どものいる家庭はない。

 大学生が幼稚なイタズラをしないわけではないが、心当たりはない。

 ドアの前にしゃがんで、スコープの死角に隠れている気配もない。家賃が安いから、扉も壁も薄い。だから、わかる。

 チェーンロックを外すのに手間取った。念のために再度、人が潜んでいる気配を探った。誰もいないと判断したが、右手でノブを握ったまま、ノブのつまみを回した。

 ゆっくりとドアを押す。すぐになにかが扉に当たった。

 外に出て確かめると、こんにゃくゼリーと印字された段ボール箱がある。左右を見回して、人の気配を探る。エレベーターも動いていない。階段を駆け下りる足音もしない。

 ぐずぐずしていなければ、犯人の逃げる音くらいはつかめたかもしれない。桃野は悔やんだが、後の祭りだ。

 ブーンとバイクのエンジン音のようなものが聞こえたが、少し遠い。どうやら一本向こうの道から聞こえるものらしかった。

 犯人追跡をあきらめた桃野は、サンダルのつま先で軽く箱を蹴った。

「爆発するわけないか」

 言わなくてもいいことを口にしたのは、怖いからだ。怖いということが自覚できているなら大丈夫だ。

 桃野は二度、深呼吸をした。一応、目は開けたままにしておいた。

 箱は縦四十センチ、横二十センチ、高さは十五センチほど。封をしている粘着テープは、まだ新しいものに見えた。

 送り状のようなものもないし、送り状をはがしたような痕跡もない。段ボールの表面はきれいなものだ。

 抱え上げてみると、想像していたよりも重い。だが、持てないというほどではない。小脇に抱えるとかすかに不快な匂いがした。

 部屋に戻るとまず鍵をかけ、チェーンもかけてから、足下の靴脱ぎに謎の箱を置いた。廊下に置かなかったのは、さきほどの匂いのせいだ。

 思いついて、しばらくドアスコープをのぞきながら、聞き耳を立てた。ちゃんと箱を受け取ったかどうか、箱に対してどんなリアクションを示すか、犯人の立場ならば気になって仕方ないはずだ。

 しかし、犯人は隠れて様子をうかがっていたり、引き返してきたりはしなかった。

「やばいもんじゃないだろうな」

 管理人に報告するのが得策だと桃野も思った。チャイムが鳴って出たが誰もおらず、不審物が置いてありました。それで済む。

 だが、まずは自分で中身を見てみることにした。日本銀行券の束なのか、赤と青の導線がむき出しになったデジタルタイマー付きの電子工作物なのかを確かめてからでも、報告はできる。

 どうせ管理人に嫌な顔をされるならば、こちらの好奇心だけでも満足させたかった。

 だが、それが誤りだった。

 おそるおそる桃野は箱に手を伸ばした。

「ドーン」

 わざと自分で言ってみた。

「なんてね。さぁて、箱の中身はなんじゃろな」

 粘着テープに爪をひっかけ、勢いよくはがした。

「なんだ、ぬいぐるみか」

 しかし、透明なビニール袋に入っているのは、猫のぬいぐるみにしては精巧すぎた。

「げっ、まじかよ」

 顔をそむけて、両手でふたを閉じた。しばらく、桃野はそうしていた。

 左手で箱を押さえたまま、腰を浮かせるようにして右手でつまみをひねる。ちゃんと立たないとチェーンロックは外せなさそうだった。

 箱と中身を潰さないように左足でふたの部分を押さえながら、チェーンを外す。勢いよくドアを開けると、蹴るようにして箱を廊下に出した。

 ドアを閉めて、白井に電話をかけた。

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