1月14日 夏八木 蒼
夏八木蒼はのけぞった。
「まじかー」
天井を見上げて、うめく。
月末締め切りの小説の賞にむけて書いている原稿も、ようやく進み出していた。ところが重大な欠点が見つかったのだ。
これまでもポツポツトと疵が見つかることはあった。小さなミスであれば、カバーできる。しかし、今しがた夏八木は発見した問題は、小説の根幹にかかわるほど大きなものだった。
「うわぁうわぁうわぁ」
わめきながら、左右の指で膝を叩き続けた。
突然、夏八木は動きを止めた。一度、立ち上がり、姿勢をただして座り直した。背筋を伸ばし、目をつむる。
すぅ。
はぁ。
息を吸い、吐く。
しばらくの間、呼吸だけに意識を向ける。
もちろん、「どうしよう」という感情や、具体的な処置の方法といったものが頭をよぎる。そのたびに「呼吸、呼吸。考えるな、息をしろ」と不安を追いやる。
ずいぶんかかって、ようやく呼吸に集中できる時間が増えていった。完全な瞑想状態にはならないが、電源が入ったままのパソコンを壁に叩きつけたらどうなるかを想定できるくらいには落ち着きを取り戻したところで、夏八木は目を開けた。
しばらくなんの操作もしなかったので、パソコンは省エネモードに切り替わっている。人差し指でそっとスペースキーを押した。パッと画面が明るくなる。
ひとまず、電源を落とすことにした。考えごとをするときは、パソコンに向き合うよりは紙とペンのほうがいい。
夏八木は問題点をノートに書き出していった。改善案はまだ考えず、問題点だけを列挙していく。ひととおり出揃ったところで、立ち上がった。
コーヒーかお茶か。
迷った末に夏八木が選んだのは、バーボンだった。
瓶に直接、口をつけて少し口に含んだ。舌がひりつく。
飲み込んで、はぁと息を吐いた。喉が焼ける。熱が胃に落ちていくのがわかった。
「これで今日はもう書けないな」
さみしそうに夏八木はつぶやいた。
執筆中にアルコールを摂取するのは、夏八木にとっての禁忌だった。お酒は頭を活発にしない。鈍らせる。
リラックス状態でひらめきを得ることはあれども、精緻な思考はアルコールの入った状態ではできない。
「毒を食わば皿までじゃ」
夏八木は冷蔵庫からチーズを取り出す。銀色のフィルムを雑にはがして、チーズをかじる。わざと足で冷蔵庫のドアを閉めた。
右手にバーボンの瓶、左手につまみのチーズを持ちながら、もぐもぐと口を動かしながら、ノートの前に移動する。
さすがにみっともないと思い直し、コップを取りに行き、蛇口から水を注いだ。あふれるほど入れてから、二口飲む。コップの七割ほどは水が残っていることを確認し、またノートの前に行く。
コップから液体があふれそうになるほど瓶からバーボンを注ぐと、混ぜずに一口飲んだ。
「濃いねぇ」
満足そうに夏八木は言った。
バーボンの水割りをちびちびやりながら、ノートをチェックしていく。
ある程度の修正はできそうだった。締め切りまでの残り時間を考えると、ゼロから書き直すのは厳しい。
どうにかして、この重大なミスを活用できないだろうか。いわば、これは作者の夏八木ですら想定していない出来事だ。これをひっくり返せたら、読者にとってはどんでん返しにならないだろうか。
コップが空になるまでの時間では、いいアイデアは思い浮かばなかった。
夏八木はオフにしていたケータイの電源を入れた。すぐさま、メールの着信があった。想像通り、迷惑メールばかりだ。受信時刻を見ると、だいたい二十分おき、ひどいときには三分おきに来ていた。
しばらく、夏八木はメールのタイトルを追っていたが、桃野からのものはなかった。
何十通もの迷惑メールを消去した後で、夏八木の手が瓶にのびる。
「甘くないねぇ。なにごとも」
ぼやきながら、夏八木は口元を手の甲あたりでぬぐうようにした。親指の付け根あたりにできた擦り傷にも、バーボンがしみた。
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