1月12日 夏八木 蒼


 夏八木蒼は頭に軽い衝撃を感じた。

 びっくりしたまま振り返ると、白井がにやけていた。丸めて筒状にしたパンフレットのようなものを手にしている。

 おそらく、それが凶器だろう。

「ハゲたらどうするんですか。責任とってくださいよ」

「わかったよ」

「軽く言いましたね。カツラとか増毛とかって、けっこう高いんですよ。ふさふさの白井さんは知らないでしょうけど」

 線が細いこともあって、背後から見ると女性と間違えられることもあるくらい白井は髪の毛が長い。夏場こそ、うっとうしいのか短髪だが、冬の今は肩まである。

「帽子のかわりさ。人類の体毛は保護のためのものであって、おしゃれのためにあるもんじゃない」といつだか笑っていたのを夏八木は覚えていた。

「お金がかかるのは困るな。責任とって、ハゲたお前と結婚してやるよ」

「そういうのが責任とるっていう考え方、古いですよ」

 夏八木は露骨に顔をしかめてみせた。

「冗談はともかく、ハゲを心配することもないだろう」

「ところがですね、最近、抜け毛がひどいんですよ。シャンプーするたびにごっそりと、排水溝なんかホラー映画ですよ」

 ほう、と白井はあごをなでるようにした。

「そりゃ、お前、最近、髪をのばしだしたからだよ。それで目につくようになっただけだ。気にすることじゃない」

 想わぬ白井の観察力に、夏八木は驚き、感心した。

「髪のばしてるの、よくわかりましたね」

「髪型のことはよくわからんが、お前さんはいつもショートだからな。さてはお金がなくて切りにいけないな」

「そんな人は先輩だけです」

「じゃあ、なんで? これか? これに言われたのか?」

 白井は小指を立てる。夏八木は指を握り、軽くひねる。痛くないはずだが、わざとらしく白井は苦悶の表情を浮かべて、お調子者を演じた。

「ったく、いってぇな。折れるかと思ったぜ。いや、ポッキリいってるのかも」

 大げさに小指に息を吹きかけている。

「お金じゃなくて、時間がないんですよ」

 ぽつりと漏らしてしまってから、しまったと夏八木は悔やんだ。今の声はトーンがシリアスすぎる。

「まさか、お前」

 はっと白井は口元に手をやった。その仕草で芝居だと夏八木は気づき、ほっとした。

「死ぬのか? 余命一ヶ月とかいうんじゃないだろうな」

 肩にかかった白井の手を夏八木は払いのけた。目の演技力だけは真に迫っていたが、余計な動作がいけないな、と評論家ぶってみた。

「死ねませんよ。絶対に死にません。まぁ、日々、死に向き合ってはいますけど」

 自作の小説のなかのこととはいえ、年が明けてから、夏八木はすでに二人の人間の命を奪っている。

「お前、いつから哲学科に移ったんだ? それとも、今さらフェリーニにでもかぶれたか?」

 無視して、夏八木は言う。

「安心してください。目下の大きな悩みは、排水溝を見て、『サイコ』みたいな悲鳴をあげないことですから」

 ふん、と白井は鼻を鳴らす。

「まだましだ。こっちなんか、お前よりも年齢があれだから、朝、起きたら枕に抜け毛がある。寝てただけだぞ。ホラーというなら、こっちのほうが恐怖だ」

「ストレス抱えているんです」

「相談に乗ろう。金額次第だが」

 白井は指で輪っかをつくる。

「白井さんにはどうにもできないことですから。こっちでなんとかしますよ」

「どうやら、マジの悩みみたいだな」

 夏八木は黙ってうなづいた。

「じゃあ、あれだ。オレの出る幕じゃなさそうだ。いつかも言ったかもしれんが、無茶はするなよ。やばくなったらすぐ言え。助けてやる」

「でも、金額次第なんですよね」

 真剣な白井がどこか不気味で、夏八木は意地悪く訪ねた。

「もちろん。ただ、出世払いオーケーだ」

 そこへ一人の人物が登場し、即興コントめいたやりとりは打ち切られた。

「楽しそうですね」

 顔でへらへらしながら、夏八木は困っていた。目の前の人の名前が思い出せないからだ。

「なんだ、緑川か。実家帰ってちょっと太ったんじゃないか」

 からかうように白井が自分の腹部をポンと叩いてみせた。

 あぁ、そうだ。緑川だ、緑川。下の名前は思い出せないというか、たぶん、そもそも知らないはずだろうけれど。

「どうも」

 軽く会釈して、夏八木はその場を立ち去ろうとした。大学生らしい無駄な時間をすごしている場合ではない。

 守らなくても誰に怒られるわけではないが、締め切りが待っているのだ。

 

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