1月9日 緑川 春海
緑川春海はスーパーに駆け込んだ。
大学が近いだけあって深夜営業は当たり前、二十四時間営業の店舗もあるなか、ハブリマート彩陽大学前店の閉店時間は二十時だった。営業時間を絞り込み、人件費や光熱費といったコストをカットする。そのぶん、値下げをして競合店と差別化をはかる。それがハブリマートの戦略だ。
そのように緑川春海は夏八木蒼から聞いていた。
広くはない店内の狭い通路を進み、緑川は「7 通路中華材料・海苔・瓶詰め」のコーナーを目指した。
お目当ては青椒肉絲の素だった。
掃除は好きだが、緑川にとって料理は苦手分野だった。そもそも、食べ物に対する執着がそれほどなかった。味音痴というわけものない。美味しいものが食べられればうれしいが、工夫をして美味しいものをつくったり、お金と時間をかけて美味しいものを食べに行くということもしないで過ごしてきた。
自炊はしているが、それまで家事一切を妻に任せ、急な単身赴任で一人暮らしを始めたばかりの中年男のようなレベルだ。
パンはトースターが焼いてくれる。米は炊飯器が炊いてくれる。一応、簡単なおかずはつくれる。今の時代、弁当屋もあるし、スーパーやコンビニでお惣菜も売っている。
ある程度、料理の腕が上がって、食材を残さないようにできるのならばいいが、レシピを増やし、うまく献立を考え、食材を余すことなく使い切ることは難しい。下手をすれば、かえって経済的にも損をすることになる。
そんな緑川が青椒肉絲をつくろうとしていた。もちろん、これまで青椒肉絲などつくったこともないし、つくろうと思ったこともなかった。ピーマンと肉となにかシャキシャキした触感のものが入っていたという程度のイメージでつくり方も知らない。肉がひき肉なのか、そうでないのかもわからない。
皿洗いが大変そうというのが、緑川の中華料理に抱いているイメージだった。四千年の歴史に敬意など持つわけもない。
エビチリの素や天津丼の素などが並ぶ棚の前で、緑川は青椒肉絲の三文字を探した。
なぜ「青」「椒」「肉」「絲」なのかと考えながら、棚の左端から右へと視線を滑らせていく。「肉」はわかった。食材だからだ。そこまで思い至ったところで、緑川ははっとした。
脳裏に浮かんだのは。白い服に同じく白でやたら高さのある帽子をかぶった小太りの男が、大ぶりの鍋を炎の上であおる姿。緑川の部屋のコンロは一口しかないし、もちろん、火力も一般的なものだ。中華鍋もない。
こんな状況でつくれるのだろうか。緑川は不安に顔をしかめた。
遅くまでやっているチェーンの中華料理店に青椒肉絲があれば、帰りにテイクアウトするのだが、はたして青椒肉絲などあっただろうか。
緑川の目が青椒肉絲の文字をとらえた。箱を手にしようとしたときにドンと背中に衝撃を感じた。狭い通路を通ろうとした中年男と接触したのだ。
バラバラと棚から商品が落ちる。慌てて緑川は箱を拾って棚に戻す。
最後の一つを手にしてつくりかたを確認すると、肉とピーマンだけ買えば、それらしいものはできるようだった。
閉店時刻が近づいたことを知らせる蛍の光が流れ始めた。スピーカーまでコスト削減のために安物なのか、音が割れていた。
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