独奏 ~月の音色と奏失感~

リア

独奏 ~月の音色と奏失感~



 君が口ずさんでいたメロディーが、不意に頭に蘇ってくる事がある。遥か彼方の記憶に霞む故郷を歌った曲だと言い笑いながら、藍色に染まる瞳で遠くの空を歌う、あの歌声が。真っ赤に熟した林檎のような紅を頬に宿し、目をそらせばふっと消えてしまいそうなほどに儚い笑顔を浮かべる君の歌声が……。

 

 ゆっくりと目を開けてみれば、果てしなく広がる青い空と、それにひけをとらないほどに美しい、花々が咲き乱れる植物の海が見える。耳を澄ませば鳥たちの歌声が聴こえた。それは君のことを思い出して過去に囚われている僕を嘲け笑うかのように羽ばたいていき、僕を置き去りにするのだ。


 風が、優しく頬を撫でて近くで淀んでいたの匂いを巻き上げる。それは、僕の髪の毛を優しく揺らして近くで淀んでいたマリーゴールドの匂いを遠い遠い空へと運んでいく。


 もう一度目をつぶってみれば故郷を慈しみ懐かしむ君の歌声が聴こえ始め、今も僕の隣で微笑んでいる錯覚に陥った。しかし、それは幻に過ぎなくて、隣に君の温もりはない。あるのは優しい太陽の日差し、それだけだ。だってもう、君は……


──彼女は、この世界に存在しないのだから。


 丁度一年ほど前に、病にかかって死んでしまったのだ。皮肉にもその死に顔は綺麗で、この世界中に散らばっているどんな宝石にもひけ劣らないほどに美しかった。ただ眠っているだけなのではないか、声をかければもう一度あの金糸雀カナリアのような、透き通った歌声を聴かせてくれるのではないかと本気で思うほどに。


 しかし、どれだけ彼女の前で泣き喚こうが、彼女が好きだといってくれた僕のギターの音色を聞かせようが、一向に目を覚まそうとしない。それの事実が、彼女の死をよりいっそう重いものにしていた……。


 背中に背負っていたギターをケースから出して、紐を肩にかける。十数年も一緒にいた相棒は、すぐにでも弾いてと言わんばかりに日光に照らされて光り輝く。僕は、少しだけ微笑みゆっくりと手を楽器に重ねた。そして、弦を弾いて歌い始める。彼女ほど上手ではないけれど、つたないけれど、想いが詰められた故郷を恋うる歌を。彼女と共に過ごした日々を、心のなかに蘇らせながら……。


~※◈※◈※◈※~


 僕が彼女と初めて出会ったのは、暖かい日差しが降り注ぐ春の日だった。当時、僕の相棒だった猫のシャンタと共に草原を駆け回っていた時……遠くから、少女の歌声が聞こえたのだ。それも、突然に……。


「ゆらりゆらりと海は歌う、空の願いと命をのせて

木々の精は風を歌う。あの日の音色を思いだし

海よ、空よ、風よ、木々よ、我の声を神に届け

この世界に幸せを、この世界に救済を」


 その歌声は平凡という名の幸福と共鳴しあい、いつものなんら変わりもない風景を何十倍にも美しいものに変えていた。遠くまで響く歌声に、すべてを包み込むような優しさ。それに、歌っている少女の美しさといったら……この少女を歌姫と言わずに、何というのだろうか。僕の心は、一瞬にして彼女に掴まれてしまった。


「そこに誰かいるの?」


 歌声の主である女の子が長い髪を柔らかい春の風で揺らしながら、後ろを振り向いた。青いチューリップの花弁が神風に吹かれてゆっくりと舞い上がる。その姿と言ったら、美の女神アフロティーナにも負けず劣らずの美貌を持っていて、僕は息を飲み込んだ。


 月長石ムーンストーンのように、白く艶やかな髪の毛。ほっそりとした体が纏っているのは、樹氷の森の奥底に住まう氷の精霊のような、冷たくも美しい神秘的なナニか。そして、その全てが麗らかな太陽の光に照らされて輝いているのだ。


 少女と、目があった。こちらの方をそのまっすぐな瞳でじっと見つめてくる少女。その純粋な瞳に耐えられなくなって、僕はすぐに視線を横にずらす。すると少女はその美しいウグイスのような声でこちらに問いをかけてきた。


「ふーん、青い髪に青い瞳……珍しい色をしているわね。あなた、いつからここにいたの?」


「あ、えーっと……さっきまで友達のシャンタと一緒に散歩をしていたら歌声が聞こえてきて……歌声を追ってここまで来ました」


 むしろ、目の前にいる少女の髪色の方が珍しいと僕は思った。なぜならこの辺りは[瑠璃の旅人]と呼ばれる青い瞳と髪を持つ人々が住まう集落が多く、それ以外の人間の方が珍しいのだ。


「へぇ……ねぇあなた、この辺りに住んでいる人?」


「はい、小さいときからずっとこの近くの集落に住んでいます」


 僕が応答すると、少女は心なしか嬉しそうな表情をしていった。先程までの何処か冷たい表情とは全く違う、明るい表情でいった。


「私、最近この辺りに引っ越してきてね、友達がいないの……それで、もしよければ友達になってくれないかしら? 私の住んでいるところに同い年の人が居なくてね……」


 本当にいきなりだと思った。出会って五分もたっていない相手に友達になろう、という人間はみたことがなかった。否、そんな人間がこの辺りにいるはずがなかったのだ。だって、この辺りの集落は言わば限界集落というもので極端に子供が少ない。


「勿論、僕でよければ構いませんが……」


「本当⁉ それじゃあ、まず名前を名乗らないとね。私は月音‼ 君は?」


「僕は悠人です。よろしくお願いします」


「よろしく‼」


 ふわっと、春の風で舞い上がる羽のようにどこか神秘的な少女の……いや、月音の笑顔。僕はきっと、彼女の歌声と共にこの笑顔を忘れることはないだろう。僕がこれから先、君のいない世界を生きる途方もない時間。いつかこの身が朽ち果てて死んでしまうその日まで、ずっと、ずっと……。


 優しい風がマーガレットの花びらを巻き上げ、同時に可愛らしい匂いが鼻をくすぐる。風のささやき声が僕を通りすぎて、ギターの音色も止まってしまった。


 ──そういえばこの曲は、初めてあったときに月音が歌っていた歌だっけ?


 そんなことを思い出して、僕は微笑んだ。しかし、彼女はもういないという事実がまた心に重くのし掛かり、すぐにその表情は消え失せる。


 一秒、二秒と無音の空間が続き、それに耐えられなくなった僕は、ギターの弦を弾いた。その音から新たなメロディーを思いだし、声に出して歌う。すると、蘇ってきたのはまた別の時間の思い出。二つ目の物語は、彼女と僕が出会ってから、暫くたったときのお話。


 あの日から、僕らはこの草原で毎日のようにあってたくさんの歌をうたった。色々な会話もした。世間話や自分の好きな曲について。各自がすんでいる村で起こった、数日で忘れ去られてしまうような小さな事件。そして彼女の故郷、過去について。


 彼女は元々、水辺の街に生まれたらしい。彼女はいつも、その町の風景を優しい声色で語ってくれた。時には語りで、時には歌で……。明るく楽しい、過ぎ去ってしまった思い出を。そして、今もなお彼女を縛り付ける苦い後悔を。


 初めてその話について語ってくれたのは、丁度一年前……彼女がなくなるほんのちょっと前のお話だ。あの日の月音は、いつもとちょっとだけ様子が違った。太陽のように明るい微笑みには雲がかかっていて、その頬には今にも雨が振りだしそうであった。


「なにがあったの?」


 穏やかな風がゆったりと流れる草原で、あの日の僕は君に尋ねた。ううん、何でもないの。と君は優しく微笑むけれど、影は消えない。その表情は今にも崩れて泣き出しそうである。僕は、そんな彼女を見ていたたまれない気持ちになり、背負っていたギターを地面において彼女の横に座った。


「いきなりどうしたの?」


 少しだけ顔をあげて可愛らしい顔をちらりと見せてくる彼女。


「いいや、なんでもない。少し心配になっちゃってさ」


 彼女を見つめてそんな口先だけならなんとも言える甘美な響きの言葉を紡ぐと、彼女は僕から視線をそらしていじけた子どものような幼い表情を浮かべていった。


「……心配って。ちょっと昔の事を思い出しちゃっただけよ」


 彼女の言う昔のこと、とは大半が故郷の町のことを指している。僕の知らない、彼女が暮らしていた町。彼女が言うには海が近くにあって、波のさざめきが町のどこにいても聞こえるらしい。


「いつも教えてくれる故郷のこと?」


「そう、海が綺麗なあの町のこと」


 そういうと彼女は、遠くで春風にのって空へと舞い上がるローズマリーの花びらを眩しそうにみつめる。同じ風が月色の彼女の髪を揺らし、彼女はそれを鬱陶しそうにはらった。


「ねぇ悠人、私達が出会ったのってどれくらい前の話だっけ?」


 不意に尋ねられて、僕は一瞬だけ焦った。しかし、彼女と出会ったときにはまだ桜の花弁が舞っていたことを思い出す……そして、その季節が二度通りすぎ、今も色とりどりの吹雪に混じって薄いピンク色の花弁が空を駆けている事に気が付き、僕は答えた。


「ちょうど四年くらいかな」


「……そっか、もうそんなにたつんだね」


 どこか懐かしそうな表情を浮かべる彼女。そして、僕と視線を交わらせずに、下を向いたまま彼女は僕にこう問いかける。


「君は、私がどんなに悪い人でもずっと仲良くしてくれる?」


 彼女に差していた影がよりいっそう暗くなったのを僕は感じた。太陽が雲に隠されて光が弱くなるのと同じように、彼女に取り巻いている何かが彼女を隠してしまっている。僕が無言で頷くと、彼女はさらに続けて問いつづける。


「それじゃあ、もしも私が人を殺していたとしても同じことが言える?」


「勿論、当たり前じゃん」


 僕は即答した。自分でも驚いたくらいに早く答えた。だって、例え彼女が過去に人を殺していたとしても、今の僕には何ら関係ない。それに、僕にとって彼女はこの広い草原で奇跡的に巡り会えた大切な“友人”だから。僕にとって大切なのは、その事実だけだ。それはずっと、いつまでも変わることがないであろう。


 彼女はそっか、と少しだけ悲しそうに微笑んだ。


「ねぇ、それじゃあさ……ちょっと重たい話になってしまうかもだけど、今日は私がどうしてここに来たか……その理由を、聞いてくれない?」


 その言葉には、少しの躊躇いと憂いが交わりあっている。しかし、それと同時に決意の心が見え隠れしていた。


「いいよ、ゆっくり教えて」


 彼女は数秒間瞳を伏せて、深呼吸をした。そして、先程まで彼女にまとわりついていた雲を風で吹き飛ばし、今日のなかで一番晴れやかな笑顔で言った。


「ありがとう、悠人」


 ──これは、私がここに来たきっかけの物語。今も私の心の奥深くに眠り続ける懺悔の物語……かつての私はあの町もう戻ることのできない町で、優しい母と思慮深い父親と三人で暮らしていたの。とても、穏やかで幸せな日々だったわ。群青色に染まる海と、瑠璃色の空を隔てる水平線。町全体を包み込む海の香りに、両親の笑顔……。


 あの頃の私は、間違えなく幸せだったわ。望むもの全てがそこにあった……少なくとも、十二歳の頃まではね。私の生活が一変したのは、十三歳の誕生日だったかしら? そのくらいの時、私が病気にかかったのが原因なの。


 心臓が悪くなる病気だったのよ。家でゆっくりとしていたら、いきなり心臓が締め付けられるくらいの痛みが走って、倒れて……気が付いたら病院のベッドの上にいたの。近くには両親とお医者様がいて、私の顔を心配そうに覗き込んでいたわ。


「月音!! ……よかった……」


 訳もわからないまま母親に抱き締められて、父親から大きな手で頭を撫でられて、お医者様からお話を聞いた。どうやら、私の命は残り少なくてせいぜい生きられたとしても、6ヶ月……半年だけだって言われたの。


 あのときの衝撃を一生忘れることが出来ないと思う。だって、信じられる? 13歳になったばかりで、人生の華をこれからようやく迎えられる……そんな時間に、あなたの命はもう短いです、あと半年しか生きられないです。って言われたのよ?


 少なくとも、私はその事実を飲み込みきることが出来なかった。私の心は絶望と言う甘美な麻薬に蝕まれていったの……生きていた、そんな感情に囚われながら……いるかどうかもわからない神様を憎みながら時間を無駄に過ごしていた……。もう、あのときは生きることを諦めていたかもしれないわ。


 [彼女]と出会ったのは、そんな絶望の真ん中にいる時だった。当時の私は、病院の大部屋に入院していたんだけど、そこでであった私より三つ年上の女の子。夜闇を彷彿とさせるような長い黒色の髪に、雪のように白い肌……そしてなにより、生気に満ちた瞳を持っていたのよ。


 彼女は、私の病気よりも一つランクが上の病気を持っていたんだって。本当にいつ死ぬかわからない……まるで“爆弾”を持って生活しているみたいだって、言っていた。それでも、生きることを諦めていなかったの。


 私は彼女とたくさんお話をしたわ。元々物語を読むことが好きだった彼女は入院生活の暇な時間に物語を書いているんだって。そのなかでは、病気を持っていない自分が仲間と共に色々な世界を見て回る……そんな、彼女の望んだ世界が描かれていたの。そんな彼女の夢はこの物語の主人公みたいに、自分の足で世界を見て回ることだったんだって。


 “もし病気が治ったら、一緒に冒険の旅をしましょうよ!!” 彼女は、いつもこう言っていたわ。どれだけ苦しい病気にかかっていようと、彼女は夢を捨てなかった。ものすごく綺麗だったのよ……私と違ってね。


 私は、彼女と一緒に話す時間が好きだった。出来ればこのままで、ずっと一緒に居たかった……けどね、運命って言うのは残酷なのよ。ある夏の日、彼女の心臓の病気が悪化して……彼女は意識不明の重体にまでなってしまったの。


 そして、それと同時にね……私の病気が直ったことを、お医者様に言われたの。服用していた薬のうちの一つが劇的に聞いたんですって。勿論、嬉しかったけれど……複雑な気持ちだった。


 私は必死に彼女の無事を祈ったわ。もう一度、あの優しい微笑みが見たかった。美しい声で、まだ続きがない物語について教えてほしかった……。その祈りが通じたのか……忘れもしないわ、あれは月が綺麗な夜のことだった。一度だけ、目を覚ましたの。


「つき……ね……」


 私は、その時初めて神様に感謝したかもしれない。おかしいよね、ちょっと前まで神様を憎んでいたはずなのに……。そのくらい、私は嬉しかったの。


「××(彼女の名前)!!」


 私が彼女の手を握ると、彼女は弱々しい力で私の手を握り返してきてくれた。私は彼女に微笑み返し、言葉を口にしようとした瞬間……彼女の口から、私が一番聞きたくない言葉が聞こえてきたの。


「ころ……して……機械を……とめて……」


「え?」


「いいから……はや……く……」


 私は消え行く彼女の微笑みをみて、私は一瞬だけ悩んだ。だって、ここで薬の供給をやめてしまえば、彼女は本当に死んでしまう……今はただ苦しみから解放されたくて、死にたがっているけれど……本当の彼女は生きていたいはず。そんなことはわかっていたのに、私は彼女を……。


 さっきまで小さく脈を打っていた彼女の心臓が完全にとまるのを見届けてから、私は近くにおいてあったバッグをもって、病室から抜け出した。知っている道をハチャメチャに、訳がわからなくなるまで駆け抜けて、何処か遠い自分の知らない場所で……死のうと思っていた。


 でも、結局私はこうして生きている……たまたま、通りかかった村の人がね、私の事を保護して一人で生活出来るくらいには環境を整えてくれたの。


 あの日、私は人を一人殺めた。生きることを望んでいた少女の時間を、この手で奪ってしまったの。


~~~


 ふっと、ほのかな光が彼女の瞳に宿った。溢れそうになっている涙を手で雑に拭って、笑顔を浮かべた彼女。しかし、拭っても拭っても涙は溢れ出てきて、とどまろうとはしない。


「……ごめんなさいね、急にこんな暗い話をしてしまって。どうしても、吐き出してしまいたかったの。誰かに話すことで、忌々しい過去を葬り去ってしまいたかったの……」


「そっか……辛かったんだね」


 対する僕は、あまりにも重すぎる話の内容に頭がついていけず、薄っぺらい言葉や御託を並べることしか出来なかった。目の前にいる少女は、人を殺している。そのあまりにも衝撃的な事実が頭のなかでずっと反芻していて、僕の心にゆっくりと絡み付いてくるのだ。結局この日は、彼女が泣き止んでから早めに解散をした。


 ……あのときの僕は、ただ呆然とすることしかできなかった。もう少し、彼女に寄り添えていたのであれば、変えられた・・・・・のだろうか? 今となっては分からない……だってもう、彼女と過ごせる時は過ぎ去ってしまったのだから。


 死んだ命が蘇ることは決してない。それは、今も昔もずっと変わることのないこの世界の理。そんなことは僕にだって分かっている。でも、もう少しだけ彼女と話したかった。もう少しだけ、彼女の温もりを感じていたかった……ただそれだけだったのだ。


 ……僕の中の彼女と共に過ごした記憶は、もうここで途切れてしまっている。彼女は……彼女は、この日を境に草原に来なくなったのだ。何の前触れもなく、急にやってこなくなった。次の日も、その次の日も、その次の日も……ずっとずっとずっと、待っても……。


 ゆっくりと、心が真っ黒な影に飲み込まれ、孤独に狂っていく音が聞こえた。隣にいたはずの、僕よりも小さな温もりが消えてしまうことはとても恐ろしいことだったなんて、考えたことすらなかった。


 少し前までは二人の歌声が響いていたこの草原。しかし、今聞こえるのは一人の少年の嗚咽のみ……。光が溢れていたはずのそこには、いつのまにか暗闇が広がっていたのだ。


 ……けど、半年くらいたったときだったかなぁ。ふと、思ったんだ。僕はこんなところで諦めるほど弱い人間ではない。彼女は僕に会いに来てくれなくなってしまった。しかし、完全にこの世界から姿を消してしまったわけではない。まだ、どこか……この世界のどこかで、彼女は息をしているのだ。


 その事に気がついた僕は、座っていた岩の影に置いてあったギターを背負って駆け出していた。彼女に会いに行くために、どうしてここに来なくなってしまったのかを尋ねるために……。


 彼女の住んでいると言う村は、この草原から大体30分歩いたところにあると言う。自分の背丈ほどある草花をかき分け、深い深い青色に染まる湖を横切り、前へ、前へと進んでいく。息が切れても関係がない、はやく彼女に会いたい……ただその一心で走り続けた。


 ……彼女とようやくで会えたのは、太陽が山の向こう側に沈もうとしている時間であった。彼女の住んでいる集落について、近くにいた人に月音の家がどこにあるのかを尋ねた。すると、その人は僕の事を怪しみながらも村の外れの湖の近くにある白い屋根の家と教えてくれた。


 その人にお礼も言わず、僕は月音の家へと走っていく。疲れたなんて、言ってられなかった。会いたい、会いたい、会いたい、もうそれしか考えていなかった。


 遠くに、水面の揺らめきと白い屋根が見えてきた……もう少しだ、もう少しで彼女のもとへと行ける。太陽の光が、朱色に染まった鳥のように天から舞い降りてきた。それらは、月音がいるであろう家の屋根を紅く染めている。


 その距離は1m、2mとだんだん近付いていき……とうとう僕は月音の家の扉の前に立っていた。一度深呼吸をして、呼び鈴を押してみた。ピンポーン、という音が辺り一体に鳴り響く……しかし、反応はない。扉が開いて、いつも通りの笑顔で“どうしたの?”と月音が出てきてくれることはなかった……。


 耳なり音が頭のなかで反響して、数秒間僕の見ている世界は時間を止めた……が、しかし


「ゆう……と……ゆうと!?」


 という彼女の声が家の中から微かに聞こえたのだ。僕は、反射的にドアノブに手をかけた。すると……鍵が開いていて、なかにはいることが出来る事に気が付く。不法侵入だとか、そんなことを気にしている暇はなかった。彼女が、僕を呼んでいる……それだけがただ大切だった。


 扉を開けてはいると……中は荒れ果てていた。辺りには、衣類や食料と思われるもの……包帯や薬の箱が散乱していたのだ。僕は、それらをかき分けながら声のする方へ進んでいく。進む度、大きくなっていく彼女の声……そして、僕の心臓の音。


「月音!!」


 そうしてたどり着いた彼女の部屋を開けると……僕の会いたかった彼女が、月音が……一つのベッドに横たわっていた。しかし、その姿は僕の知っているものとは全然違っていたのだ。体は痩せ細り、枯れ木を彷彿とさせるような見た目をしていて、以前まで光が宿っていた瞳は、虚ろになっていた。


「ゆう……と、来てくれたんだね」


 体を起こさずに、顔だけこちらを向けて弱々しく微笑む月音。僕は彼女の側によって、手を握った。


「月音……」


「ふふふ……いきなりこなくなって……ごめんね」


「そんなの……大丈夫だから……どうしたの?」


 僕が動揺を押さえて、出来る限り柔らかい声で彼女に尋ねた。お願いだから、無事だといってくれ……そんなことを必死に心で祈りながら。


「……最期にあなたにあえてよかった」


「最期……?」


 目の前が、どんどん黒く塗りつぶされていく。微かに灯っていた希望が冷たい風に吹き消されていった。


「えぇ、私、もう少しで死んで……神様の身元へいくのよ……ごめんね……最後に……あえて……よかった……」


「いやだ!!」


 月音が死んでしまうなんて、絶対嘘だろう……これはなにか悪い冗談で……そうだ、これは夢なんだ。目を覚ましたら、彼女がまたいつも通り僕の横で微笑んでくれて……。


「……机の上……みて……ありが……とう……さよう……なら」


 握っていたはず彼女の手が、重力に引っ張られてすとんと落ちる。僕の瞳にいつの間にかたまっていた涙が、彼女の頬を濡らした。しかし、彼女はそれを拭おうとはしない……。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 僕の絶叫が、家中に響き渡る。もう少し僕がはやく決心を決められていれば、僕が彼女の異変に気がついていれば、こんなことにならなかったはずなのに。僕のせいだ……僕のせい……。


 僕の心が、後悔に支配された。今まで感じたことのない強い感情に、なんとか押さえていた涙がこぼれ落ちる。泣いた、今まで生きてきたなかで一番泣いた。叫んだ、喉が枯れそうになるまで……。


 ひとしきり泣いて、叫んで、喉が枯れた頃、僕は“机の上……みて”という月音の声を思い出した。彼女が、死ぬ直前に僕に残したその言葉。調べてみる価値はあると思った。僕は、視界をあやふやにしていた涙を強引に手で拭き取り、机の上を見てみることにした。


「机の……上ここかな」


 散らかった部屋のなかで、唯一綺麗にされていた机……その上には、可愛らしい猫の形のシールで封をされた“手紙”が置いてあった。それを手にとって、裏を見てみると“悠人へ”という文字が書かれていた。


 間違えない。これはまだ彼女が生きていたときに、僕に当てて彼女が書いてくれた文章だ。僕は、震える手で何とか手紙を開けて、中を読んでみることにした。


~~~

悠人へ


 あなたがこの手紙を呼んでいるっていうことは、もう私はこの世界にいないのかな? こんな回りくどい方法でごめんね。どうしても伝えたいことが三つだけあったの。


 まず、私が死んじゃった原因について。私ね、病気にかかっていたんだってこの前話していたでしょう? それが、完全に治っていなかったのが原因だと思うんだ。それが直接的な原因だっていう証拠はないんだけど、なんとなくそんな感じがするの。だって、あのときと痛みがそっくりなんだもん……。多分、そうなんだと思う。


 二つ目。最後に会ったとき、私が[彼女]を殺したっていう話があったでしょう? あのとき、いきなりあんな話をしちゃってごめんね……どうしても、この心臓の痛みが走ると彼女の微笑みを思い出してしまって辛かった。何もかも本当は一人で終わらせたかったけど、君があまりにも優しいから、つい話しちゃった。本当に、ごめんなさい。


 三つ目は……今まで、私と一緒に遊んでくれてありがとう、これだけが言いたかったの。あなたは、この広い広い草原で巡り会えた大切な友人よ。ずっと、会えなくなったってあなたのことは友達だって、大切な人だって思っているわ。本当はもっと、書きたいけれど……ごめんね、もう時間が残されていないみたいなの。


 ありがとう、そしてさようなら、悠人。またいつか、死後の世界で会いましょう。


~~~


「ははっ……どうして……どうして……」

 

 読み終わったあと、思わず口からこぼれおちた僕の声がむなしく、壁に吸い込まれていく。先程、止まったはずの涙がまた流れ落ちてくるのを感じた。


 病気だったのなら、辛かったのなら、僕にいってくれれば良かったじゃないか。もっと……頼ってくれてもよかったのに。辛いことを、苦しいことを、ぶつけてくれたって良かったのに。


 昔の話だってそうだ。あのときの僕は、驚いてはいたけれど別に拒絶したわけではない。黒いどろどろの感情を見せてくれても……僕は君を嫌いになんてならなかった。だって、どんなに人を殺していたって、君は君だ。一人で悩んで抱え込むんじゃなくて、もっと僕にその痛みを分けてくれれば良かったのに。


 ここで、僕はあることに気がつく。君は、僕の事を大切な友人といった。しかし、僕にとって君は違ったものだったのかもしれない……。その先について、知ってはいけないものだと頭が警告を出した。しかし、僕は考えるのをやめない……心に沸き上がってきているこれは友情なんかじゃない。これは友情とは遠くて近い存在……


──そうだ、きっと、この感情は……恋心だったんだろう。


「僕は……君を好きだったのかもしれない。愛していたん……だろうなぁ……」


 こんな独り言を言ったって、だれも拾ってくれない。だって、この部屋には僕しかいないから……あるのは、僕の大好きだった……月音だったものだけだ。


~~~


 ギターの音色が、草原に哀しく響き渡る。聞こえるはずのない彼女の歌声と、見えるはずのない彼女の微笑みが、近くにいたのを感じた。しかし、やはりそれは幻にすぎなくて……僕の心を、締め付けるのだ。


 僕は、ずっと前……彼女が死んだとき……いいや、初めてあったときから、月音に囚われていた。きっと、僕はもう君以外の人を好きになることはないと思う。


 この世界にいない君と、この世界にとどまり続けている僕。二人を繋げるのは、ギターの音色と僕の歌声だけ。だから僕は……


──この音色を、絶やしてはいけないのだ。


  マリーゴールドの香りが弾け、僕の鼻をくすぐった。花言葉は、変わらぬ愛。それはきっと、何年たっても変わらない想いで君のことを歌い続ける僕に、ぴったりの言葉なのだろう。

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