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沫茶
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光も届かない海の底のような暗闇を、自転車をこぎ、駆け抜けていく。道路脇の家屋は後ろに飛び去り、血の気の通わない風が体の周りを流れていった。空を見上げてもそこにあるべきはずの月も星も群青色もなく、ただひたすらに暗かった。
もう何も残してきたものはなかった。そもそも、僕には何もなかった。悲しみとか苦しみとかそういうものはもうない。空っぽで、むなしいだけだ。
ペダルを漕ぐうちに目的地に到着した。自転車はそこらへんに乗り捨てた。歩きに変わっていくぶん進みも遅くなる。目の前に迫ってくるのは校舎だった。夜の校舎は黒い怪物のようにも見えなくもなかった。僕はいまから怪物の体の中に飛び込もうとしていた。
校舎の裏側にまわって、古びた窓に手をかける。ガタガタと音を立てて開き、黒々とした長方形が生まれた。ライトで照らされたその先はトイレだった。土足のまま廊下に出て、階段に足をかけた。ライトがなければ到底、登れなさそうだったが、ライトがあるのでなんともなかった。でも、本当はライトなんか持ってくるべきじゃなかった。どうして捨ててこなかったのだろう。
三年七組という札のあるドアの前で僕は立ち止まった。首をめぐらして背後を見る。そこには当然、濃厚な闇があるだけだった。ドアを開けても同じくだった。ライトで照らしても別に誰かがいるわけもなかった。深夜にこんなところにいるのは闇ぐらいだ。
右手にはライトを持っていて、左肩にはロープをかけている。ロープの先には輪っかを作っていた。ナイロン製なので切れる心配もない。ドアの上の窓を開いて、輪っかを作っていない方のロープの端を梁に括りつける。輪っかが頭より上のところに垂れ下がっていた。
すぐ近くの椅子を持ってきて登るとちょうど顔の前に輪っかが見えた。それを確認して、僕は手に持っていたライトを机の上にそっと置く。もう一度、椅子の上に登る。手を伸ばすと滑らかな手触りが感じられた。僕は最後、深く息を吐いた。その息の白さも暗闇に吸い込まれた。いつになく澄んだ泥沼の上の本当は濁っている水のような気持ちだった。前に、にじり寄って、僕は自分の頭を、目には見えない輪っかに、通そうとした。その時だった。
かすかだが、溜息のような吐息のような柔らかい音が聞こえてきた。一瞬で体が硬直する。音が伝わってきた方を照らそうとロープから手を離して、机の上を手探りで探すがそこには、あるはずのライトがなかった。一瞬、視界が白さを帯びた。瞳孔が収縮するのと同時に体が揺らぐ。誰も僕以外にいないはずの教室は僕の尻餅で少し震えた。
ちょうど教卓のあたりに白い丸が浮かんでいた。さながら火の玉のように少し揺れているけど、間違いなくライトの明かりだった。闇を切り裂く光、でも僕には途轍もなく気持ち悪かった。いや、それは別に嫌悪とかではなく、ただ、見ているだけで何というか、頭がくらくらして、口の中が乾くという感じだった。
どれくらいの間、そのライトの明かりを一心に見つめていたのだろう。瞬きをしたのか、唐突にその灯りは消えてしまった。いや、もしかすると明るすぎて僕の目が盲目になってしまっただけかもしれない。でも、僕の目にはしばらくの間、その明かりが網膜に焼き付いていた。
本当に闇に包まれた教室で僕は考える。明かりのあったほうを見つめて、思考を展開する。でも、ほとんどうまくいかなかった。ただ、ここから逃げ出したい。恐怖が僕の頭を占めようとしていた。でも、今しか僕にチャンスはない。けど、どうしてもどうして、僕は戸を開けて、教室から飛び出した。その刹那、悲しい搾り出したような微かな声が聞こえたような気がした。それに構うこともできず、闇を溺れながら階段を駆け下りた。
気がつけば朝だった。何か体が気持ち悪いと思って、それは汗を服が濡れるくらいかいているからだと気づく。布団のなかにも入らずに、ベッドの上で仰向きに胸の前で手を組んだ体制で寝ていたようだった。起き上がって机まで歩き、眼鏡を付けてはじめて、制服を着たままであることに気が付いた。
椅子を引いて机の前に腰掛ける。確かに昨日の晩は早くに風呂に入って、寝間着に着替えて布団に入ったはずだった。息を吐いて、頬杖をつくと、ちょうど視線の先に父が買ってくれたマグライトが転がっていた。試しに持って見ると重みで少し手が下がった。マグライトを手で転がしながら、とりあえず服を着替えないといけないなとぼんやりと思った。
両親は二人とも早出でテーブルに、ラップのかかった食器が並べられていた。箸を右手に持ち、卵焼きをつまみながら、左手でリモコンをテレビに向ける。朝のニュース番組を視界でとらえながら、黙々と箸を動かし続けていると、いつのまにやら食器の中身もなくなり、早く家から出ないと場合によっては遅刻してしまう時間となっていた。食器に勢いよく水を流し込み、歯磨きを数秒で終わらせ、着ていた制服を脱ぎ捨て、新しいものに着替えて、ようやく玄関の鍵を閉めた。
家の後ろ側に周り、鞄を落としそうになる。急いで家の周りをまわるがどこにも自転車がなかった。仕方がないから、走って友人との待ち合わせ場所まで向かう。口から吐き出された息が白くなって後方に流れていった。
やっとの思いで一本杉の前にたどり着くと、友人は心なしか口角を少し上げていた。何も言わずに友人は自転車にまたがり、荷台を指さす。何も言わずに僕もまたがった。古ぼけた民家の集落を抜けると、視界が開け一面、畑や田んぼのみになった。吹く風は頬を切り裂く鋭利なナイフのように冷たく、空には一片の雲も見えない高密度な群青色が広がっていた。通いなれた道でもこうもすがすがしいといつもとはまるで違う道のように感じるのがちょっと不思議だった。
幸いなことに校門には教師の姿はなかった。二人とも自転車を降りて歩く。駐輪場までの道すがら、一台の自転車が転がっていたが、残念ながら僕のではなかった。おそらく、高価なマウンテンバイクだったから、家で盗まれたのだろう。と思っていたが、駐輪場の一番端に横倒しになっていた。しかし、確かに昨日、友人と一緒に家まで自転車で帰ったはずだった。
始業時間ギリギリのためか、駐輪場には人の姿はなかった。
がらんとしたそこは休日のようだった。
校舎の外は時の流れが緩やかなような気がする。
昇降口で顔に両手を当てながら体が震えている女の子がいた。
階段を上っていると、すごい勢いで男の子が階段を駆け下りていった。
足元に視線を下げると足型の泥が廊下へ伸びている。
なぜだか、胸騒ぎがして、仕方がなかった。
廊下に出るとさらに心拍が速まった。
僕の教室の前にあり得ないほどの人だかりができている。
それはとなりのとなりの教室にまで及ぶほどの、人の多さだった。
ただ、あまり騒がしくないのが不気味だった。
早鐘が鳴っていた。
友人の口が動いているようだが、それは伝わってこない。
鞄を友人に押し付け、走る。
必死に教室前の人だかりのより密な所へと。
人を押しのけ、かき分けながら。
足型の泥が僕よりも先を進んでいた。
すっと、体が前に出て、いきなり床に体が打ち付けられる。右肩を押さえながら立ち上がると、どうやら教室の後ろの入り口のようで、ここの近くだけ、人がいなかった。というより立ちすくんで近寄れないようだった。皆一様に顔が青白く、引きつっていた。彼らの視線はちょうど僕の背後、教室の入り口に注がれていた。
心臓が波打ち、血液が逆流するのを体全体で感じながら、振り返る。
そこには――
女子生徒が一人、首を吊って、左右にかすかに揺れていた。
―― 沫茶 @shichitenbatto_nanakorobiyaoki
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