第2節 狭間の世界

第1話 自己の消失と偽りのない真実(1/2)

 ――あれ?


 おれは体に伝わる冷たい感覚に違和感を覚え、まぶたを開ける。何故だか知らないが、自分は灰色の床に突っ伏していたようだ。


 数度まばたきを繰り返した後、おれはゆっくりと体を起こした。寝起きゆえか、頭は薄靄うすもやがかかったようにボーっとしており、はっきりしない。


 ――ここは、いったい――?


 辺りを見回すと、床以外は暗闇に包まれていた。壁も天井も、どこまで続いているのか一切謎だ。


2


 背後から声をかけられ、おれはビクッと肩を震わせて振り向いた。


 だが、自分以外の人影はなく、代わりに青白い煙をまとった球体がふよふよと浮いている。


「……今の声、もしかしてアンタか?」


 まさかと思い、球体に声をかけてみる。


 すると『ああ、そうだよ』と、球体から声が返ってきた。青白い球の声はノイズ混じりで、性別はおろか年齢すらも判別がつかない。口調も相まって人物像の捉えどころがなく、おれは眼前の未知の存在に警戒心を抱く。


『おはよう。良かった、目が覚めて。……あ、でもちゃんと会話ができるってことは、言語野げんごやの方は問題ないようだね』


 ――会話? 言語野? 球体が発する言葉の意味が理解できない。


『ねぇ、1足す1は?』


「……はあ?」


『いいから。1足す1は?』


 謎の青白い球は唐突に質問を投げかけてきた。おれは特に頭を働かせるまでもなく「2」と答える。


『正解。じゃあ、戦国武将の織田信長が亡くなったお寺は?』


「……本能寺、だろ?」


『よしよし、合ってるよ』


「なあ、さっきからなんなんだ。何かのテストか?」


 訳の分からない質問が続き、おれの奥底から苛立ちが込み上げてくる。


『まあ、そうだね。君の記憶はどこまで覚えているのか、ちょっと確認したかったんだ。言語、文法、一般常識については問題ないようで安心したよ』


 小馬鹿にされている気がする。


 青白い球体の鼻につく言い方が気に入らず、おれはついに声を荒げた。


「いい加減にしろよ! アンタ、おれをからかってんのか!?」


『悪かったよ、そうイライラしないで。じゃあ最後の質問――君、名前は? 自分の名前って覚えてる?』


 何を当たり前なことを、と言いかけたおれの口は、あんぐりと開いたまま固まってしまった。


 なぜなら――


「あ……あれ? おれ、おれの……名前って……?」


 そう、自分の名前が分からなかったのだ。さっぱりと。


『……思い出せないか。じゃあ質問を変えよう。君はどこで育った?』


「…………」


『好きなものは?』


「………………」


『年齢は? 自分に関すること、何か一つでも思い出せることってない?』


 おれは、自分に関する質問に、何も答えられなかった。数式や歴史、物の名前などは覚えているのに、何故だか自分の記憶だけは何も思い出せない。


 内包している一般常識と自身の現状を照らし合わせ、かろうじて分かることがあるとすれば、自分が口にしている言語は日本語。つまり、公用語が日本語であるから、そこに住まう日本人か移住者のどちらかだと絞れる。


 では、性別はどうだろうか。


 咄嗟とっさに飛び出た一人称は「おれ」なので男の可能性がある。


 しかし、もしかしたら男性的な女性の可能性も捨てきれなかった。

 

 ――自分の体に触れてみれば話は早い。


 おれは胸元に手を伸ばそうとするも、手に感触が伝わらなかった。


「あれ!?」


 いな、そもそも自分の肉体など存在しないのだ。


「お、おれの体は!? じゃあ、おれって今どうなってるんだ!?」


『気づいてなかった? 今の君は意識だけの存在。つまり、肉体がなく魂だけの状態なんだよ』


 謎の存在の回答に、おれは愕然がくぜんとした。


 記憶もなければ肉体もない。それに、何故だか分からないが、記憶を全て消失しているという事実への恐怖以外にも、失ったものへの寂しさや辛さ、そして何も思い出せない自身に対しての怒りも込み上がってくる。


 おれの不安定な自己は、まるで片足で綱渡りをするピエロそのもの。一歩間違えれば転落するのと同様に、不安と焦燥しょうそう感に駆られているおれの人格は今、崩壊寸前だ。


 ――分からない、わからない――ナニモ、ワカラナイ――。


「なんで……なんで何も思い出せない……? そもそも、ここはどこだ? アンタは誰だ?」


『――私は【アイ】。そしてここは異界の狭間はざまさ』

 

 おれの質問に、蒼玉そうぎょくは一泊置いて無機質に答えた。


「【i】……? 『私(i)』ってことか? ふざけてるのか?」


『ふざけてなんかない。まあ仮名というか、便宜上べんぎじょうそう名乗ってることに変わりないけどね』


「よく分かんねえよ。じゃあ、ここが『狭間の世界』ってのも嘘か?」


『違うよ。本当の話さ。ここは異界と異界を繋ぐ中間地点。私はそこの住人であり、別世界と別世界を繋げられる唯一の存在だよ』


「……つまり、神……なのか?」


『うーん……当たらずとも遠からず、だね』


 はっきりしない返答、抽象的な文言ばかり。必死に自我を保っているおれの中で、ふつふつと怒りがつのる。


 だが、謎の存在【i】とのやり取りを経て、ある確信が芽生えた。


「じゃあ……おれをここに呼んだのも、アンタなのか?」


『正解。私が君を現実世界から召喚して、ここに呼びよせたのさ』


「……だったら……だったら、おれの記憶を奪ったのも……アンタなのか……? さっさとおれの記憶を返せ!!! それでおれを元の世界に戻せ!!!」


 もし自身と相手に肉体があるのなら、今頃涙を浮かべて向こうの胸ぐらを掴んでいただろう。おれは我慢ならなくなり、全ての感情をぶつけるようにまくし立てた。


 しかし、そんな自分のいきどおりはつゆ知らず、【i】は冷静な物腰でいさめた。


『おっと、早合点はやがてんはいけないな。人の話は最後まで聞くべきだよ。

 いいかい? 確かに私は、君から記憶を頂戴したさ。

 でも、何もかもを捨てて一からやり直して異世界に行きたいと願ったのは、他でもない――君自身なんだよ?』

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