鉛筆を持った英雄

ヨムカモ

鉛筆を持った英雄

俺は選ばれた人間だ。

なぜなら、特別な鉛筆を持っているから。

シャープペンシルでも、万年筆でも、もちろん、タブレット用のペンでもない。

昔ながらの六角形の形をした、B2の鉛筆。

いつからなのかはわからない。

ただ、物心ついたときから、知らないうちにそれはそこにあった。

それが、俺が特別な人間だっていう証だ。



夕暮れ時、学校帰りに公園へ寄り道をした。

帰宅部なので、放課後は自由だ。

自由と言っても、俺には特別な任務がある。

オレンジ色に染め上げられた街をこうしてうろつくのもそのためだ。

『単に、友達も恋人もいなくてヒマなだけでしょ』

どこからか聞こえる幻聴は無視し、公園内のベンチに座る。

子供連れの母親と散歩途中の老人が多い。

どこともなく周囲を眺めているふりをしながら、俺は彼らに意識を向けた。

16975。

19995。

16424。

意識すると、人々の頭の上に数字が浮かび上がって見える。

子供はやはり大きい数字。大人はそれなりの数字。

そして虫に意識をずらすと、桁違いに小さな数字が現れる。

子供の頃は、よく虫たちで実験をした。

人気の無い道路に道をなす蟻たち。

公園にそびえる広葉樹の太い幹にしがみつく蝉。

ダンゴムシは花壇の石の下で息を潜めている。

俺は一人でそれらを観察し、この数字が寿命を表していると知った。

『選ばれた人間が、いつもひとりぼっちってのはねえ?』

(うるさいな。特別な人間は孤独って決まってるんだ)

『特別って……。人間は人間でしょ』

特別な鉛筆を持ち歩くようになった頃から、この声も聞こえるようになった。

いつも聞こえるわけではない。心の中で話しかけても返事のないことが多いし、知りたいことは何一つ教えてくれなかった。この鉛筆がなんなのかさえ、何も語ってはくれないのだ。

声自体は中性的で、男とも女ともとれる口調だったが、一度、『あ~あ。これだから男って!』と愚痴ったのをみると、おそらく女なのだろう。

いや、そもそも性別はあるのだろうか。

だって、寿命を操ることができるとしたら……、神さま、とかだろう。

だとしたら、この声の正体は神の使いか何かではないか?

いつも真剣に考えて、このあたりで思考を停止する。

幻聴の性別なんて考えても意味が無いからだ。

俺の悪口しか言わない声なんて、無視だ無視。

砂場で遊んでいる少年の足元に小さく「0」の文字が見えたので、木製のベンチに鉛筆で「6」と書く。

すると、数字が「0」から「6」に一瞬で変わり、少年が妙な動きをした。ふらふらと立ち上がって作っていた砂の山を迂回し、友達の隣に座り直して何事もなかったかのように作業を再開する。

きっと、あの少年がいた辺りに小さな虫でもいるのだろう。何もしなければ今日、踏みつぶされる運命だったのが、俺のおかげで六日、寿命が延びたのだ。

(ふう、やれやれ)

俺はベンチに書いた数字を制服の袖でこすった。この鉛筆のすごいところは、何に書いてもいいということ、そして、即効性があり、効果が発動してからは、すぐに消しても有効だということだ。

俺は満足げに、三分の一くらいにちびた鉛筆をみやった。この少なくなった長さの分、俺は生き物の命を救ってきたのだ。

シャーペンとかであれば、芯を替えることができるのに、鉛筆ではそれもできない。最後まで使ったらそこで終わり。

幻聴の主に、新しいのくれない?と聞いたこともあったが、もちろんのこと、返事はなかった。

(残り少ないから、よく考えて使わないとな)

そう思って眺めていると、視界の端に映ったものがなんとなく気になり、さりげなく視線をずらす。

木の幹に寄りかかって住宅街を見つめる中学生らしき少女が一人。

(……?)

確かに、幼稚園児や小学生、その付き添いの親や年寄りばかりの公園にいるには場違いな感じだ。だけど違和感の正体は、それではなかった。

俺は眉をひそめた後、それに気づいて目を見開いた。

367。

少女の頭の上に浮かぶ数字。

見間違いかと思って何度か瞬きした。目をこすって、凝視して、右から桁数を数えてみた。

何度見ても、「367」。

「3670」ではない。

3桁で、「367」。

寿命は日数で表示されるから、この数字が正しいとすれば。


この少女は、あと一年ほどで死ぬことになる。



次の日。

俺はまた、昨日と同じ公園に向かった。

中に入ると、お母さん方の注目を一身に浴びる。

きょろきょろと誰かを探す様子は、不審者に見えるのかもしれない。

だけど、胸がどきどきして落ち着かないのだ。

俺は、あの少女を探していた。

今までになかった事態が起こったからだ。


昨日俺は、当然、中学生の少女の寿命を書き換えようとした。

健康そうに見えるけれど、重大な病でも抱えているのかもしれない。

それとも、不慮の事故でも起きるのか。

若いからって、何十年も生きられるとは限らない。

俺だって、自分では見えないけれど、もしかしたらあと数日の命かもしれないのだ。

俺は納得して、とりあえず「3670」と、十倍にしてみた。

けれど、いつもはすぐに書き換わるはずの数字が、いつまでたってもそのままだった。

(……ん?)

俺は不思議に思った。

しばらく少女の頭上を注視していたが、どれだけ待っても変化は無い。

鉛筆がおかしくなったのか?

木のベンチがよくないのか?

今までは書けるものなら木でも布でも効力を発したが、やはり紙の方がいいのだろうか?

そう思って近くの虫を見ながら、鞄から出したノートに数字を書き殴った。

それはもちろん効力を発したし、考えてみれば、この直前にも鉛筆の力を確認している。

(なぜだ? なぜだ? なぜだ?)

声はやっぱり答えない。

俺は頭の中を「?」だらけにしながら、いったん家に帰ったのである。

けれどこの日、少女は現れなかった。

その次の日も、姿を見せなかった。

そしてあの日から三日目。

俺は焦っていた。

鉛筆が寿命を延ばせていなかったとしたら、あの女の子の寿命は一年を切ってしまうからだ!

さすがに毎日連続で来ると、母親たちの視線が痛い。

「……ああ、ぼっちってやつ?」「友達、いないのかしら」「うちの子はあんな風にならないようにしないと」

無神経な言葉がぐさぐさと胸に突き刺さるが、そんなこと気にしていられない。

俺には使命があるのだから!

今にも散ろうとしている若き命を、救わなくてはならないのだ!

果たして、少女はやってきた。

無造作に伸ばした髪を風にそよがせ、周囲に意識を向けることなく、先日と同じ木に背中をもたせかける。

俺はすぐに少女の頭上へ視線を向けた。

364。

あの日から経過した分だけ、寿命は短くなっていた。

(くそお! なんでだよ!)

予想はしていたとはいえ、悔しいしわけがわからない。

何度も鉛筆を使った。数字を書いた感触もまだ残っている。

なのに、なぜ?

(もしかして、特別な……、この子が何か特別なのか? 人間じゃない、とか)

ばかばかしい想像だ。ちょっと乱れた髪も、やせっぽちな体も、普通の人間にしか見えない。

(でも、じゃあ、なんでなんだよ!)

俺は困った。

困って、悩んで、逡巡して、逡巡して、逡巡して……。

「……」

俺はさんざん迷った後、他の奴らが見ていない隙を見計らって、少女に近寄った。

「おい、おま……じゃなくて、君、一人なの?」

「……」

少女は話しかけてもこちらを見ない。

無視かと思いイラっとしたが、何回か話しかけたら初めて気がついたようにこっちを見た。

「……なに?」

わざと無視したわけじゃなかったのだろう。

なんと言っても、俺は素晴らしい人間だから。

でも、だったら、最初から返事をしてほしい。

もう少しほっとかれたら、心が折れるところだった。

だが、女の子が視線をあげて俺を見たとき、一瞬動きを止めてしまった。

やせた少女だとは思っていた。

だが、特に病気には見えなかった。

けれど、どうしてだか、目が。

「……」

不思議そうに首をかしげた様子は、俺の意図を知りたいように見えたのだが、本当はどうでもいいのかもしれない。

そう感じてしまうほど、彼女の目には力がなかった。

「ええと、俺、別にあやしいもんじゃないんだけど。ちょっと、ええと、実験中というか……。

いや、君に危害を加えるとかじゃないんだ! そうじゃないんだけど……、と、とにかく、明日もこのくらいの時間に、ここに来てくれないかな?」

返事はなかったが言っていることは理解していたようなので、俺は不審者に思われないうちにすばやく離れた。

そしてそそくさと公園を後にしながら、少女の寿命を書き換えた。

きっと、変わらないんだろうなと思いながら。



けれど、次の日、俺は、また新たな不思議を目にすることになる。

少女の寿命が変わっていた。

365。

ちょうど一年。

昨日は「364」だったはずだ。

二日だけだったが、のびている。

寿命が延びている!

俺はこの感動を伝えたくて少女の姿を探したが、彼女の目を見たとたんにその気持ちはしぼんだ。

冷めている。

めちゃくちゃ冷めている。

ここで小躍りなんてしていたら、冷たい目で見られて、心の底まで凍らされそうだ。

繊細な自分の心をいたわりながら、俺はまた、明日も来てくれるように彼女に頼んだ。

少女は特に何の用事も疑問もないのか、抵抗もなく頷いた。

そして俺はまた寿命を書き換えてから公園を後にした。




おかしい。

おととい見たとき、365日。

昨日見たときも、365日。

今見ているのも、365日。

大木に寄りかかり、どこか遠くを見ている少女の寿命は、俺がいくら寿命を延ばそうが、次の日確認すると必ず365日になっていた。

俺は同じように幹に背中を預け、一人悶々と考えている。

寿命が変わっていない?

いや、違う。

寿命は、毎日、一日ずつ延びているのだ。

どういうことだ?

「ねえ、そろそろ帰るけど」

「えっ?」

すぐそばで聞こえた可憐な声にぎょっとする。

「寒くなってきたし」

今まで黙っていた少女がぽつりと言った。その言葉に顔を上げれば、空は群青色を通り越して闇色に染まりかけていた。

子供連れの母親や、年寄りたちの姿もない。随分と長い時間、思考に没頭していたらしい。

俺は慌てて向き直る。

「そ、そ、そうだね! ごめん! 考え事してて!」

少女は気にしてないように首を横に振る。一方的につきあわせて、遅くまで一人考え事をしていた俺を変な目で見ないなんて、よほど心が広い女の子なんだろう、と感動した。

だからか、俺は図に乗って、立ち去りかけた少女の手をつかんでしまった。

「あ、あのさ!」

「?」

「ちょっと、聞きたいことあるんだけどっ」

「……」

少女は首をかしげて振り返った。これはOKという意味なのか?

一気に舞い上がった俺は、頭の中が真っ白になって、考えていた台詞がぶっ飛んだ。

「え、ええと、聞きたいことがあって!

あの、その、365日……じゃなくて、ち、近いうちに、何か命の危険を感じるようなことって、起こりそう!?」

「……え?」

口走った瞬間に、自分をたたきつぶしたくなった。

なんてことを!

なんてことを!

『うわあ~。最悪。変なヒト』

心底呆れたような声が幻聴として聞こえてくる。

うるさい!

そんなこと、俺が一番よくわかっている!

パニックになっている俺と違い、少女は不思議そうな顔をしながらも落ち着いていた。

そして、

「お兄さん、私のストーカーか何か?」

とんでもない疑問を発した。

「ち、違う!」

力一杯否定したが、だったら何だと聞かれれば答えようがない。

「ただ……そう、悩んでいるように見えたっていうか!」

「……」

「だ、だからその……。い、いつも俺のためにここに来てくれただろ? それって、な、何でかな、なんて……」

引きつり笑いを浮かべて言い繕ったが、繕えていない。この時ほど、他人とのコミュニケーション不足を悔やんだことはない。

どうやって逃げ帰ろうか、もう二度とこの界隈を歩けない、と心の中で泣いていると、

「なんでって、お兄さんが言ったんでしょ。ここに来てくれって」

「……そ、そうだけど……」

「だから」

……だから、毎日ここに来た、と。

でも、普通は、知らない人にそんなこと言われたら、不気味に思うだけだろう。

「でも、もしかして、お兄さん、知ってるの?」

「え? 何を?」

今度は俺が首をかしげると、少女は驚くべき言葉を口にした。

「私、一年間、誰とも関わらなくなったら、死のうって決めてるの」



今、なんて言った?

一年で死ぬ?

死ぬって。決めてる?

「き、君、まさか。俺と同じ鉛筆を……!?」

「鉛筆?」

「い、いや、なんでもない」

危なかった。

今、思わず、人類史上最大級の秘密をうかつにばらしかけた。

こんな鉛筆、持っているのは俺だけだというのに……。

『え? そんなことないけど』

「――えっ?!」

「え? 何?」

「いや、何でも!!」

ど、どういうことだ。

この鉛筆を持っている人間が他にもいるだと!?

聞き捨てならないが、もう一個の方も聞き捨てならないから、とりあえず現実に話をしている方を優先する。

少女にどういう意味か聞き返すと、彼女は少し考えた後、まあいっか、とつぶやいて答えた。

「人間って、社会的動物なんだって」

「……」

はあ。

「社会と関わって生きる。そういうのが人間なんだって、本で読んだ」

「……」

だから?

「ってことは、社会と関わっていない私って、人間じゃないでしょ。しかも、一年間も。だから、そうなったら死のうって」

「……はい?」

理解できない。

冗談かと思ったが、少女の表情は変わらない。変わらないというか終始無表情なのだが、冗談を言っている様子ではなかった。

いや、でも。

「いやいやいや。冗談だろ?」

「どうして?」

「どうしてって……。だって! その、本で読んだ!? その作者が何言ったか知らないけど、一年間誰とも口聞いてないから死ぬって、おかしいだろ!」

「そうかな?」

「そうだよ! なんだよ、社会的動物って! 一人で生きていたら人間じゃないってのかよ! 馬鹿じゃないのか、そいつ!?」

「……そう言ったのって、アリストテレスっていう、教科書にも載ってる有名な人……」

「教科書に載ってるからって何だ! おかしいものはおかしいだろ」

「……」

俺は憤慨しながらも、腑に落ちるのを感じていた。

この子が毎日俺に言われてここに来てくれた理由。

この子の寿命がいつ見ても365日だということ。

なんてこった。

この数日、この子は、俺と会話することによって、一日だけ寿命を伸ばしていたのだ。

そしてそれが、この鉛筆の限界でもある。

なぜだろう。

彼女が、命を絶つ日をすでに決めているから?

雰囲気だとかなんとなくではなく、強く心に決めていることは変えられないということか?

そういえば、自殺願望者の寿命は見たことがなかった(と思う)。

けれど、自殺だろうが他殺だろうが事故だろうが、この鉛筆で上書きすれば、その数字の通りに寿命を延ばすことができると思っていたのに。

「どうしたの?」

自分の思考にまた没頭していた。少女から声をかけられてはっとする。

とりあえず、会話を続けなくてはなるまい。

だけど、世の中の普通の奴らは、こんな話題をどうやって続けていくんだろう?

「いや……。えっと、だから、教科書でどう言ってたって、別に君が死ぬ必要ないだろ。一日誰とも会話しない日なんて、いくらでもあるって! それにほら、親は!? あと、兄弟とか!」

「離婚してるから、父さんはいない。母さんは、どこか男の人のところに行っててめったに帰ってこないし。兄弟もいない」

「え、そ……そう……」

予想以上に深刻な答えが返ってきた。心構えを一切していなかった俺は、あせって何も考えずに言葉を続ける。

「あ……。そ、そうだ。そういうのって、育児放棄とか言うんだろ? 役所とかどっかに届け出れば、ちゃんと生活できるようになるって……」

「うん。でも、そこまでして生きたくないし」

「…………」

どうしよう! 俺のスキルではこの会話についていけない!

両手を挙げて跪いてしまった心の中の俺に気づかず、少女は続ける。

「周りの誰からも必要とされてない。私も、特に生きていたいと思わない。ねえ、お兄さんは、なんで生きてるの?」

俺が生きてる理由を聞かれた!

そんなの……何も思いつかない!

「いや、えっと、それはもちろん……。ほら、やりたいこととか、あるだろ? 見たい映画とか、漫画とか、ゲームとか……」

「特にない。ゲームはしないし」

俺のしどろもどろのたとえ話はこともなげに一蹴された。

「でも……えっと……。これから、現れるかもしれないだろ!? そんとき、死んでたら後悔するぞ!」

「死んだ後は後悔も何もしないと思うけど」

そりゃそうだ!

頭の中が真っ白になっていた。このパニックさ加減を、脳を取り出して彼女の前で大公開してやりたいくらいだ。

そうしたら、動揺しまくっている俺に同情して、これ以上の追求をやめてくれるかもしれない。

「それに、これ以上生きていても、きっとそんなこと起こらないと思う」

「……なんだと?」

聞き捨てならない台詞その二だ。一瞬だけ、頭が冷えて、今度は違う意味で白く染まった。

「今まで起こらなかったことは、これからも起こらないよ。何か起きるのを期待して、ただ漫然と息をしているだけの毎日がこれからずっと続くのなら、いっそのこと……」

「それは違う」

俺はストップをかけた。

今まで起こらなかったことは、これからも起こらない?

そんなわけないだろ。

だって俺の前には、この鉛筆が現れた。

そんなの、誰も予想しなかったことだろう?

「今まで起こらなかったからって、これからも同じとは限らない。おまえは予言者か? それとも神か? 未来のことがわかるのか?」

「え、それは……。神様とかじゃ、ないけど」

急に息粗くなった俺の剣幕に、少女はひるんだようだった。

「そうだよな、神じゃない。だから未来のことなんかわからない。だいたいおまえ、中学生だろ。まだ四千日くらいしか生きてないわけだ。世の中のことなんてなんも知らないガキなんだよ」

少女は何か言いたげだったが、結局何も言わずに口をつぐむ。

「これから先、実はおまえが特別な人間だとわかったとき、おまえがいなかったとしたらみんな困るだろ。そのときおまえ、責任とれんのか? とれないだろ、そうだろ。だから……」

(……だから?)

「だから……」

俺は言葉につまった。

盛大な違和感が俺を襲ったからだ。

なんか、違う。何か、間違っている。

特に何も考えずにまくし立てていたから、一度勢いが止まってしまうと後が続かない。

頭の中に響くからかい気味の声も焦りに拍車をかける。

口をぱくぱくさせだした俺を少女は不思議そうに見やる。

その、暗闇でも純真そうに光る瞳をむけられて、俺はとうとう爆発した。

「――だから、ちょっと考えさせて!」

捨て台詞を言って、俺は脱兎のごとくその場を逃げ出した。



それから十日が過ぎた。

あの日以来、公園には行けずにいる。

もちろん、彼女にも会っていない。

あの時のことを思うと顔から火を噴くか、自己嫌悪で身もだえるかのどちらか、あるいは両方なのだ。

彼女に会いに行くなんて、傷口に塩を塗り込んでぐりぐりするような所行、自分で出来るわけがない。

だというのに、

『ねえ。行かなくていいの? 考えさせて、なんて言って、あの子、あそこで待ってるんじゃない?』

幻聴は珍しくしつこかった。

『あの子、誰とも会話しない日が一年続いたら自殺するんでしょ? もう十日会ってないから、寿命、その分、減っちゃったんじゃないの?』

「……大丈夫だよ。こうやって、毎日、寿命、書き直してるから」

面倒くさげに右手を持ち上げてテーブルの上のメモ紙に数字を書く。

頭の中に彼女のことを思い浮かべながら寿命を書き直す。以前もこれで効果があったから、目の前に対象がいなくても大丈夫なはずだ。

誰でもいい。コンビニの店員でも、悪徳商法の勧誘でも。だた彼女に声をかけてやってくれれば。

だって、俺にはわからない。彼女に言うべき言葉が。

ただ、俺が生きる理由なら、それはきっと使命だ。この鉛筆で、沢山の命を救ってやること……。

『使命なんて最初から無いけどねえ』

「…………は?」

突然、俺の部屋に爆弾が落ちた。俺は本物の幻聴かと思って耳をほじる。

『だから、意味なんて無いんだよ。ただそれがそこにあっただけ。あんたはそれを生きる意味にしたみたいだけど、使命なんて最初から無いのさ』

「…………」

(……嘘、だろ?)

俺はどこか遠くでガラガラと大きな物が崩れ落ちる音を聞いた気がした。

呆然として手の中の鉛筆を見つめる。

だってそれじゃ。

今まで俺がしてきたことの意味は。

『まあ、個人的には、一度も数字を減らす方に使わなかったあんたのことは気に入ってるけどね』

「……」

幻聴が何か言っているが頭に入らない。

使命なんて無かった?

俺はこれで、誰も救わなくていい?

でも、そうしたらあの子は……?

「ねえ! △スーパーで、タイムサービスやってるの。あんた、行ってきてー」

俺が苦悩していると、階下から母親の声が聞こえてきた。

買い物どころではない俺は、なんとしても断ろうと努めたのだが、怒濤の勢いで乗り込んできた鬼と化したものに部屋を追い出されてしまった。

ぶつくさ言いながら家を出たが、あの子にはこんな風に家族と言い合う機会もないということに気づく。こんな横暴な母親でも、あの子はうらやましく思うのかもしれない。

(よりによって△スーパーかよ……)

△スーパーへ行くためにはあの公園を通らなければならない。

もう日も落ちたし、誰もいないだろうが、俺は隠れるようにして壁伝いにそろそろと通り過ぎる。

いないことを願いながら、もしかしたら俺のことを気にしているのではないか、という期待もあり、いつもの木の下に目をやると、そこに少女の姿はなかった。

(……そりゃ、そうだよな)

想像以上にがっくりきながら、それでも未練がましく365の数字を探す。

すると。

(……えっ……?)

遠くの、木々に遮られた向こう側に、358の数字が見えた。

もしかしたら。

俺は一瞬、我を忘れ、気がついたときには少女の元に息も荒く立っていた。

少女がびっくりして振り返る。

いつもとは反対側の公園の出入り口で、マンションではなく道路を見ていたのだ。

俺の学校がある方の出入り口で。

特に意味はないのかもしれない。だって、十日会わなかったのに、七日分しか減っていない。

「あ……」

俺の姿を認めて、少女が息を吸った。よほど驚いたのか、それきり何も言葉にしない。

俺も、彼女の前に現れたはいいが、何も考えてなかったので、呼吸が整ってきたのにそのまま固まってしまう。

けれど、少女の問うような瞳が、俺を現実に引き戻した。俺の気持ちを知りたいと言っているような、まっすぐな目。

そして、この場所。

「……もしかして、俺を待ってた?」

おそるおそるそう言うと、少女は、思いがけないことを聞いた、という風に目を丸くした。そしてそのまま呆然としている。

待っていてほしかったわけじゃない、と思うのに、胸はじんじんと熱く燃える。

俺でなくてもいいんだと思っていた。

誰でもいいのだ。彼女と話をしてくれる人ならば、誰でも。

彼女だってそれはわかっていて。

その証拠に、俺ではない誰かと話をしても、死ぬ予定を一日ずつずらしていた。

だけど。

(俺も、一緒だ)

ポケットに入った短い鉛筆。ここ数週間で結構減った。

毎日彼女のために使っているから。

本当は、毎日書く必要なんてなかった。

彼女が死ぬのは一年後。明日あさって死ぬわけじゃない。何だったら、364日後に一度、寿命を書き込めば良い。そうすればその日に会った誰かが、彼女の寿命を一年延ばしてくれるのだから。

だが、それをわかっていても、俺は毎日書き続けていた。

俺は、心の中でもう一度確かめてから、言った。

「ごめん。ずっと考えてたんだけど、結局俺にはわからなかった」

「……」

「俺にしかできないことがあって、いや、出来ないことだと思っていて、でも、実際はそうじゃないって、ついさっきわかったんだ。だけど、今、死のうとは思わない」

俺にしか出来ないことがある。それがずっと心のよりどころになっていた。

だけどそれが崩れたとき、もちろんショックだったけれど、心の中を占めていたのは別のことだった。

誰でもいいのかもしれない。

特別な鉛筆でもない。特別な誰かでもない。

手をさしのべてくれるなら誰でもいい。

そして俺も、この子と同じで、本当は誰でもいいのかもしれない。

だけど……。

『……だけど?』

幻聴がそっと尋ねる。

いつものからかう口調ではなく、慎重に、俺の真意を確かめるような声音で。

大丈夫、もうわかっている。

気づいていなかっただけだ。

俺は、この子を助けたいのだ。


――誰でもいいなら、君がいい。


星空が映り込んだ瞳を見つめながら、俺は一つ、大きく息を吸った。

うまく言うことはできなかったが、一番伝えたかったことは伝わったと思う。

なぜなら、彼女がやがて、目尻を下げて笑ったから。


たとえ明るい太陽の下で見てもまぶしいくらい、彼女の笑顔はかわいかった。

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鉛筆を持った英雄 ヨムカモ @yomukamo

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