2-9 朱河原と演劇部

 

 朱河原舞台すがわらぶたいは颯爽と廊下を行く。

 

「部長、良かったんですか?」

 

 耳打ちをしたのは、右に控えていた吉良崎由衣きらざきゆいだった。部内の一年生の中では飛び抜けて頭の回転が速く、朱河原が特に目をかけている右腕的な存在である。

 朱河原が別段何の反応もしないのを見て取ると、再び小声で囁く。

 

「元々の計画は、作戦指揮途中の梁山を排除し、あの二人を横取りするはずじゃ」

 

 手伝うような顔をして近づき、テコンドー部の仕事を横から掻っ攫う──言うなら点数稼ぎである。南岳の心証を良くし、来る次期生徒会選挙に向けて少しでもいい位置に昇っておこうという腹積もりだった。

 

「確かに最初はそのつもりだったんだけどね。そもそも梁山が負けてるなんて計算外じゃない? その時点で当初のプロットは消えたのよ。窮地に陥った梁山を助けて恩を売っておくのも悪くない話だし──それに、あの連上って子、なかなかしたたかみたい。なんの策もなしに戦いを挑んでいい相手じゃないわ」

「そうですか? あそこから私達が入口を固めて、その上でテコンドー部を呼び寄せれば状況は──」

「ほぼ、こっちの優勢は揺るがない──確かにね。でもテコンドー部で周りを囲んだからと言って本質的な解決にはなり得ないわ」

「え──」

「連上は必殺の武器を隠し持ってる。梁山のバカが自ら生徒会との関与と──あと数々の暴力事件への加担を肯定する内容のことを喋った、その録音データよ。その在処は本人しか知らない。殴って蹴ってそれが漏れるかどうかは怪しいものね」

 

 梁山は──それでも強硬手段を選んだのだが。

 彼はどこまでも暴力の恐ろしさを知っている男だから、どんな人間でも痛めつけ続ければいつかは降参するという考えが根底にあるのだろう。

 しかし朱河原はそう考えてはいない。現に、どんな暴力にも屈さなかったがゆえに、最悪の形で口を封じるしかなかった生徒もいたではないか。

 人間には二種類いる──苦痛に晒され続け、一定のラインを越えれば諦めてすべてを投げ出す者と、生きている限り愚直に黙り続ける者と。朱河原には、連上という少女は後者に見えた。どんな状況でも浴びせられる苦痛に耐え続けることができる、そしてそれだけでなく同時に苦痛を止めさせる方策を目ざとく探し出して実行できるタイプの人間。それは苦痛を与える側の者にとっては最も厄介な部類だった。

 吉良崎はどうやら梁山に思考のタイプが似ているらしく、朱河原の言葉に納得できないような表情を浮かべて首を傾げた。

 

「そうですかね? 確かにそのテープは強いですけど、逆に言えば向こうの頼みの綱はそれ一つなわけでしょ? なら、人数で押していけばいつかは──」

「あの子、今回の騒動において梁山の出方をすべて読み切っていたのよ。事前に十重二十重の仕掛けを施し、戦いの最中も抜け目なく使えるもの全てを使って効果的に敵を追いつめた──そんな空恐ろしい子が、不測の事態を想定して何かの手を打っていないことは考えにくいでしょう」

「あ……じゃああの時、下手に手を出していたら」

「私達にとって最悪の証拠がしかるべき所に渡ってしまっていたということも、可能性としては十分あり得るわね」

 

 吉良崎が唇を噛んで青ざめた。

 それに、と朱河原は続ける。

 

「もしあの子がそこまで手を回していなかったとしても、あそこで梁山を援護してやる義理はないわ。私達が手を貸してあの子を追いつめたところで、その形では手柄は結局梁山のものになる──私達は単なる協力者でしかない。どうせ手柄を得るなら独り占めでないとね」

 

 はああ、と感服した様子で吉良崎が息を吐いた。

 

「そこまで計算してたんですか」

「もちろん。まあ今回は旨味がないから手を引いたけど、私達にとってもあの子が邪魔なのは確かだわ。いずれは潰さないといけない相手ではあるでしょうね──諸々考えると、今日は梁山に恩を着せて後々テコンドー部の奴らを動かしやすい状況を作っておいた方が得かなあって、ね」

 

 朱河原は憔悴した様子で後ろを歩いている梁山をちらりと見やって、あいつよりはうまく使える自信があるわ──と結んだ。

 そう、可能な限りあらゆる方面に伝手を作っておく──そしてそれを、必要な時に有効な方法で利用する。使うべき設定を間違えさえしなければ、暴力すらも十分に自らの理想への足掛かり──最終的な勝利を築くための要素たり得ると朱河原は考えていた。

 たとえば、そう──何らかの過程を経て現政権の権威が揺らいだ際、テコンドー部に反乱を起こさせるというのはどうだろうか。生徒会が有する巨大な暴力が予測不能の造反を成し遂げた時、それを裏から操る朱河原本人がすべてを牛耳ることすら可能かもしれない。

 謀略を巡らせる才女の唇はゆるやかに弧を描いた。

 

 朱河原は生徒会に所属している──しかし南岳会長に忠誠を貫く気など毛ほどもなかった。彼女が闇の中に居所を定めたのは、隙あらば彼の寝首を掻き、絶対権力者の椅子に座ろうと画策したからに他ならなかった。

 そのための最大のカードが、この演劇部である。

 陽陵学園演劇部は単なる芝居上演同好会ではない。朱河原は部長就任以前から、様々な工作に利用できるよう内部からこの集団を改造し続けていた──そして現在演劇部は文化部における最大勢力であり、校内最大にして最深の人脈を擁し、誰もを騙し切る演技力を備えた役者が集う諜報機関として機能している。朱河原は生徒会の闇の中に潜り込んだ当初からこの組織を最大限に利用して巧妙に立ち回り、今では南岳の懐刀と目されるまでにのし上がった。

 表の舞台を司る演劇部と裏の任務を遂行するテコンドー部──この両輪が生徒会をこの学園の真の意味での支配者として成り立たせているのである。

 

「しかし、テコンドー部が一日も経たずに攻略されるなんて──もしかすると、生徒会は危機にあるんでしょうか」

 

 朱河原はううん、と唸った。

 

「連上が、少なくとも今までに現れた造反者達を遥かに凌ぐ切れ者であることは間違いないけど──南岳さんも大概だからねえ。どっちが生き残るかはわからないわね。私としては今の生徒会が滅ぼうがどうなろうが、それ自体は別にどうでもいいことなんだけれど──うん、でもまあ、いずれ連上を潰すのなら、後ろ盾のある今の方が気負いなく攻められるかもしれないわねえ。はてさて、どう動くのが一番得かしらね──」

 

 朱河原はまたぞろ頭の中に策を巡らせ始める。

 どうしたらあの食えない少女を罠に嵌めることができるだろうか。連上千洋──転校生ということもあり、彼女の情報は未だ大して集まってはいない。まず情報が必要だ。敵の弱点も情報なら起死回生のアイデアも情報。この世は情報によって成り立っていて、膨大なそれらの中から必要なものを探ることから全ては始まる──

 頭の中であらゆる可能性を吟味しつつ、朱河原は振り返った。自らにつき従う部員達に朗々と述べる。

 

「何にせよ、この学園でのし上がるためにあなた達にはしっかり働いてもらうわよ──私の城、演劇部部員諸君」

 

 生徒会──そして演劇部。

 二つの組織を利用して、朱河原は陽陵学園の巨大利権を喰い尽くす野心を燃やしていた。

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