2-8 到達と妙策
島崎は驚いていた。
目の前には敵の指揮官、梁山が無防備にも護衛一人つけずに座っている。
何かの間違いだろうか──と、島崎は思った。
何もせずにこんな状況が訪れることなどあり得ない。自分達は散々追い回され、隠れる場所も対抗策も逃げる力も、何もかもが尽きかけていた。そこからやっとのことで奴らの情報源を断った。島崎が考える限りでは、向こうにとって損害があったのはそれ一つだけである。いや、それすらも時期を逸しすぎたと言わざるを得ない──今更盗聴を防がれたところで、向こうには大した痛手などないはずだった。
それがどうしてこんなことになったのか──
盗聴器を踏み潰した後、連上はすぐに走り出した。島崎も悲鳴を上げる足を無理矢理動かして続いた──視聴覚室の窓のそばまで寄ると、右手に見える連絡通路から出てきたと思しき不良らしき男が集団で走ってくるのが見えた。校舎と植込みの境に身を隠して男達をやりすごした連上は同じ連絡通路から校舎内に入り、廊下を通って視聴覚室に至った。
そして戸を開けた途端、この不可解な状況が目の前に展開されたのだ。
ついさっきまで自分達は追われる立場だったはずだ──なのにどうして、そこからすぐにこう極端に有利な立場に至ってしまったのか。いや、正確には有利とは言えないかもしれない──梁山はまだぴんぴんしているのだから、走り回って体力を消耗している分こちらの方が不利なのかもしれない。
しかし、裸同然の親玉の前に至ってしまった時点でこれまでの圧倒的不利を──絶望的なまでの戦力差を一瞬で無意味にしてしまったのだから、いずれにしろ非現実的としか言いようがない。
まるで抜け道でも通ったかのようである。
梁山はひどく間抜けな顔をしていた。おそらく驚愕が臨界量を超えてしまえばこんな風になるのだろうと思ったが、それなら自分も多かれ少なかれ似たような表情を浮かべているかもしれないと不安になった。
横に並んで立っている連上だけが、悠然と構えていた。まったく通常と変わらない歩調でつかつかと梁山に歩み寄り、無駄のない動きで手に握られているトランシーバーをむしり取り、裏の蓋を開けて電池を取り外す。
「お前──連上、島崎、どうして……どうしてここに」
梁山はやっと声の出し方を思い出したように、つっかえながらもやっとそれだけ言った。
「早い話、あたしの狙いは最初からあんた一人だったってこと」
連上は言いながら電池を部屋の隅に放った。
「あんたのいる場所は特定できていた。まず、屋外ではあたし達とかち合ってしまう可能性があるため排除。各教室には普段より少数とは言え競技の参加待ちをしている生徒がいるため排除。多くの人の目がある体育館は当然排除。生徒以外の人間が管理している職員室や教学課の類は言わずもがな。テコンドー部の部室はいかにもありそうだけれど、クラブハウスは戸一枚隔てて屋外と接しているので危険が大きい。生徒会室や生徒会資料室も、協力は得られるだろうけれどあたしの録音データと合わせてその場所にいる所を押さえられたら破滅──ゆえに使えない。となると残るのは校舎の中の特殊教室か、あるいは全体を見渡しやすい屋上。これだけ絞れればあとは簡単──事前工作でカバーできる」
「なん……だと?」
「簡単に言えば、視聴覚室以外の場所を使用不能にした。美術室と音楽室には校外の人間が侵入したように見える仕掛けを打ってセキュリティを厳重にさせたし、図書室にはキャンペーンをさせて人を入れた。理科室は大会前日に生徒同士の喧嘩によって窓ガラスを割らせた──これは一見すると大して意味がないように思われるけれど、どんな形であれ注目を浴びた場所は潜伏場所に選び辛くなるって話。屋上は、扉にかかっている南京錠をあたしが買ってきた別物と取り替えておいたの」
島崎はあっけにとられて連上の言葉をただ聞いていた。
美術室と音楽室で起きた、謎の部外者侵入事件。
図書館の貸し出し促進キャンペーン。
理科室で起きた、派手な喧嘩。
最近身近に起きた事柄の一つ一つが繋がり、すべて連上の元へ収斂していく。
球技大会以前──実に一か月以上前から、連上の準備は始まっていた?
であれば、今のこの状況も──本当は、すべて?
「おい──どういうことなんだよ? 説明してくれ」
島崎はたまりかねて発言した。
連上は──押されていたはずではなかったのか?
連上は島崎の方をちょっと見て、笑った。
「何も事前に言っとかなくてごめんね。君に盗聴器が付けられた時点で、説明は無理だなーと思ってたんだ」
盗聴器が付けられた時点で。
最初から──狙いは梁山一人。
「ちょっと待てよ──じゃあ、お前は最初から盗聴器の存在に気付いてたって言うのか?」
「ん? うん、気付いてたよ」
あっさりと連上は頷いた。
「どうして──どういうことだ!」
梁山が自棄になったように叫ぶ。
「そうだな、なんと説明したものかな──とりあえず、この戦いにおいてあたしが恐れたのは非常線を張られることだった、とでも言っておこうかな」
「そんなことはわかってる。だから俺は……」
そこまで言って、梁山は顔色を変えた。
「そう。あんたはついさっき、ガッチリと非常線を張った──盗聴器が壊れたから、ね」
その言葉を聞いて、島崎は閃いた。
盗聴器が壊されて非常線を張った──それはつまり逆に言うと──
「敵の居場所が分かる限り、非常線なんて張らないでしょ? どこまでも合理的なあんたが、そんな無駄な兵力の割き方をするはずがない」
連上は歌うように言った。
「そして逃げる側が──自分達の動向が敵に筒抜けであることを知ってさえいれば、盗聴器は一転して逃げる側に利するものになる」
秒針が二本ある時計みたいなものだよ、と連上は言った。
なるほど、確かに同じ速さで同じ距離を進み続ける二本の針は決して交わることはない。盗聴器に気付いていながらそのままにしておくというのは一見不利なように思えるが、その実、効果的な安全策なのだ。
「そして適当な所で盗聴器を壊し、与え続けていた情報を遮断する。そうすれば追う側はどうするかな?」
連上は悪戯っぽく言って島崎を見た。
「そりゃあ……今までの逃走経路とかそういうものから、次に行く所を推測するんじゃないか?」
島崎の答えに梁山が目を見開く。
連上は満足そうに眉を上げた。
「そう。しかしまた同じように、逃げる側が最初から盗聴器の存在を知っていたなら──わざと偽の情報を要所要所で送ることで最終的な推測を誤らせることも可能、ということになるわけだね」
「じゃあ……」
島崎は息をのんだ。
逃げている間ずっと感じていた──いつもと違う、という感覚。
それは気のせいではなく──
「演技──だったのか。今日のお前の弱腰は」
当たり前でしょ、と連上は怒ったように答えた。
「そこまで積み上げておけばもう大丈夫。現に梁山はあたし達が一目散に逃げるものと思い込んで、全軍を動員して網を張った」
「お──おかしいぞ」
梁山は言う。
「それでも──非常線が俺の采配の通り緊密に張られたならば、この段階で校内にとどまっているお前達が見つからないはずがない。だって、兵力を配置する過程でお前の動きは──外からここに至るために通る連絡通路のあたりは、両門の中間地点にいる主力に丸見えになるじゃないか。入ろうとすればすぐに見つかるはずだろうが!」
「あんたの思い通りに事が運んだなら、そうだったかもね」
「何?」
「実際にはそうはいかないんだよ──確かにあんたは限りなく迅速に指示を下した。待機していた連中がすぐに出てきたことからそれはわかる。でもね──実際、あたし達を追い回していた奴らが非常線を張るまでには時間差があったんだよ」
「時間差……だと?」
時間差。
非常線が張られるまでの時間に──空きがあったということなのか。
「それはつまり──奴らがすぐに位置につけなかった、ってことなのか?」
「おっ、さすがだね島崎君。そう、その通り」
連上は感心したように言った。会話の内容が飲み込めず目を白黒させている梁山に向きなおって、まったく温度の違う声音で馬ぁ鹿──と吐き捨てる。
「ひどい指揮官だね。部下をこの炎天下の中さんざん引っ張り回してさ──ゲームのキャラクターじゃないんだから、そりゃ疲れて足も鈍るだろうに」
「! し、しかし疲労というならお前達も同じのはず──」
「あたし達はあんたが指示を出している間に視聴覚室のすぐそばまで移動してたんだよ。ゲームと違ってあたしはあんたが考えている間も待ってあげないし、戦局はきっちり1ターンずつ動いたりしないんだ」
ゲームとは──違う。
その言葉を聞いて島崎は納得した。
嫌になるほど逃走劇を繰り返して疲労し、逃げる側と同じだけ追う側も移動速度が落ちる──その点に梁山が最後まで気付けなかったのは、梁山がゲームでもしている気でこの戦局を動かしていたからなのだ。
この部屋は涼しい。遮光カーテンが引かれているせいか、外とはうってかわってひんやりとしている。こんな場所でトランシーバー片手に一歩も動かず指揮しているだけでは、現実感が薄れても当然だろう。そして梁山の場合はそれがなおさらなのだ──戦略家としての彼を支えている基盤は、インターネット上のウォーゲーム世界選手権優勝という経験なのだから。
連上はその点に目を付け、巧みに利用した。
外に出している兵力を疲弊させ、しかるのちに非常線を張らせる。待機組が部屋を出て行ってから非常線が完成するまでの間にタイムラグを作り出し、そこに付け入って──大軍の彼方に霞んでいた梁山を、見事に引きずり出した。
「ほら、こんなに落ちてる」
連上は携帯を取り出し、開いて見せた。
メモ帳に数字が羅列されていた。不良達が一つの地点から次の地点へたどり着くまでの時間、なのだろう。
「それは──逃げながらしきりに携帯をいじっていたのはそれか。お前はずっと、時間を計っていたのか」
「そういうこと。盗聴器を壊すタイミングを測るためにね」
「馬鹿な……馬鹿なっ!」
梁山は小刻みに震えながら叫んだ。
「それじゃあ何か? お前は──お前は事前にBチームの存在も知っていたというのか? ここまで一度も見せていない戦力を、一体どうやって嗅ぎつけたんだっ!」
「Bチーム? ああ、ここに待機してた連中ね」
もちろん知ってたよ──と連上は飄々とした調子で答える。
「そこは見逃せない。敵方のデータの把握こそが、下準備の中でも最も重要なことだからね」
連上はそこで島崎の肩に手を置いた。
「こっちには新聞部部員がいる。テコンドー部の部員数は事前にすべて調査済みなんだよ──つまり初めに相対した時点で、あんたが虎の子を隠し持っていることはわかっていたんだ」
「ああ──あああああっ!」
梁山は肺の中の空気を全て絞り出すように叫び声を上げ、その後に放心した。
「あんたは負けた──生徒会打倒のための切り札を作り出す手伝いをしてもらおうか?」
連上は声をかける。梁山は答えない。
ここに至り、完全に勝敗は決した。
刹那の間隙を挟んで。
「動くなっ──!」
凛とした声が薄暗い部屋の中に響いた。
島崎は振り向く。背後、戸口に人が立っていた。どうやら女生徒だ。
すらりとした体躯──それにフレームのない細い眼鏡と短めの黒髪も相まって、全身から理知的な雰囲気を醸し出している。才女といったイメージの美人だったが、しかし今は顔いっぱいに広がっている厳しい表情がどうにも近寄りがたい空気を発散している。
そして女の後ろには、三十人を超えようかという大人数の生徒達が控えていた。
「な──何だ? どういうことだ?」
島崎はうろたえた。この状況が飲み込めない。
連上は黙って女を見つめていた。
梁山はゆるゆると顔を上げ、女を視認すると、かすかな声で呟いた。
「……スガワラ」
「まったく、なんて様なのよ。こっちはこっちで色々忙しいんだから余計な世話焼かせないでよね。ほーんと、これだから男はいやだわぁ」
造作にそぐわない鼻にかかった声でスガワラと呼ばれた女は梁山を冷笑した。視線を動かし、笑みを消して連上を見据える。
「やってくれたわね、一年──こすい梁山とごろつき共を思いのままに引っかき回したその知恵は称賛に値するけれど、立場上そうもいかないのが歯がゆいところだわ。まあ、それはそれとして──私はここに、今回の騒動を終わらせに来たの」
「終わらせに?」
ええ、とスガワラは首肯する。
「そっちとしても不満が残るかもしれないけれど、今日の騒動はここで終わりよ。話を大きくしたくなければそこの木偶の坊をこっちに渡しなさい」
抗える──はずがなかった。関係が全くわからないが、この女は梁山を助けに来たらしい。そして後ろにいる生徒達──一見したところ不良ではない、男女入り混じった普通の生徒のようだが、引き渡しを拒めば彼らあるいは彼女らは数に任せて入口を固めるくらいのことはしてくるに違いない。そしてこの状況のまま時間が経てば、連絡がつかないことを不審に思ったテコンドー部の連中がこっちに来ることは十分考えられる。そうなってしまえば形勢は逆転、連上が綿密に編み上げた計略のすべてが無に帰すことになる。
いくら連上といえども、ここは断念するしかない。
「──そうだね、ここは退こうか」
島崎の洞察通り、連上はあっさりとスガワラの言い分を認めた。梁山の腕を引っ張って立たせ、戸口に向けて押し出す。
スガワラは面白くもなさそうに梁山を受け止め、そのまま素っ気なく部屋を出て行った。生徒達は梁山を護衛するSPのように──あるいは犯人を連行する警察官のように──厳重に囲むと、ぞろぞろと朱河原に続いて行く。
部屋には島崎と連上だけが残された。
連上が島崎に向かって肩をすくめて見せる──島崎はみすみす勝ちを逃す羽目になってしまった智将を苦々しく見やった。
島崎は臍をかむ思いだった。連上がその非凡な才覚を余すところなく発揮して正確に流れを読み、策を積み上げ、場を動かして──ようやく手に届く場所まで手繰り寄せた勝利が、突然乱入してきた不確定因子によって掻っ攫われてしまったのだ。どうにも納得できない。
「なんだったんだ、あの女。スガワラとか呼ばれて──」
腹立ちまぎれに吐き捨てたその瞬間、島崎は思い出した。
どうして今まで意識上に上ってこなかったのか不思議なほど──ついさっきまで目の前にいた女性は島崎の脳髄に刻み込まれたデータと明確な符号を見せていた。
「島崎君?」
「連上──やっと思い出したよ。あいつは──あいつの名前は
生徒会の──構成員。
連上と島崎が対峙する相手。
連上はそれを聞いてもなお冷静な表情だった。
「朱河原舞台……確か、演劇部の部長もやってるとかって聞いたことがあるけど」
「そうだ、そうだった。じゃあ、奴が連れていた生徒達は全員、演劇部の」
「そういうことなんだろうね」
「くそっ、相手が生徒会の人間だとわかると余計に悔しいな──せっかくここまで追い詰めたのに」
「なーに、問題ないよ」
連上は笑った──ほくそ笑む、という表現がまさにぴったりと適合するような邪悪な笑い方だったが、連上が発する限り、それは少なくとも表面上は可憐な少女の柔らかな微笑でしかなかった。
「この戦いにおける目的──最重要課題は、すでに達成したからね」
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