第二章──悪意の球技大会

2-1 不穏と波紋

 

 どこか──異なっている。

 昼休み。

 島崎は教室の自分の席で雑誌を広げながら、ぼんやりと考えている。

 

 現在、陽陵学園は波立っていた。

 どこか落ち着かない、ささくれ立った雰囲気。学園全体に流れるこの空気は、先週の火曜日と水曜日に立て続けに起きた不気味な事件に起因しているのだろう。

 二日連続で、校内に何者かが侵入したのだ。

 最初は美術室──そして翌日には音楽室の窓の鍵が壊され、大きく開け放たれているのが見つかった。侵入したのが誰だったのか、また目的や経緯はまったくわからなかったが、校門から窓まで続く泥だらけの足跡が確実に部外者による闖入を物語っていた。

 不気味な事件ではあったが──不思議なことに、特に実害はなかった。どういうわけか、校内に忍び込んだ謎の人物は何も起こさずにそのままどこかに消えてしまったらしいのである。大きな事件に発展しなかったせいもあり、壊された鍵がより強固な新しいものに付け替えられ、学園全体のセキュリティ方法の見直しが行われた程度で事態は沈静化した。

 しかし、それは表面上の話だ──生徒の間では、未だに不気味な噂が絶えない。

 いわく、窃盗団が仕事の下見に来たのだとか。

 校内の誰かに恨みを持っている人間が、そいつを殺すために入り込んで来たのだとか。

 侵入者は女子高生を狙う強姦魔で、実はまだ校内に潜んでいるのだとか。

 もちろん、誰もがそんな噂を信じているわけではない。数ある噂の中には面白半分で作り出されたものや、妄想や勘違いから生じたものもあるだろう。いや、大半がそうなのかもしれない。

 しかし──この事件によって生まれた波紋によって、誰もが不穏なざわめきを胸の内に感じていたのは事実だった。

 そのせいなのかはわからないが、ここ数日の校内の様子が──島崎には、それまでのものとは何かが違うように思えてならない。

 何かが変質してしまったような。

 どこかが変容してしまったような。

 正体の知れない──不快感に似た違和感。

 

 

「島崎君──いいかな」

 

 背後から声がして、思考は中断される。

 見ると、教室の後ろ側の戸から連上が顔を出して手を振っていた。軽く手を挙げて答えてから席を立つと、近くの席で談笑していた男子生徒達の視線を感じた。どうしてこんな目立たない男があんな娘に親しげに声をかけられているんだ──とでも言いたげな、熱のこもった視線である。

 連上はまだ転校してきて一か月にも満たない新参者だが、すでに学年中に知られた存在となっていた。成績優秀で容姿端麗、快活で人当たりも良い空前絶後のアイドルとして。そんな雲上人と仲良さげにしているということは、それだけで十分に一つのステータスになり得るのだが──しかし島崎は、どうも手放しで喜べなかった。

 廊下に出る。連上がにっこりと笑って島崎の肩を叩いた。

 

「や。休み時間に一人で机についてるなんて、島崎君は井守君以外に友達いないのかい?」

 

 人懐っこい笑顔で嫌なことを言ってくる奴だ。島崎は苦々しい思いで肩の手を払った。

 

「余計なお世話だ──ん? 何だそれ」

 

 小脇に抱えている本を指差すと、連上はああこれ、と言って表紙を島崎に向けて見せた。「チェスの基本手筋100」という題の、どうやらチェス初心者向けの教本らしい。

 

「図書室で借りてきたんだ。知ってる? 今は貸し出し促進キャンペーンっていうのをやっててね、一か月で十冊以上借りた人には図書カードがもらえるんだ」

「へえ。チェス好きなのか?」

「好きだよ。こうして、解説付きで駒の流れを見ているのが落ち着くんだ。とても論理的で美しい」

「ふうん……で、何か用なのか?」

「ん、ああ。そうだな」

 

 連上は相変わらず、まるで男のように乱暴に喋る。島崎が連上を額面通りの美少女としてとらえられない理由の一つがこれである。華奢で可憐な外見と闊達過ぎる言葉遣いはあまりにアンバランスで、それが逆にいいと言う者も多い──むしろ大多数がその特徴に魅了されている。男子のみならず女子にもモテるゆえんでもあるのだが、どうにも島崎は一歩引いてしまうところがある。

 島崎の内心の分析に気付いているのかどうかはわからないが、連上は唐突にことさら女性らしい仕草で肩にかかった髪を右手で掻き上げて見せてから口を開いた。

 

「近々、テコンドー部と本格的に衝突することになると思う」

「ああ、いよいよ──か」

 

 テコンドー部──奴らは連上に、不正な金の受け取りと暴行事件への関与を認めた音声の録音データという致命的な武器を握られている。必ず連上を狙ってくるはずだとは思っていた。

 

「それについて、以前君に頼みごとをしたよね──あれは」

「ああ、問題ない。調査は終わってるよ」

 

 島崎は一旦教室に戻り、鞄の中のファイルからメモを取り出した。

 それは以前に連上に言いつけられた仕事──新聞部部員の立場を利用して調べた、生徒会資料室に置かれている限りのテコンドー部に関係する資料の写しだった。

 

「とりあえず、目につく範囲ではそのくらいのものだな。ほとんどが部活としての公式資料だが、それより深入りしたものはあまりなかった」

 

 連上は島崎の言葉にうんうんと頷きながら、十数枚のメモをさっさっとリズムよく捲って三十秒もかけずに目を通し終えた。メモから顔を上げ、満面の笑みを浮かべる。

 

「ありがとう、これで十分だ。必要だった情報は確認できた──何しろ戦う相手のことは少しでも多く知っておかないといけないからね」

「あと、これは噂のレベルでしかないんだが、部長の梁山正貴という男はどうも底知れないところがある。油断は禁物だな」

「戦略家──という意味でかい?」

 

 連上が聞き返してくる。どうやら彼女も同じ噂を仕入れていたらしい。

 考えてみれば連上の方が圧倒的に人脈が広いわけだから、噂の類は島崎よりも詳しくて当然ではある。そう内心で納得しながら、島崎は頷いた。

 「ST-ST」というオンラインゲームがある。いわゆるウォーゲームという類のもので、様々な種類の装備、人員を選択して軍隊を組織し、他のプレイヤーとターン制の戦争を行うゲームである。姿を現わしてから割と日が浅いにも関わらず人気は高く、登録しているユーザーはすでに二百万人を超えているらしい。

 タイトルは戦略を意味するstrategyと、層という意味のstratumという二つの英単語から来ていて、要するに戦略を何層にも張り巡らせて戦うゲームという意味なのだそうだ。実際、プレイヤーはあらゆる局面を想定して自らのターンに様々な手を打っておくことが求められるし、またゲームの方もそれに耐えうるだけの自由度を持ったシステムを供給しているのである──島崎はそういった細かい知識をネットで調べた。ついでにゲーム自体にも登録してプレイしてみたが、十五分も保たずに負けてしまった。

 梁山正貴──彼はそのゲームの第一回世界大会の優勝者らしいのである。

 だから凄い、だから強いというわけではないが──梁山の策士ぶりをその身で体験した島崎からすると、その実績は彼の中の狡猾さの基礎であるように思えた。

 

「本当なら──面白いね」

 

 そう言うと、連上はいたずらっぽく笑った。

 

「面白いって……」

「まあ、チャンピオンにはチャンピオンといったところさ。相手にとって不足はない」

「え?」

 

 あれ、言ってなかったっけ? と連上は意外そうな声を出した。

 

「あたし、チェスの全英チャンピオン」

「え……ええええええ!」

 

 チェスの全英チャンピオン──しかもこの歳で。どれだけ凄いことなのか島崎には測りかねるが、梁山の仕掛けを易々と逆用した様を見れば不思議と頷けるような気がした。

 連上の驚きの表情に戸惑ったのか、連上は頬に手を当てながら、えへへ──と困ったように笑った。

 

「一時期は割とニュースとかにも出てたんだけどな。見てない? まあ、日本ではそこまで報道されてないのかな」

 

 報道。

 その言葉を聞いて、島崎は思い出した。

 ──雑誌やニュースで時たま報じられる君の評判を見るたび、僕は誇らしく、また元気そうで良かったと嬉しい気持ちになります。

 八幡浜硬介の、連上に宛てた手紙の中の一文である。

 読んだ時は意味が分からなかったが、それはこのことを指していたのだ。

 オンラインウォーゲームの覇者──梁山正貴。

 チェスで一国を制した少女──連上千洋。

 二人の策士の対決は目前に迫っている、ということだ。

 平穏は終わり、本当の嵐がやってくる。

 

「──そうか」

 

 島崎は思わず呟いた。連上が妙な顔をする。

 現状を把握した時、ようやく自分の心の中の胡乱な部分に外界の事象が繋がったのだ。

 ここ数日の間、ずっとそばにあった違和感の正体──それは平穏だ。

 島崎は、連上と共に生徒会と戦うことを決めた。

 しかし──それから今日に至るまで、島崎の身には何も特別な変化はない。どういうわけか、不穏な変化は島崎の関与しない所で起きているのだ。

 謎の侵入事件。

 不気味な波紋。

 日常から離脱する決心を固めたにも関わらず、波紋の中心にいることができない──それは、乗るべき電車に乗り遅れてしまった時にも似た焦燥をもたらしている。

 理不尽な不安感ではあるが──それが、纏わりついていた違和感の、本当の姿らしい。

 沈思している島崎を眺めて、連上は腰に手を当てて困ったように言った。

 

「まったく、ぼうっとしちゃって……もうすぐ戦いが始まるって、本当にわかってるかい? 頼むよ島崎君」

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