第5話 夕景

 体育祭当日。

 いよいよ最後の種目であるリレーの番になった。


 この日のための準備といえば体育の時間に、リレー選手だけの練習が2、3回持たれたが、それだけであった。

 菜穂にとってはぶっつけ本番も同じである。

 100メートルすら、まともに全力で走り切れるか怪しい。

 男女交互に走るのだが、菜穂のクラスはそこらの一般男子よりも速い樹がいるので、彼女がラストを走り、菜穂がその前の順番を走ることで、多少遅れても樹に挽回させようという対策になった。


 菜穂はもう口から内臓が飛び出しそうなくらい緊張していた。

 指先も感覚がなく、呼吸も浅かった。


 恐れていたスタートの合図が鳴り、一斉に選手たちが飛び出す。

 目まぐるしく順位が変わり、狂気じみた声援が飛び交っていた。

 菜穂のクラスは5クラス中3位。

 瞬く間に菜穂の番が来て、必死の形相になっている前走者からのバトンパス。

 何とか受け取り、息を切って走り出す。

 頭の中は真っ白で、荒い呼吸だけが胸に響いていた。


 3位と4位の差が大きかったおかげで、菜穂は追い抜かれることもなく、なんとか順位を死守し、ぎりぎり後ろに追いつかれそうになる直前で樹のところに着いた。

 樹はすでに態勢を整え、右手を後ろに出して菜穂を見ている。

 バトンを渡そうと腕を伸ばした時、やっと終わる…、と力が抜けた。

 その瞬間、突然足がからまり、菜穂は崩れ落ちた。


 目を見開いた樹の顔が「あ」の口のままで固まった。

 カランと乾いた音がしてバトンが転がった。

 菜穂は地面に両手をついたままそれを目で追っていた。

 追っていただけだった。

 何が起こったのかも理解できないでいた。

 すぐさま樹がバトンを拾い上げ、向きを変えて走り出す。


 ようやく誰かが、大丈夫?と声をかけて菜穂の腕を引き上げてくれた。

 美しいフォームの樹の後ろ姿が遠ざかるのを、菜穂はクラスメイトの一人に席に連れて行かれながら、ぼんやりと見ていた。


 結局、菜穂たちのクラスは2位になった。

 あの時続けざまに抜かされ最下位だったのが、樹がゴール前で2人抜き去った。

 結局菜穂のミスは、見事に挽回されたわけだ。


 校庭に並べられたクラス席に戻ってきた樹に、みんなは歓声を上げた。

 拍手喝采がひとまず終わり、ようやく自分の席に戻ろうとした樹に、やっとのことで菜穂は声をかけた。

「あ、あの…さっきは…」

 ごめんなさい、と言いかけた菜穂に、

「ごめんね、フォローするって言ったのに、できなくて」

 ——え?

 うつむいていた菜穂が顔を上げた。

 樹がタオルで汗をぬぐいながら苦笑いした。

「もうちょっと後ろで待ってればよかったんだよね。前に出すぎちゃってた」

 タオルを口に当て、考えるような目をして言った。

「で、でも私がバトン落としたから…!」

「松井さんは一生懸命走ってたでしょ。よく頑張ったよ」


 菜穂はそれ以上何も言えなかった。

 絶対非難されると思っていた。

 見下されると思っていた。

 普段、菜穂がひそかに彼らに対してそうしていたように。

 スポーツだの恋愛だのと熱心に取り組んだところで将来どうなるものでもない。

 そういう一過性のものに夢中になったって、どうしようもないのに、と。


 だけど今、菜穂は、樹の走る姿を思い出していた。

 彼女が毎日遅くまで練習していることも知っている。

 あのように美しく速く走る姿を獲得するまでに、どれほどの努力をしてきたのだろうと思う。


 夕刻になり、閉会の挨拶を済ませ、生徒たちは教室に引き上げていった。

 秋の空には、オレンジ色の雲の層がグラデーションをなしていた。

  

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