堕天使の掌の上で

瑪々子

第1話

タニアは、屋敷を訪れていた婚約者のジョナスが、自分には向けたことのない蕩けるような笑顔をノエルに向ける姿を目撃した。


少し開いたドアの隙間から、まさかタニアが覗いているとは気付いていないのだろう。ジョナスはそのままノエルの腰に手を回し、そっとノエルの顔に唇を寄せていく。その状況に、凍り付いたように足を止め、目を見開くタニアの存在に気付いたノエルは、ちらりとタニアに視線をやると、ジョナスを軽く躱しながらも、勝ち誇ったような笑みをその美しい口元に浮かべた。


この、外観はどこから見ても清純な天使のようでいて、まるで悪魔のようにいとも簡単に人の心を攫っていくノエルにーー堕天使とでも呼びたいところだけれど、見た目はあくまで天使なのだーー、タニアは今まで何人、婚約者の心を奪われたことだろう。


タニアは、自分でも十人並みの容姿をしていることを自覚している。この天使は、タニアの父の後妻の連れ子で、タニアとは血が繋がっていないために、タニアとは似ても似つかない容貌をしているのだ。


タニアとて、さして美人とは言えないまでも不美人ではない。由緒正しい伯爵家の長女として、一つも縁談が纏まらないようなことは、考えづらいはずだった。……一目見たら忘れられないほどに整った、美しい顔をしたノエルが、婚約者との仲を邪魔して来ない限りは。そしてこの天使は、タニアの婚約が破談になると、その元婚約者だった男性には、決まってまったく興味を失うのだった。



ジョナスとタニアとの婚約がやはり今回も破談になってから、タニアは、高等学院から帰って来たばかりの天使の部屋を訪れていた。タニアは、星を散らしたような淡く美しい金髪を指先で玩ぶ天使に顔を顰めた。


「ねえ、ノエル。さすがに、もういい加減にしてもらえないかしら?

これほど破談続きじゃ、私も嫁ぎ先が見つからなくなってしまうわ」


ノエルが視線を上げて、気怠げにタニアに微笑む。その姿だけでも、まるで一枚の絵のように美しい。やや低めの柔らかい声まで、鈴を転がすようだった。


「でも、お姉様。お姉様の理想の男性は、『お姉様だけを見て、愛してくれる方』でしたよね?

……あんな、お姉様の良さもわからずに、私の見た目に簡単に騙される男たちなんて、お姉様には相応しくないですよ」


ノエルにはノエルの考えがあるらしい。不服そうに眉を寄せるノエルに、タニアは苦笑した。


(どこで、間違えてしまったのかしら。最初から?……少しばかりやり過ぎて、甘やかしてしまったかしら)


一目でノエルに心を鷲掴みにされたのは、タニアとて同様だった。幼く可愛らしい天使が新しく家族に加わった時、タニアは頬擦りでもしそうな勢いで、それはそれはノエルを可愛がった。まるでお人形のようなノエルを捕まえては、タニアの持っていた綺麗なドレスを片端から着せて、大切にしていたアクセサリーを惜しげもなく身に付けさせた。はじめはそんな義姉にたじろいでいたノエルも、タニアを次第に慕うようになり、彼女の行くところにはどこへでもついて行くようになったのだ。そんな日々が長く続くうちに、どうやらこの天使は姉離れができなくなってしまったようだった。


と、その時、軽く部屋のドアがノックされた。


「タニア、ノエル。よかったら、お茶でもいかが?」

「あら、お義母様。わざわざありがとうございます」


紅茶とクッキーを乗せたトレイを掲げて部屋に入って来た、まるで女神のように美しいこの女性は、ノエルの母のソフィーだ。ノエルの美貌は恐らく母譲りなのだろう。ノエルほどの子供がいるようには到底思えない程に、義母は今でも若々しく見える。


ソフィーは、義理の娘であるタニアの縁談がなくなる度に、こうしてタニアの様子を見に来る。破談の原因を作ったノエルを責めはしないものの、それは実子を可愛がり、義理の娘であるタニアを疎んじているためではないことを、タニアもよく知っていた。むしろ、タニアのことをとても可愛がってくれていると言ってよかった。


ソフィーは、部屋にいる2人を眺めてから、タニアに悪戯っぽく微笑んだ。


「……それで、タニアはそろそろ折れる気になってくれたのかしら?

ノエルは、こう見えてなかなかしぶといのよ。……ねえ、ノエル?」


それだけ言い置くと、ソフィーは紅茶とクッキーを2人の前に置いて、すぐに部屋を出て行った。


ドアが閉まる音を聞いてから、ノエルはゆっくりとタニアの前に座り直した。


「お姉様、そろそろ降参してくれませんか?」

「でも……」


長い足を組み替えるノエルに、タニアは目を伏せた。ノエルの細い指先が、そっとタニアの頬に触れる。


タニアは改めて顔を上げると、ノエルを正面から見つめた。

中性的な美貌の見目麗しい天使は、何を身に付けても様になる。高等学院の制服も、……濃紺のブレザーに、揃いのスラックスを纏った天使も、やはり美しかった。


「私ほど、お姉様に相応しい相手はいませんよ。……お姉様だって、わかっているでしょう?」

「そんなことを言っても、あなたはまだ学生だし……」

「だから何だというのです?もう1年も経たないうちに卒業しますよ」


タニアにも、わかっていた。

ノエルがきっと一生、『自分だけを見て、愛してくれる』ことは。昔から、ノエルがタニア以外の女性によそ見をしたことなんて、ただの一度もなかったのだから。


眉目秀麗、成績優秀のノエルの、高等学院での人気は相当のものだ。タニアがノエルと同じ高等学院を卒業するまでは、下級生の女生徒たちがノエルに黄色い声を上げる姿を、タニアはよく目にしていた。けれど、ノエルは常にそれらを軽くあしらっていた。タニアに来る縁談とは比べものにならないほどに、怒涛のごとく押し寄せる縁談も、ノエルはすべて目もくれずに断っていた。


「……私には、特に何の取り柄もないのよ。何でもできるあなたとは、釣り合わないわ」


溜息混じりに言うタニアに、ノエルはくすりと笑った。


「でも、私の心を手に入れたのは、タニア、あなただけなのですから。そろそろ、覚悟を決めて?

お義父様にも、タニアが首を縦に振りさえすれば認めると、つい先日了承を得ましたから」


先程の義母といい、父といい、もうすっかり外堀を埋められた様子だ。タニアはもう、ノエルの掌の上で軽々と転がされているのだろう。


(やっぱり、昔、ノエルに私のドレスを着せてしまったのが間違いだったのかしら)


タニアは、あまりに可愛らしいノエルに、つい着せ替え人形のごとく自分のドレスを着せてしまった幼かった日々を思い出し、遠い目をした。

ノエルに、そこいらの女性よりもよほど見事にドレスを着こなせるようにしてしまった一因は、タニアにあると言ってよかった。そして、タニアに近付く男性は、ことごとくそんなノエルが追い払っていたのだ。


どうやら自分が堕としてしまったらしいノエルに……そしてその熱の籠もった視線に、ついにタニアも白旗を上げると、華奢な見た目よりもずっと力強いノエルの腕に、ぎゅっと抱き寄せられたのだった。

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