ゆらしっ師

朝枝 文彦

一話完結

「分かった! 今、分かった! 力を抜けばいいんだ! ここぞって時には、力を入れるんではなくて、抜けばいいんだよ! なぁ、そうだろう親父!」

 裕太が、二メートル近い巨躯を揺らしながら、子供のような喜色を湛えて走り寄ってきた。父親の源七は、それを見て一瞬、眉尻を落としたが、

「生意気ぬかすな!」

 と、左頬を拳で打った。裕太より一回り小さい源七の、赤黒く引き締まった腕から放たれた拳は、裕太の首から上だけを大きく揺らした。

「すいません」

 裕太は視線を落とした。

 雨と日差しを避けるばかりの、茅葺き屋根の周りでは、青葉の蔭から熊蝉が、その生命力を歌い上げている。

 源七は興奮冷めやらぬ様子で、うつむく裕太を見ながら、ここに至る、長い道程を思い出した。

 東京のIT企業に就職した裕太が、家業を継ぐと宣言し、源七夫婦を飛び上がらんばかりに喜ばせたのは九年前だった。

 しかし、帰って来るなり、ケーブルに圧力センサーだの、揺れ方をデータベース化だのと言ってみたり、フィットネスジムに通って体ばかりを大きくしてみたりする裕太の言動は、源七の目には東京かぶれの空虚な言動にしか映らず、源七の苛立ちは日に日に募るばかりであった。

 源七は、そんな裕太に対し、東京に出る前と同じように、自分が先代にされてきたのと同じように、先々代も、そのまた前の代もされてきたのと同じように、「脇で聞け!」といって裕太を殴り、「腰で答えろ!」といって裕太を殴り続けた。

 近頃、口数も少なくなり、段々と考え込むことの多くなってきた裕太を見ながら、源七は、やはりこの仕事は、自分の代で終わるのだという確信を強くしていった。

 裕太が言い出さずとも、いずれはこの仕事も、AIやらロボットやらにとって替わられるのだろうと、源七は予感していた。せめてその時までは、最後の職人の誇りを胸に、こんな山奥まで足を運んでくれるお客さんに感謝しながら、ケーブルから伝わるお客さんの、心の機微に寄り添って、最高の揺らぎを提供しようと、源七は覚悟を決めていた。

 しかし、今、裕太は確かに、自分の言葉で、源七が昔、口にしたのと似た言葉で、この仕事の何たるかを、表現してみせたのだ。

(このバカ息子は・・・・・・この、バカ息子は・・・・・・)

 裕太が再び顔を上げてしまう前に、もう一発左頬におみまいしようと、源七が拳を握りしめたその時、後ろから、若い女性の声がした。

「すいません、谷の向こうまで、大人一名、お願い出来ますか」

「いらっしゃい」

「いらっしゃい」

 二人は反射的にそう答えると、声の方に視線を向けた。太い黄色のリボンが巻かれた空色のハットをかぶり、青いワンピースを着た、三十前後の女性が、観光ガイドブックの割れ目に、人差し指を差し込んで立っていた。

「すぐ、用意しますので、少しだけ待ってちょうだいね」

 源七がそう言って笑顔を見せると、二人は慌ただしく段取りを始めた。

 裕太は、女性客から幾枚かの紙幣を受け取って、錆にまみれたアルミ缶に押し込み、振り返った。

 そこには、屋根の下の太い杭に括り付けられているケーブルの、途中を掴んで、脇の下に抱え込んでいる、源七の姿があった。

(親父、一番端っこを、任せてくれるのか・・・・・・)

 裕太は、日の光を受けて輝きを放っている小川に巨躯を向けると、わずかに肩を震わせた。

 そして、赤い目を女性客に見られぬように下を向きながら、手に滑り止めをまぶし、杭からケーブルを外し、胴に巻き付けて、握りしめ、後ろに体重をかけた。二人の太ももは、血管を浮き立たせながら2割程太さを増し、引っ張られたケーブルはギリリと音を立てた。

「素敵」

 女性客はそう言うと、水色のポシェットからスマホを取り出して、二人の様子を二、三枚ほどの画像に納めた。

 そうしてケーブルの脇に立ち、右手の人差し指を僅かに乗せると、そのまま左手の崖に向かって歩いて行った。

 谷底から、風が吹き上げた。

 女性客は背中を丸め、帽子と、閉じかかった太腿とを押さえ、吊り橋のケーブルは、再びギリリと緊張を増した。

 トンッ・・・・・・トットットッ・・・・・・。

 淡いピンクのスニーカーが、高い音を立てながら、吊り橋の板の上を進んで行く。

 青いワンピースを迎える山の峰ゝは、奥に行くほど緑を濃くし、空の青はどこまでも、高く澄み渡っていた。


                   (了)

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ゆらしっ師 朝枝 文彦 @asaeda_humihiko

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