第3話 開けてはいけない扉
裏から国を支える文字通りの影の住人、ベノウス。諜報の闇に生きる彼は、口に出すのもはばかられる悪辣で狡猾な策謀をよく知っていた。彼の役目はそんな陰謀から国を守ること。
ゆえにたとえ相手が赤子であろうと油断はしない。相手は人間。しかも勇者。
(せくすぃ~だいなまいつなサキュバスたちでさえ落とせなかった陛下を、ああも手玉に取るとは恐るべし。これが勇者かっ……!)
ハニートラップは策謀の初歩の初歩。魔王あっての魔国。そのトップをピンポイントで狙うとは、人間どももやるではないか。
(しかも一見無害な赤ん坊を送り込むとは、陰険な奴らのやりそうなことだ)
ベノウスは赤ん坊を抱いてほんわかしているヴァラルクストを見て、ぎりりと歯噛みした。
(陛下のためにも必ず尻尾をつかまなければ)
サバルが女官を連れて戻ってくる。ベノウスはひっそりと影に沈んで消えた。
赤子はルーチェと名付けられた。よく乳を飲み、よく寝てよく泣く。
「ルーチェ、いい子だ。ほら、高い高ーい」
日当たりのいいテラスで赤ん坊をあやす魔王。さっきまでギャン泣きだったルーチェは、ヴァラルクストが抱き上げるとぴたりと静かになった。今は楽しそうにきゃっきゃと笑っている。
(くっ……なんという眩しい笑顔! 幼いくせに女の武器をよく知っている! 陛下が来るなり機嫌よく媚を売りおって!)
ひさしの影からテラスを監視するベノウス。ナイトストーカーである彼は、影のあるところどこにでも潜むことができる。生まれながらの諜報員なのだ。
「だぁー! あーうー」
「ん? 何だ、ルーチェ」
可愛らしい手をぱたぱたと振るルーチェに、ヴァラルクストが軽く首を傾げる。ルーチェはきゅっとヴァラルクストの黒髪を引っ張った。ヴァラルクストは逆らわずにルーチェをのぞき込む。
「だあー!」
目が合うと、ぱあっと花がほころぶような満面の笑みを浮かべて、手足を動かすルーチェ。
「こらこら、危ないぞ」
ヴァラルクストはルーチェを落としてはいけないとしっかりと抱きかかえる。笑みを浮かべた魔王は、そのまま赤子の額に唇を触れた。
影の中のベノウスはカッと目を見開いた。
(自然にキスをねだる、だと……! こ、こいつは本当に手練れだ!)
今のはヴァラルクストも意識していないだろう。手練手管に長けたサキュバスたちなら男のキスなどほしいままだが、それは誘導であって劣情を煽った結果だ。今のようにごく当たりまえに唇を奪うことは大変難しい。
暖かいからか安心するからか、ルーチェはヴァラルクストの胸にしがみつく。ヴァラルクストが背中を軽く叩いてやっていると、すうすうと寝息を立て始めた。
「陛下! 書類がたまっているというのにまたここですか!」
「うるさいぞ、サバル。ルーチェが寝ている」
「おっと」
部屋に入ってきたサバルは声をひそめつつ、器用にヴァラルクストを叱責した。
「陛下のサインが必要な書類が山積みですぞ! 早く執務にお戻りを!」
「あー、あー、わかった。ルーチェが泣いていたんだ。仕方ないだろう」
「それは女官の仕事でしょうに」
「俺があやしてやるとすぐ泣き止むんだよ」
生暖かい微笑みの女官にルーチェを預けて、魔王と宰相は子供部屋を出て行く。
「惚気のつもりですか? かわりに私があやしておきますから、執務優先で……」
「は? 俺以外の男に触れさせろと? 死にたいか!」
「やっぱアンタ絶対開けちゃいけない扉開けてるでしょ!!」
「開けとらんわ!」
言い合う声は廊下を遠ざかっていった。
女官はルーチェをベビーベッドに寝かせ、続き部屋にタオルやおむつの替えを取りに行った。
(すでに執務に支障が……もはや猶予はない)
意を決したベノウスは影から出てベビーベッドをのぞき込む。
魔王をたぶらかす毒婦をこれ以上放置はできない。シャキンと黒い爪が伸びる。毒を帯びたこの爪なら、かすっただけでも赤子には十分。だが勇者であるならきちんと止めを刺すべき。ベノウスは必殺の一撃を与えんと構えた。
(……ッ!)
赤子と目が合った。
(寝ていたはず! なぜだ、なぜ気付いた! いいや、構わぬ! このまま……)
無垢な瞳が影絵のようなベノウスを見て、不思議そうに首を傾げる。それから幼子は無邪気に笑った。
「きゃうー」
差し伸べられた手に、ベノウスは固まる。逡巡の後、爪を引っ込めて恐る恐る伸ばした指を、ルーチェはぎゅっと握ってぶんぶんと振った。
それで満足したのか、手を放したルーチェはまた糸が切れたように寝てしまった。
(か……勝てぬ! これはわしでは太刀打ちできぬッ! 陛下、お許しをッ……!)
再び影に沈んだベノウスはそれっきり出てくることはなかった。
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