第32話 微睡み。
「お疲れ様、シェリーちゃん。」
「ありがとうメリィさん。」
差し出されたホットミルクを飲んで、ゆっくりと大きく息を吐いた。
疲れが吹き飛ぶような蜂蜜の入った甘いミルクは、どちらもお客さんから貰ったものだ。
草食獣人の中でも、動物と会話ができる者とできない者で分かれるらしい。
会話のできない者は農家を。会話のできる者は牧畜をしていることが多い。
もちろん乳製品やその加工品で、お肉を食べることはないのだが。
それも昔メリィさんに教わったことだ。
あれからこれまで。長いようで短い月日が経った今、まだまだこのホットミルクを飲んで疲れを癒す幸せな時間が続いていることが奇跡のように思える。
お客さんは皆、私の帰還を喜んでくれて今日は泣き通しだった。
お昼後の休憩時間まで皆このお店を離れずに私を待っていてくれたなんて聞いたら、休めないわよね。
それに閉店が夜更けになったのは初めてだと言う。
嬉しくなってしまうわ。
「今日は疲れたでしょ?明日は休んでも良いのよ?」
ため息をついたと思ったのかメリィさんは心配そうに言ってくれるが、私は逆に拳を握って立ち上がる。
「そんなことはできません!もっと私、皆のために…」
働きたい。そう続けようとした口が動かなくなる。
くらりと頭を押さえた私は倒れ込まないように両足に力を入れた。
「ほら、やっぱり危ないわよ。ランチの時間だけでもお休みしましょう。」
すぐにメリィさんが駆け寄って来てくれたが、私は浮かない顔をして座り直した。
メリィさんとコボルトさんのデートも私のせいで途中からそれどころではなくなってしまったし、結局1日楽しめていないはずだわ。
いくらなんでも私がこれ以上負担をかけてしまうのは忍ばれる…
メリィさんはにっこり微笑んで私の顔を覗き込んだ。
「皆元気なシェリーちゃんを待っているのよ?カラ元気じゃ意味ないわ。安心してお食事を楽しんでもらうのが私たちの喜びでしょう?」
優しく諭すように言ってくれたメリィさんに反論できる言葉も見つからず、私は大人しく頷いた。
「じゃあ、ランチはお休みします…。」
メリィさんは楽しそうに、嬉しそうに笑った。
「うん。そうしましょう。朝はゆっくり寝てね。」
「…はぁい。」
見た目はそんなに変わらないけれど、年上のお姉さんのように温かく世話を焼いてくれるメリィさんがとても頼もしくて、つい甘えてしまう。
きっと彼女は理想のお母さんになるわ。
そう思って想像してみたけれど、きっと慌てふためいてコボルトさんにフォローされている場面が容易に目に浮かんで一人微笑んでしまう。
「なあに?」
「ううん、何もないです。戻ってこれて嬉しいなって…」
ホットミルクで体が温まり、急速に眠気が襲ってくる。
「あらあら。やっぱり疲れてるわね。ちゃんとベッドに行って寝ましょうね。」
優しく誘導してくれる温かい手を握って、ふわふわした頭で今日を思い返す。
「…さま…」
もっと大きな手だったけれど、メリィさんと同じくらい安心させてくれる手。
「ん?何か言った?シェリーちゃん。」
「うん?…何でもないの。おやすみなさい、メリィさん。」
「おやすみなさい、シェリーちゃん。」
自分のベッドにゆったりと全身を預けて、窓の外を見る。
月が雲に隠された真っ暗な夜空には星が散りばめられ、まるで彼の瞳のようだ。
まるごと受け止めてくれた優しい方。
あの時間は嘘のように心が穏やかだった。
『…いつでも呼んでくれ、私にくれた名を。』
あの言葉に胸の内が温かくなって、だんだんと見ていた夜空が細まっていく。
キラキラ光る星が彼の瞳を思い出させるのか、無性に寂しくなってくる。
「ノクスさま…」
ポツリと読んでみた名前が暗い部屋に吸い込まれた。
ゆっくりと閉じた目に雲間が晴れた月光が差し込み、暗かった視界を白く染める。
「無事か?」
不意に聞こえた声に重たいまぶたが上がる。
あら?聞き覚えのある声が…
ぼんやりとしている頭が目の前の情報を処理しきれずに時間ばかりが流れていく。
そうね。確かに今日は色々なことがいっぺんに起きてしまって、私の心も体も忙しかったわね。
それにしても、私ってば夢でも見ているのかしら?
名前を呼んだら…
『…いつでも呼んでくれ、私にくれた名を。すぐに転移して向かうと約束する。』
私は思い出した言葉の続きを思い出して飛び起きる。
またくらりと揺れた視界と同時に、大きな手がしっかりと支えてくれた。
「大丈夫か?誰かにやられたか?」
私は頭を軽く押さえて、目の前にいる方の名を呼ぶ。
「ノクス、様…?」
「どうした?」
きょとんとした丸い目が瞬かれ、私は夢心地に支えてくれたその手を握った。
驚いたように跳ねた指先が、ゆっくりと私の手を包み込む。
「…何も、何もないです…」
言わなければ。何か。
必死に鈍い頭を回転させて口を開く。
「あの、わたし……」
包み込んだ手がどちらともいえない体温で温まっていく。
ゆらゆらする視界は、頭が揺れているのか体が揺れているのか分からない。
「どうした?何か不安があるのか?」
不安。不安はたくさんある。
受け入れてくれているけれど、本当の意味では違うのではないか、とか。
私のことを本当は厄介者のように思ってるひともいるんじゃないか、とか。
「う…」
「何が不安だ?あなたの身を守るためなら万全を尽くす。」
私は違うと首を振る。
彼は綺麗な瞳を右に左に泳がせて、私を覗きこんだ。
「ならば明日騎士団を見せよう。それで多少安心できるか?」
騎士団?
私はいつの間にか俯いていた顔を上げる。
騎士団。魔物の騎士団。それは興味をそそられる言葉だ。
「…それであなたを安心させることができるか?」
そう言う魔王様の顔は何だか不憫で、私は笑ってしまった。
「ふふ、はい…」
自分とは違う、大きな手を握ったり軽く離したりを繰り返す。
大きな背をかがめて、困った顔で私を見ている気難しい顔をした魔王様。
何故だか安心できて、ゆっくりとまぶたが閉じられた。
悪女と魔王 文木-fumiki- @fumiki-30
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