第30話 俺の喜び
名前。
個体を識別するためだけの固有名詞としてつけられるもの。
それは、俺たち魔力を持つ魔族にとって全く別の意味を持つ。
そして魔素によって構築され生みだされた者も魔族同士の婚姻によって生まれた者も親のいない者でも名前を付ける。それは等しく持っていなければならないものだ。
でなければ、この国における万物を構成し、幾人の体を構築してきた魔素の記憶が混同し人格や能力に重大な影響を及ぼす可能性があるからだ。
魔素の持つ力はそのひとつひとつがバラバラで、特有の記憶を持つ。
それをひとつに縛り上げ、個体として形成する呪言として名前というのは必要になる。
「魔王、様…アンタ…」
転移され消えた女とたった今まで言葉を交わしていた魔王様が俺を振り向く。
その瞳はやはり記憶にある従来のよく知るものとは違っていた。
「どうした。」
たかが人間の女ひとりにかまける上司が面白おかしくてからかっていた。
国民を誰より
予想通り、あの女は魔王様と面と向かって会話ができて、彼もそれを楽しむ素振りを見せていた。
俺が提案した。俺が魔王様のお力になれた。
そう思うと誇らしかった。
が。
「名前、持ってなかったんすか…」
今までどう正気を保っていたのか。
魔素に抗われれば、肉体などとうに弾け飛んでいるはずなのに。
「ああ。今まで特に必要としていなかったからな。」
確かに出会った時から魔王候補として陛下と呼ばれていた。
それが魔王様に変わっただけだ。
名前とは一種神聖なもの。
特に偶然に生みだされた魔物は最初、記憶が混同していることが多い。
その中から名前を選ぶものもいれば、あまりの苦しみに素っ頓狂な名前を自らにつけてしまうこともあると聞く。
魔王様は後者だと思い、どんな面白い名前なのかと聞くのを楽しみにしていたのに、まさか。
「あれに、付けさせたんすか…」
俺は愕然と問う。
こんなことになるなら俺が興味を持たなければ良かった。
どうなるんだろう、なんて思わなければ良かった。
魔王様があの女を囲むというならそれも面白いと思っていたが、逆に魔王様が身を捧げることなどあってはならない。
名前を付けてもらう。
その行為は婚姻の証である名字の交換とは違うのだ。
名字は同じ一族である共同体として、その位置や状態を把握しやすくするために付けられる。
本来ある名をそのままに新しい名を貰うのであればこんなに驚いたりしない。
真っ白な個体に、存在を固定するための名を授ける。
それは、従属に等しい行いだ。
誰よりも国を愛した魔王様が、たかがひとりの、しかも人間の女程度にその身を捧げようと言うのか。
この国を、棄てるのか。
怒りと悲しみ、悔しさ。駆け巡る感情は往々にして暗く重い。
パキ、と本来の姿である鱗が顔を裂いて飛び出す。
「ああ。…問題ない。従属の枷もない。ただ、呼び名を貰っただけだ。」
彼は俺の意図に気付いたように顔を挙げると、淡々とそう言って執務机に腰を落ち着けた。
「はぁ?今まで名前を持たなかったアンタが他人に名前なんか付けさせたら…!」
「それは問題ない。私の半分はそれを認めていない。」
「…は…?」
思わずまた口を開いて停止する俺に、魔王様は見たこともないような顔を向けた。
「お前がいつも私を気に掛けてくれているのは分かっている。ありがとう。」
そのコーヒーに蜂蜜を溶かしたような微笑みに、口元が引きつった。
ありがとう。済まない。悪いな。
そういった言葉自体は何度も聞いているが、今のは何だか違った感情がこもっているようで胸を掻きむしりたい衝動に駆られた。
「いや…何故あれをそんなに気に掛けるんですか。」
そうじゃなくて、と睨むと、上機嫌に水を飲んでいた彼は不意に視線を落とした。
暗く沈んだ目に思わず全身が総毛だつ。
「…記憶を覗いてしまった。この国へ来る前まで、彼女が経験してきたことはあまり気分の良いものではなかった。」
一体何を見たのかは分からないが、優しいこの方が記憶共有などしてしまえば庇護欲を掻き立てられるのは分かりきったことだ。
「それだけですか?アンタは魔王様なんですよ?」
正真正銘。名実ともに。誰もアンタの代わりなんてなれない。
それをアンタは分かっていない。
「人間の女ごときに心砕いてどうするんですか。しっかりしてもらわねぇと困ります。」
「バゼル。」
魔王様はゆっくりと俺に近寄り、おもむろに俺の手を取った。
力強く握られた瞬間、膨大な感情が攻め入ってくる。
「ッ!!!」
思わず手を振り払ってしまった俺に、魔王様は困ったような笑みを浮かべていた。
「こんな感情を日々抱えている彼女に感情移入してしまうのは、私が悪い。彼女のことは責めないでやってくれ。」
自分の手を見て、疑う。
長いこと生きてきたが、他人の感情を流された感覚は初めてだ。
泣き叫びたくなるような悲痛な感情も、初めてだ。
「いくら恐れられていようと、私には認めてくれる者がいる。どんな形であれ、私を思いやってくれる者が側にいる。…彼女にも、ここでは安心して幸せを見つけて欲しいと思っているだけだ。」
魔物を恐れる人間に笑顔を向けられることはそうない。
ましてや、怒鳴られたことも。
人間など俺からすれば道端の雑草が話しているのと変わらない脆弱な存在だった。
だから、危機感の欠片も無いのほほんとしたおめでたい人間だと思っていた。
面白い人間がいたもんだと、空の雲を眺めるような気持ちで見ていた。
魔王様に注意された時のことを思い出す。
例え表面的でも、言葉だけでも相手の心に寄り添う振る舞いをしなさいと。
正直、力関係が全ての魔物の国でそんなもの何の意味があるのかと思っていた。
現に今もそう思っているが、あまりにも表面しか見ていなかったのだと今では分かる。
下の者は上の者に従うべき。
そんな自然の掟に甘え過ぎていたのかもしれない。
こんなに生きているというのに、あんな強い感情は持ったことがない。
素直に、感心した。こんなものを秘めながら何でもないように日常を送っていることに。
そして、また憧れる。今まで気付かなかったことを気付かせてくれる、この方に。
「……まぁ、魔王様がそこまで言うんなら、俺は反対しませんけど。」
魔王様の目に映っているのは慈愛だけなのか。それとも。
俺は仕方ないとため息をつく。
きっとこの方は鈍いから気付いてない。
支えることができるのは、俺だけだ。…きっと、今は。
それでも良い。この方の側で、この方の変化を見ることも、この方のおかげで変わっていく国を見ることもできるのは、俺だからだ。
それこそが俺の喜び。
「でもそんなに気になるならいっそ婚姻でもして手元に置いといたらどうすか?」
何を、とまた焦る魔王様の表情は、いつもの仏頂面より面白い。
俺はまたくつくつ笑いながら思う。
あの魔王様を手玉に取るなんて、やっぱりあの女は悪女だ。
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