⑨ 変わらぬ心で 人の心の花にぞありける

 最近、最寄りの書店のレジが混んでいるところをよく見かける。


 寒い冬という季節に加えて、時節柄家に籠らざるを得ない状況ゆえか、本を買い求める人が絶えないでいるようだった。

 私もその気持ちはよく分かる。インドアのお供に本はぴったりなのだ。


 ちなみに、私は学生時代書店でアルバイトをしていたことがある。


 都会の真ん中の駅の片隅にあったそのお店は、外から駅ビルに入る地下階段を降りた正面に位置しており、夏は暑く、冬は寒風に乗って雪が舞い入るようなそんな場所にあった。


 周囲はビジネス街ということもあって、通勤途中や仕事帰りのビジネスマンが主な客層で、文庫や雑誌、新書がよく売れた。また、地下通路で駅に連絡されるため、昼夜問わず人が多く行き交うお店だった。


 アルバイト先の人々は、少人数だが本好きが集まる和やかな職場だった。私が入りたてのころ、発注の仕方やレジの操作などをメモしていると、パートの女性がその人自身も気をつけていることなどをアドバイスしてくれたりと、親切な方が多かった。

 

 本屋バイトではいろいろな経験ができたが、書店員ならではの技術も身につけることができた。それは、本にかける紙のカバーを自分で折って掛けられるようになったことだ。

 カバーの掛け方、折り方はお店により異なるが、私がバイトしていたそのお店では、表紙を紙の折り畳んだ部分に生まれる空間にうまく差し込むタイプだった。


 最近は、表紙に沿って単に折り曲げて被せるだけのお店が多い。これは全くもって好みの問題なのだが、これだとカバーが上下に動いてなんとなく心許ないと感じていたものだった。


 自分でカバーを折ることを覚えてからは、本を買った際には、カバーをお願いせずにすむようになった。自分で家で適当な紙を折ってカバーを掛けて、自分好みの一冊を作り上げることが密かな楽しみとなった。


 冬になると、本屋のアルバイトでのある出来事を思い出す。


 働き始めてから迎えた1回目の冬で、大晦日まであと何日かに迫ったある日のことだった。レジに立っていた私の元に老婦人が歩み寄り、「これあげる。」と言って、手持ちの手提げ鞄の中からみかんを2、3個取り出し、レジ台に置いていった。

 私は、「ありがとうございます。またお越しくださいませ。」と反射的に答えたが、言い終わるよりも早く老婦人は立ち去っていった。


 あまりの唐突さに私は少し頭の中を整理する時間が必要だったが、レジ裏にいた社員から、「あの人常連さんだよ。みかんは俺はいらないから。」と声をかけられたことで、ああやっぱりみかんをもらったのか私は、と状況を飲み込むことができた。

 

 みかんをくれた理由は本人に聞いてみなければ分からないが、おそらく、というか確実に差し入れのつもりだったのだろう。冷たい風に吹かれ、ダウンジャケットにエプロンをつけて、寒さで体を小刻みにふるわせながらレジに立つ私を、老婦人は憐んでくれたのだろう。


 そのみかんたちは、表面のツヤはやや失われた、新鮮とは言い難いものだった。たしか、1個は食べて残りは同じバイト仲間に押し付けたと記憶している。

 押し付けた、という言い方をしてしまうのは、やはり常連とはいえ見ず知らずの人から貰ったもので、しかもいつ買ったかも分からないようなみかんであったことから、食べることに怖さがないわけではなかったからだ。

 感謝の気持ちよりも、驚きや困惑の方が勝っていたし、ただ捨てるのも勿体無いという気持ちからなんとなく食べたというのが正直なところだった。


 この出来事を思い出すときはいつも、自分はいつから人の心を信じられない愚かな人間に変わってしまったのだろう、というようなことを考えてしまう。身を守るために身につけた術とはいえ、みかんの差し入れくらいで何を気にすることがあるのか。


 少年のような無邪気さであれば、老婦人から貰ったみかんの思い出も、もう少し鮮やかな記憶に変わっていただろうに。


 みかんであれば劣化は見抜けるけれど、人の心の変化は目には見えないものである。大人になるにつれて、私の心の中は窮屈な猜疑心に満たされてしまっていたようだ。

 

 そんな書店バイト経験者のつまらぬ考え事とは無関係に、近所の書店は元気に営業している。

 お店は忙しいに越したことはないが、書店員の皆様がどうか健康に働けますようにと願うばかりである。

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