第13話  碑文浄書


 その年の秋、江戸の河田迪斎かわだてきさいから一通のふみが大棚村に住む恵吉のもとに届いた。驚いたことに、碑文の浄書じょうしょが出来上がったというのだ。都合がつき次第、風自楼まで取りにくるようにとのことだった。


 年の瀬もちかくなった冬の日、恵吉は朝方まだ暗いうちに家を出発し、白い息を弾ませながら、中原街道を曙光にむかって進んだ。


 風自楼に到着すると、恵吉はすぐ奥座敷に案内された。半年ぶりに会う迪斎は、見るからのげっそりしている。満足に寝ていないとのことだった。夏にペリーが浦賀に現れてから、てんてこまいの忙しさが続いているという。


 ペリーが最初に浦賀に現れたとき、迪斎はペリーとの交渉の場には同席はしていないが、強硬に開国を迫るペリー使節団に関して当時大学頭だいがくのかみに就任したばかりの林復斎はやしふくさいは、その部下である迪斎に対して、ペリー艦隊の装備や狙いについて、徹底的に調査するよう指示した。


 その間、幕府は窮余きゅうよの策として一年間の猶予をペリーに対して要求し、認められた。つまり当初迪斎は調査の完了までに一年間の期間を与えられたのである。しかし、しばらくしてペリーはこの約束を一方的に反故にし、半年前倒しで交渉を再開する旨を停泊中の香港から幕府に通告してきた。


 前回の交渉終了後、幕府は十二代将軍家慶いえよしが亡くなり、十三代家定の代になった。家定は生来病弱であり、しかも黒船来航という前代未聞の状況下での将軍就任とあって、過度のプレッシャーにより精神にも支障をきたしていた。そもそも将軍の政務を全うできる状態になかったのである。そのためはたから見れば幕府は混乱していた。つまり幕府側の混乱の間隙をつくかのようにペリー艦隊は香港から琉球経由で江戸にむかって出航することを決めたのだ。


 迎え撃つ幕府側の実質的なトップは老中阿部正弘だった。皮肉なことに、将軍が実質不在であったがために、阿部正弘の強力なリーダーシップがより真価を発揮する結果となった。それゆえむしろその時期の指揮命令系統はかつてないほどに機動的で整流化されていたかもしれない。


 いずれにせよ阿部正弘は、いわば幕府開闢ばくふかいびゃく以来の国難に対して家定の信任も得て縦横無尽に辣腕らつわんをふるった。そして大胆にも林復斎という一学者を応接掛おうせつがかりに任じた。今でいう特命全権大使である。国家の命運をこの男に預けたといっていい。いかに林復斎という人物が、阿部たち幕閣から厚い信任を得ていたかという表れであろう。実際、復斎は諸外国の事情や砲術にも通じていたし、なにより交渉力、決断力に秀でいていたため、もっとも最適な人事といえた。

 

 しかしそれだけに部下に対する要求も厳しい。この男の癖として、なにごとも用意周到でないと気がすまない。この場合も、ありとあらゆる議論を想定し、その反論に必要となる資料を部下に収集させた。部下といっても復斎の部下といえるのは迪斎のみである。必然的に迪斎がすべて請け負うことになった。迪斎にはもちろん昌平黌の塾頭としての顔もあり、その職務もおろそかにはできなかった。さらに幕閣や有力大名との議論にもしばしば容赦なく駆り出された。ゆえに迪斎はここ半年間休みなく働いている。しかもペリーは寝耳に水とばかりに交渉再開日を半年近く早めるという。ここ数日は文字通り不眠不休であった。


 そのような超多忙な日々の中、それでも迪斎では弟子のために碑文の浄書を仕上げた。おそらく彼のもともとの考えではあと一、二年はじらすつもりだったようだが、黒船の来航以降、肉体的にも精神的にも追い詰められ、おそらくこの先ますます余裕がなくなることを懸念し、余力のあるうちに急遽浄書をしあげたというのが実情のようである。


 とはいえ、恵吉の眼前に広げられた二枚の紙を見て、恵吉は全身の血が沸騰するような感動を覚えていた。縦三尺、横二尺の楮紙こうぞしにはほぼ余白がないほどにびっしりと端正な文字で碑文を浄書されている。縦横の均衡を取りながら均等に並べられた文字列はまさに壮観であった。さらにそのかたわらに置かれた縦八寸、横一尺三寸ばかりの奉書紙には、


 杉山神祠之碑


 と篆書てんしょ風にデザインされた雄渾ゆうこんかつ華麗な一筆が記されていた。


 恵吉は、石碑の題目として、これほどに壮麗な意匠をかつて見たことがなかったし、このような出来栄えになることもまったく想像だにしていなかった。


 さらに碑文の文章は、一読しただけで見事な論理で格調高くまとめられていることがわかり、恵吉はやはり自分の文才など師の足元にも及ばないと思った。


 ただ碑文の中身については、いくつか気になる箇所があった。続日本が続日本になっていたり、十五位下の官位を授かった年を承和五年としているが、ただしくは承和十五年であり、承和五年は官幣かんぺいのみを授かった年として記録されるべきであった。いずれも恵吉が下書きした段階では、ただしく記載されていたが、浄書する段において、誤解が生じたらしい。しかし、指摘をすれば、一字の修正であっても、生真面目な師匠のことであるから、全文最初から書き直しをするに違いない。そうなると貴重な時間と体力を奪うことなるのは火をみるよりも明らかだった。老体にむちうちながら果敢に国難にあたっている迪斎を、一人の国民としても弟子としても、これ以上追い詰めるようなことはできなかった。


 それより、ようやくこの日が来たことが、恵吉には心底うれしかった。晴れ晴れしい表情でうやうやしく頭を下げ浄書をおしいただいた。


 その様子を見届けた迪斎は満足げな表情で、

「恵吉よ。わしはどうやら少々疲れておるようじゃ。わざわざ呼び出してすまぬが、少し休ませてくれ」

 と口調こそいつもどおり飄々としながらも、重い体をひきずるように退出する姿は見ていて忍びなかった。


 師が去ったあとも恵吉はしばしその部屋に一人残り、威をただして、もういちどその碑文をながめながら、自らの肝に銘するように黙誦した。そしてこれが立体化され、石碑として杉山神社の境内に屹立きつりつする様を感涙でその光景が滲むまで夢想しつづけた。


 ――恵吉と迪斎の共作といえる、その碑文は以下のとおりである。


杉山祠碑銘

武蔵国都筑郡大棚郷杉山祠は日本武尊やまとたけるのみことを祭り、延喜式にいうところの四十四座のひとつなり。しこうして杉山明神本祠、これなり。けだし大棚の郷となるは、和名抄わみょうしょうにしるす都筑七郷のうち綴喜つづき店屋郷が、のちに大店となりまたは大棚郷としょうす。実に兵部省の式にいうところの武蔵国四駅のひとつなり。郷中に古道のあとあり。今尚宛然えんぜんと尋ぬるべし。宿根入としょうす地あるは、武蔵演路以て駅跡となす。又、荒原往々、有文古瓦出ずる。郷人以て古駅のしるしとなす。続日本後記にいわく、承和三年二月武蔵国無位杉山明神に従五位下じゅうごいのげを授く。けだしこの祠をいうなり。また聞く、昔はほこら後山にありと。一旦罹災りさいし、よって山下へこれをうつす。天正十九年製すところの税籍に祭田四段五拾六歩としるす。文禄三年に至り官収むるところとなり、遂に祭田を失いて、方今、因循、郷を以てあやまりを伝え、ために、村祠また頽廃す。天保五年別当龍福寺住僧長伝その祠の衰退を深くなげき、すなわちその所伝の神爾をそなう。以て白川神祇官総司しらかわじんぎかんそうじい、すなわち「杉山神社」四字を以て題額を賜り、実に神祇伯雅寿王じんぎはくがじゅおう書するところのかかり、これを祠前にかかぐ。しばらくして、村民恵吉ら相謀あいはかりてまさにその顛末てんまつを書する碑を立て、以て無窮むきゅうに伝えんとす。而して余、文をわる。すなわちその説くところを記し、またかかわり銘を以ていわく、白鳥の神、英武の質、西伐東討、偉功無匹、杉山古祠、久しく埋没すなるを、貞珉ていびんに文をしるし、神威をく述べん。


嘉永五年歳次任子嘉平月 林司成家塾都講河田與書


 無論、原文は漢文である。が、あえて作者二人の思いと気分をより直接的に伝えるべく書き下し文にしてみた。おそらく専門家の目から見れば、細かい指摘もあるだろうが、言わんとするところに間違いはないと思うので、ひとまず書き下しの細かな誤謬ごびゅうには、目をつぶっていただければ幸いである。


 以下余談だが、ここでいう和名類聚抄わみょうるいじゅうしょうの都筑七郷とは、余部、店屋、駅家、立野、針折、高幡、幡谷を指す。このうち針折はざくのみは八朔はっさくと当時から比定されていたが、そのほかは今もってさだかではない。八朔とは西八朔のことであり、このことが、西八朔式社説の有力根拠になっている。当時から、和名抄と延喜式はともに平安中期に制定されたものであるため、式社の所在と郷の場所とに密接な関係があると考えられていた。それを踏まえて恵吉は、七郷のひとつである店屋が大棚に転じたという説を展開しているが、残念ながら店屋は今日、と呼ばれるのが定説であり、場所としては町田市鶴間町谷が有力視されている。


 また延喜式の中の兵部省式には、武蔵国の四駅のひとつとして同じく都筑郡店屋の名前が記されている。これについて、恵吉は、碑文の中で宿根入という大棚村の北西に位置する場所がその古駅の名残であるとの説を唱えている。当時、大山街道と中原街道をつなぐ間道として大棚村を縦断する古道があった。碑文にも出てくる宛然えんぜんたる古道のことである。宿根入という地は、現在は宿之入と呼ばれているが、大山街道とこの古道をつなぐ付近を指す。この鎌倉古道をさらに東にすすむと龍福寺や大棚杉山社のある杉ノ森に至り、道はゆるやかな起伏とともにさらにその尾根沿いをぐるりとめぐって中原街道の勝田かちだ橋に達していた。しかしながら、宿之入りが古代の駅跡であるという説は今日まで耳にしたことがない。


 ちなみに郷とは平安時代において五十戸以上の集落地を指すが、近年早淵川の新北川橋近くで発見された北川谷きたがわやと遺跡群は優に五十戸を超える単位の住居跡が弥生以前から平安時代までの数百年にわたってほぼ切れ目なく見つかっている。そのため、北川谷遺跡が七郷のひとつであることは間違いないとおもわれる。しかし、北川谷遺跡群は、恵吉の家から見ると目と鼻の先なのだが、大棚社からはいくぶん距離があり、むしろ同じ杉山神社でも勝田社や吉田社にほど近い。いずれにせよ将来北川谷遺跡群が七郷の一つであると証明されたとしても大棚社式社説を裏付ける論拠にはならないのだ。つまり残念ながら碑文の前段の堂々たる論説は大変独創的で興味深いが、今日的に見ればすべて恵吉と迪斎の勇み足であると言わざるを得ないのである。





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