雨が鳴る

武田コウ

第1話 雨が鳴る

 空から降り注ぐ無数の雨粒が、私の手にした安物のビニール傘にぶつかり音を立てる。


 雨は苦手だ。服や持ち物が濡れてしまうし、移動にも支障がでる。高校からの帰り道、私はそんなことを考えながら歩いていた。


 いつも通りの下校。いつも通りの私の世界。しかし、そんないつも通りな私の視界に、なんとも奇妙な行動をしている人物が映りこんできた。


 それは綺麗な女性だった。艶やかな黒髪をロングにし、いかにも大和撫子といった風情の女性は、私と同じ高校の制服を身に着けていることから高校生であると推測される。


 その女性は傘をさしていなかった。それだけならば傘を忘れたのだろうと思うのだが、とにかく彼女は奇妙だったのである。


 まず彼女は、その体が濡れるのも構わずにその場で佇んでいた。両手を軽く胸の前で組み、天を見上げた彼女の瞼はそっと閉じられている。そして彼女はうっとりとした……そう、まるでお気に入りの音楽を聴いているかのような表情で静止しているのだ。


 酷い雨天のため周りに人気が無いからか、それとも彼女の容姿が麗しいからなのかわからないが、私には一見奇妙なその行動が、何か非日常的で神秘的な事に見えてしまったのだ。私は思わず彼女に声をかけていた。


「あの……何をしているんですか?」


 私の言葉に、彼女はゆっくりとその瞼を開いた。吸い込まれそうな漆黒の瞳が私を捉え、彼女はそっと笑った。


「雨音を聞いていたのよ」


 雨音を聞いていた?なぜそんな事をするのだろう。


「何故ですか?」


「私にとって雨の音は、何物にも勝る至高の音楽なの」


 理解が出来なかった。雨音が音楽?私が耳を澄ませても雨はいつものように単調な音しか奏でない。これが全身ずぶ濡れになってまで聞く価値のある音だというのだろうか?


 私の表情を見取ったのだろう。彼女はクスリと笑い、私に歩み寄ってきた。


「ええ、これはただの雨よ。音楽にはなりえない……そう思うのも無理はないわ」


 彼女は流れるような動作で、そのスラリとした美しい人差し指を私の唇にそっと押し当てる。


「目を閉じて耳を澄ませるの。そして聞きなさい雨の音を」


 押し当てられた指にドキドキしながら、私は目を閉じた。視界が闇に包まれ、聴覚がより鋭敏に研ぎ澄まされる。


 今まで聞こえなかった音が聞こえる……道路を覆うアスファルトに、建物の屋根に、そして私の傘に。雨はそれぞれとぶつかりながら微妙に違う音を立てているようだ。だがしかし……これは音楽と呼べるのだろうか。


「そう、これだけでは音楽じゃないわ。だからもっと潜りなさい。自分の奥深くに」


 彼女の声が聞こえた。私は言われるまま自分の中に意識を沈めていく。それは眠りにつく感覚に似ていた。


 深く深く……今までたどり着いたことのない領域へ……。あんなに鳴り響いていた音が消えた。そして私はまだ先へ……何よりも澄み切った……闇の奥へ。





 何も見えない。

 何も聞こえない。



 どこまでも続く純粋な闇に包まれて……そうかこれが私、誰にも見えない、外界から切り離された飾り気のない心。


 ―――所詮人間は世界を主観でしか見ることはできないわ


 どこからか彼女の声が聞こえる。


 ―――主観でしか世界を認知できないのなら、客観的な事実なんて如何ほどの価値があるのかしら?


 わからない。彼女は何が言いたいのだろう?


 ―――真に美しいものは自分の中にしか無いわ。外界の刺激なんて、それを呼び起こすための呼び水にしかならない。




 真の美は自分の中にある

 それはとても閉じた世界

 どこまでも深く澄んだ闇の中



 一粒の雨が……落ちてきた。


 それは澄み切った闇に波紋を広げる。最初は小さく徐々に大きく。


 その一粒を合図に、雨はどんどん降り注いだ。静寂を守っていた闇は、雨粒にかき乱されていく。


 音ガ……キコエル。


 雨にかき回された闇が、私を切り裂いていくような……そんなぞっとするほど美しい音を奏でる。


 音が闇を引き裂いていく。


 突然世界は光に包まれる。赤青緑白……私の視界は色で溢れてしまった。


 オトガキコエル


 気が狂いそうなほど麗しい旋律……ああ、これが……。


「そろそろお戻りなさい」


 彼女の声で、私は一気に現実に引き戻された。荒い息をする私に、彼女はそっと笑いかけてくる。


「あら、貴方の傘もなかなか素敵な音を奏でるわね」


 次の瞬間、瞬きをすると彼女は消えていた。彼女は何者なのか、それは今もわからない。


 ただ私の耳には、あのぞっとするほど美しい旋律がこびりついて離れないのだ。

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雨が鳴る 武田コウ @ruku13

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