優しい老騎士は邪神を崇める

五味九曜

前編

 薄暗い、灰色の霧の中のような景色が視界を覆う。目が開いているのか閉じているのかもわからない。頭はぼうっとしていて、身体は重たいようでふわふわしている。


 時折それを自覚することができる、夢という不思議な世界。そのまどろみの中の心地よさに身を委ねる。



『――聞こえますか、老騎士ロデリック』


 美しく澄んだ、どこか妖艶な女性の声。



『聞こえますか。――私はノクシア』



 目を見開いたつもりだが、景色は変わらず灰色の中だ。



『敬虔なる信徒ロデリック、あなたは邪神と呼ばれた私を毎日のように拝んでくださいましたね。その忠義に報いるため、あなたの願いを叶えてあげましょう』



  ◇



 午前2時に日が昇り、午後9時に日が沈む。


 そんな長い長い昼をつくりだした昼の神ディーエを祀る村の小さな教会には、今日も村人たちが列をなして礼拝に訪れている。


 老騎士ロデリックは、切り株に腰掛けながらその行列を見守っていた。


 かつては騎士として名を馳せた彼も寄る年波には勝てず、この小さな村で番兵のようなことをしながら、半ば隠居生活を送っている。


 列に並んで立っているのもこの老体には堪えるので、中に入るのはいつも最後にしていた。



「ロデリックさん、おはようございます」


「ああ、おはよう」


「ロディ爺、腰の調子はどうだい?」


「だいぶマシになったよ。君に揉んでもらったお陰でね」


「ロディさん。畑に獣の足跡があったんだ。魔物かもしれない」


「後で見に行こう」



 こんな老人を慕ってくれるのは、村の者たちはその人柄故だと口々に言うが、ロデリックは彼らの情の深さ故だと考えている。

 穏やかで、親切で、信仰に厚い村の人々を、老騎士は何より愛していた。



「ロディ爺ちゃん。昔は昼と夜が半分ずつだったって、本当?」


 ほっそりとした幼い少年が、好奇心に溢れた目をロデリックに向ける。


「ああ、そうだよ。それで、1年のうちに昼の長い時期と夜の長い時期が交互に来ていたんだ」


「夜の長い時期は、大変だった?」


「まあ……そうだな。その時期は寒いし、夜は魔物が出るから、ワシら騎士は忙しかったな」


「じゃあ、お昼が長くなってよかったんだね。ディーエ様のお陰だ」


「うむ。君にもディーエ神の加護があらんことを」


 ロデリックは少年の頭に、皺だらけの手を乗せる。



 集まった村人たち全員が座れるほど、礼拝堂は広くはない。後ろで大勢の立ち見が並んでいるが、ロデリックには特別に粗末ながら小さな椅子が用意されている。


 若い神官が語るのは、毎回同じ物語だ。



 かつて世界は、昼の神ディーエと夜の神ノクシアの、二柱の姉妹が均等に支配していた。昼と夜が半々に、交互に訪れていた。


 しかし、あるとき姉であるノクシアが支配を広げようという野心に駆られ、妹のディーエから太陽を奪ってしまった。


 薄暗い昼と真っ暗な夜しかなくなった世界で、作物は枯れ、魔物が跋扈し、人々は苦しみに喘いだ。


 戦いの末、太陽を取り戻したディーエは、ノクシアの力を抑え込み、暗くて寒い魔の棲む夜を短くし、明るく温暖で平穏な昼の時間を長くしたのだった。



 この神話が広まったのはつい数十年の間だと、ロデリックは記憶している。きっかけは話の通り、太陽の出ない時期が訪れたことだ。


 夜の神ノクシアも昔はディーエと同等に崇められていたが、それ以降は邪神として人々に憎まれ、神殿や石像が破壊されていった。



「信仰に厚き者は神に救われ、不信心の者は暗き魔を呼び寄せる。偉大なるディーエ神を称え、その光で邪を祓うのです」


 神官は、若者らしい熱を帯びた声を、聴衆の心にまで響かせた。



  ◇



「これは……野犬だよ」


 よっこらせ、とロデリックは屈めていた腰を伸ばし、心配そうに見ていた農夫に声をかける。


「なんだ、よかった。いや、よくはないが……魔物でないなら、まだいい」


「最近は魔物も増えてきたから、気を抜かんほうがいい。昼間でも出ることがあるらしいからね」


「本当に、どうなってるんだろうな。このところ作物の実りも悪い。信心が足りないのか、誰かが邪神でも崇めてるのか」


「……。そうやって人を疑ってはいかんよ」


「おっしゃる通りだ。ロディさん、手間かけさせて悪かったね」


「いやなに」



 強い日差しを受けて、ふぅ、とロデリックは汗を拭う。農夫の言った通り、畑の作物は年々元気をなくしているように見える。


 一方で、子供らは今日も元気に遊んでいる。

 何人かが集まって、木の棒を振り回してはしゃいでいる。今朝方会ったあの真面目そうな少年もいる。


 微笑ましく眺めていたロデリックだが、彼らが叩いている薪のようなものを見てぎょっとした。


 人の顔が描いてあったからだ。



「これこれ、何をしている」


「ロディ爺ちゃん。邪神をやっつけてるんだよ」


「こいつのせいでみんな苦しんでるんだ! 死ねっ!」


 ロデリックは、慌てて大柄な少年の振り上げた棒を掴んだ。


「待て。そんな暴力的なのはいかん」


「どうして? こいつは悪い奴だよ」


 大柄な少年は不服そうにロデリックを見上げる。


「そうだとしても、だ。考えてみなさい。ディーエ神がノクシア神に勝ったのに、どうしてまだ夜が来るんだと思う?」


「まだ邪神が生きてるからだよ。完全にやっつければみんな幸せになるんだ」


「そうじゃない。ディーエ様は慈悲深かったんだよ。たとえ悪いことをしてしまっても、ある程度懲らしめたらそこで許そうとお考えになったのじゃないかな。君たちだって、悪さをしてしまうときはあるだろう」


 思い当たる節があるのだろう、素直な子供たちはうつむいている。


「そういうとき、お父さんやお母さんや周りの人は、君たちを棒で叩いたりしないはずだ。君たちもディーエ様のように、優しい心を持つんだよ」


「……はーい」



  ◇



 午後の8時だというのに、太陽はまだ煌々と輝いている。


 この老体は長い昼にまだついていかれぬようで、カーテンを閉めて日の光を拒絶した。


 一人暮らしで誰も家人がいないにもかかわらず、ロデリックは周りを気にしながらあるものを箪笥から取り出す。


 1体の、小さな石像。それをテーブルの上に恭しく配置する。



 夜の神、ノクシア。



 邪神と成り果て、人々の信仰から排除された哀れな神。しかしロデリックは、そうなる前からノクシア神への深い信仰心を持っていた。


 華やかで騒がしい活力漲る昼間の後の――静かで落ち着いた夜の時間が、好きだった。


「ノクシア様……我らの非礼をお許しください。我らを魔の巣食う闇よりお守りください」


 膝をつき、手を合わせ、目を閉じて、弱々しくも美しく高貴なその石像に祈りを捧げる。



 かつてノクシアは、夜の魔物を退ける守護神だった。今では魔物をけしかける邪神として扱われている。


 かねてより、魔物と戦う騎士として、頼るべきは守護神としての夜の神だった。それは今も変わらない。


 しかし、それが間違いで――凶作や魔物の増加が邪神を崇める自分のせいだとしたら……。ロデリックの心は揺らいでいた。自分はこの村にいるべきではないのかもしれない、とも。



 ああ、ノクシア様が顕現されて、真実を告げてくだされば……。


 そんな荒唐無稽な願いは、ロデリックが眠りに落ちた夜更けに成就することとなる。



『聞こえますか、ロデリック。――私はノクシア』



 ノクシア神がロデリックの夢の中に現れ、姿こそ見えないものの、美しい声で語りかけてくれたのだ。


『敬虔なる信徒ロデリック、あなたは邪神と呼ばれた私を毎日のように拝んでくださいましたね。その忠義に報いるため、あなたの願いを叶えてあげましょう』


 靄がかかっていた頭が回転を始めるが、状況は理解できず、ロデリックはただただ戸惑うだけだ。


「なっ……。お、お待ちくだされ。あなた様は本当にノクシア様なのですか。願いなど、唐突に仰られても……」


『本当です――と言っても何の証明にもなりませんね。あなたの願いを叶えることで、その証拠といたしましょう。あなたの望むものは何ですか?』


「私は……私は、妻にも先立たれ、子供もおらず、後は死にゆく身でございます。望みといえば、この村の者たちがずっと幸せに暮らしてくれること、それ以外にはございませぬ」


『それは……できません』


「な、なぜ!?」


 まさか断られるとは思っていなかったロデリックは、思わず声を上げた。


『私が願いを叶えられるのは、私への信仰を持つ者だけだからです』


 至極シンプルな理由だった。神は信じる者しか救えぬらしい。


「では、近頃の凶作や魔物の害なども……」


『それは私の力及ばぬものです。人々の私への信仰が薄れたことで、もたらされた現象なのですから』


「やはり、あなた様は守護神でいらっしゃったのですね」


『あなたがたの言うところでは、そうなのでしょう。ですが、今の私の力では、あなた個人の願いを叶えることしかできません』


 少なくとも、ノクシアを拝んでいたことは間違いではなかったようで、ロデリックはひとまず安堵した。だが、人々に邪神だという認識を改めさせることを願うのは、今までの話からすると不可能なようだ。


 さて、こんな老いぼれが今更求めるものといえば――



「では、私は――子供を所望いたします」


『それは……自分の子供が欲しい、ということですか』


「ええ。愛する妻はだいぶ前に死別してしまいましたが、子宝には恵まれず……。願わくば、子を育ててみたかったとかねてより思っておりました」


『わかりました。では、そのように』



 ロデリックがその夢から覚めたのは、家の戸をこんこんと叩く小さな音が聞こえてからだった。



  ◇



 客を招いてともに食卓を囲むのは、いつ以来だろうか。


 招いた、というのは語弊がある。「突然家を訪れたどこの誰ともわからぬみすぼらしい子供に、ひとまず食事を提供している」というのが正しい。


 ロデリックの頭に、今朝の夢のことがちらつく。


 子供を所望する、と告げたが、こんなにも早く願いが叶うものだろうか。そもそもあの夢が真実であるという確証はどこにもない。



 7歳前後といったところか。短いボサボサの髪でぼろを纏っているものの、くりくりした瞳が可愛らしい幼い女の子。


 急ごしらえのスープとパンに必死に齧りついており、よほど空腹だったのだろうと伺える。


 食事がひと段落したところで、ロデリックは少女に話しかける。



「君は、どこから来たんだね」


「わかんない」


「お父さんやお母さんは」


「わかんない」


「……名前はなんというんだい」


「わかんない」



 その後あらゆる質問をぶつけてみたが、少女はすべて同様の返答をし、ロデリックの頭を悩ませた。


 彼女には行くあても帰る場所も頼れる人もないようで、複雑な事情があるのか、言葉で説明できないだけなのか、本当に神がロデリックの願いを叶えるために遣わした子なのか、見当がつかなかった。



「わかった。君はしばらくワシが預かろう」


「やったぁ!」


 見ず知らずの他人に対する抵抗感のようなものはないらしい。事情のわからぬ身の上ながら、素直で活発な性格のようだ。


「だが、名前がわからんのでは不便だな。ワシが仮の呼び名をつけよう。うむ……『ノキ』というのはどうかな」


 本当は「ノクシア」と名付けたかったが、周囲の目もあるだろうと神の名をもじったものを考案した。


「ボクの名前、ノキ? いいよ! 覚えやすい」


「それはよかった。よろしく頼むよ、ノキ」


「うん。じゃあ、そっちはなんて呼べばいい? 『お父さん』? 『パパ』? それとも『ご主人様』?」


「最後のだけはやめてくれ! 普通に、『ロデリック』とか『お爺ちゃん』で構わんよ」


「縮めて『ロ爺』ってのはどう?」


「縮めすぎじゃないか」



 人見知りをしないノキはあっという間に懐き、この子は本当にノクシア神に遣わされた子なのではないかと、ロデリックは本気で考え始めていた。



  ◇



 ノキは持ち前の人懐っこさで、瞬く間に村人たちの輪に馴染んでいった。


 大人たちは娘や孫のように可愛がり、子供たちは同い年くらいの友達ができたと喜び、特に男の子の何人かは、身綺麗にしてやったその容姿に心を奪われているようだった。



 一躍人気者となったノキを、ロデリックは遠目に見守りつつ、隣の若き神官に静かに話しかける。


「あの子は神がワシに与えてくださった贈り物なのではないかと思うのだが、どうかね」


「ロデリックさんは信心深くていらっしゃいますからね。しかし、そういう方にこそ、邪は寄って来るものでもあります」


 神官はその話に懐疑的なようだった。


「邪神の手口として知られているのが、『願いを叶える』と言って誘惑し、代償にその魂を差し出させるというものです」


「ほう」


 まさに昨夜の夢の内容とほとんど一致していて、ロデリックは少し身構える。


「その魂は邪神の奴隷となり、二度とこの世に戻って来れなくなるとか。願いというのも、実際はその人の望む形で叶えられることはないといいます」


 ならばノクシア様は邪神ではなかろうな、と改めて確信する。ノキが来てくれたというだけで、自分の願いはほとんど望み通り叶ったようなものだからだ。



「なんにせよ、あの子には関係のないこと。それで――神官の君に頼みがある」


「は。何でございましょう」


「ワシももう歳だ。ずっとあの子の面倒を見られるわけではない。時が来たら、君の伝手であの子を孤児院に紹介してほしい」


「……承知しました。子供は神の子、彼女が幸せに暮らせる場所を探しましょう」


「ありがとう」



 子供など望むべきではなかったかもしれんな、とロデリックは少し後悔する。どうしたって、自分はノキよりも早くこの世を去らねばならない。そんな別れを経験させるのは、酷であったか……。


 然らばせめて、ノキにいろいろなことを教えてあげよう。自分がいなくとも、ある程度独力で生きていけるように――



 だが、その考えは甘かった。


 ノキには本当に、何をやらせてもうまくいかなかった。


 裁縫をさせれば糸がぐしゃぐしゃに絡まった物体を編み出し、料理をさせれば食材を消し炭にし、ペンを持たせれば字とも絵ともつかない意味不明の図形を描いた。


 華奢な身体では無理もないが体力もなく、農作業にもすぐに音を上げるので、ロデリックは得意の剣の稽古をつけることを諦めた。魔法も、子供でも使えるような簡単な術すら扱えない。


 読み書きもできないので学もなく、一般常識すら欠落していた。教えようにも物覚えも悪く、昨日今日で与えた知識がすぐに飛んでいってしまった。



「お爺……なんというか、ごめんなさい」


 ノキは今更他人行儀に頭を下げている。


「いや、いいよ。ゆっくりやろう」


 そうは言ったものの、ロデリックにそんな余裕が残されているかどうか。その焦りがノキにも伝わったのか、小さな顔に切実の色が灯る。


「あの、夜! ボク、夜にがんばるから」


「ならん。ただでさえ夜は短いのだ。しっかり睡眠を取らなければ」


「長いお昼に寝て、夜起きてちゃダメかな」


「ダメだ。生活のリズムが狂ってしまう」


「むぅー……」


 頬を膨らましてすねているノキに、ロデリックは愛しさがこみ上げる。

 そうだ。何も焦る必要ないじゃないか。


「心配するな、ノキ。お前には立派な才能がある」


「何? この可愛らしさ?」


「じ、自分で言うか。まあ、それも含めて……お前はよく人に好かれる。明るく、素直で、優しい子だ。何より、ワシもお前を愛しているからね」


「……お爺、よくそんな恥ずかしいこと言えるね」


「この歳で恐れる恥など、ありゃせんからな」


 顔を赤くして視線を反らしていたノキが、こちらをちらりと見て、ぷっと噴き出した。

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