第31話 頭脳対決

 日が暮れるまでにはまだ早かったが、臥神は、霞寂と共にすでにサパタの棚田に来ていて、準備を始めていた。

 臥神が、初夏の暑さを凌ぐように、馬車の中でゆっくりと羽扇うせんを仰ぎながら、霞寂カジャクに指示を出すと、霞寂は、連れてきた数名の男たちに指示して、運んできた散水車を荷馬車から降ろし、棚田のわきに配置し始めた。

 「おお、臥神殿は、もう来ておったのか」

 数名の従者を引き連れて、馬でやって来たゴルドバ将軍が、霞寂や馬車の中の臥神に呼びかけるように言った。

 日が沈んで月が出るまでにはまだ時間があったが、純白の雲がゆっくりと漂う澄んだ青空が映しだされた棚田の美しい光景を眺めて楽しもうと、ゴルドバ将軍も早めにやって来たのである。

 「見てくだされ、この目の前に広がる棚田を。美しいではありませんか。わしは、このような美しい景色を見ると、軍を退役して、サパタのような田舎町で隠遁生活をするのも悪くはないな、と考えてしまうのですよ」

 霞寂の近くに馬を歩み寄せながら、ゴルドバ将軍は、満悦の表情を浮かべた。

 「棚田は美土奴国にもありますが、この町の棚田のように、田の水面みなもに映る空の青と、崖下に広がる海の青が一つになった光景を見るのは初めてです。まるで、争いなどない平和な天上の別世界にでもいるかのようですな」

 霞寂も、ゴルドバ将軍のように、眼下に広がる美しい光景に目を奪われて、これから行う臥神とラモンとの頭脳対決のことなど忘れて、心が洗われるような気持ちでしばらく眺めていた。

 「ところで、臥神殿は、わしの出した二つの課題の答えをもう用意できたのですかな」

 ゴルドバ将軍は、沈黙の恍惚こうこつの境地をしばらくの間楽しんだ後、同じ境地を心の中で味わっている霞寂に申し訳ないとは思いながらも、馬から下りて尋ねた。

 「はい。すでに準備は整いました。後は、ラモン殿がおでになるのを待つのみです」

 「おお、すでに準備できておるのですか。それは楽しみだのう」

 ゴルドバ将軍は、ラモンももう来るのではないかと思い、辺りを見廻したが、まだ来る気配はなかった。

 「ラモンが来るまで、もうしばらく、この風景を楽しむとしますかのう」

 ゴルドバ将軍は、棚田の脇のあぜ道に腰を下ろして、目の前の風景を堪能し始めた。

 そして、あぜ道の斜面に寝そべるように背中を地面に下ろして脚を組み、想像の世界を楽しむかのように、しばらく目をつむって沈黙を続けた。

 初夏の暑さを運び去ってくれる心地よい海風が、これまでの将軍のいくさの疲れを癒そうとするかのように、将軍を心地よい眠りへといざなっていった。


 日暮れが近くなり始めた頃、ラモンが、やや疲れたような面持ちで、一人の部下と共に、馬に乗って棚田にやって来た。

 馬の足音に目を覚ましたゴルドバ将軍は、立ち上がってラモンが来るのを待つと、臥神も馬車から降りて、馬車の前で立ったまま、羽扇うせんあおいで、ラモンとの知恵比べが始まるのを待った。

 「ようやく参ったか、ラモン。遅かったのう。待ちかねたぞ」

 ゴルドバ将軍は、ラモンのやや暗い影を落としたような顔に気付いて言葉を加えた。

 「どうした、ラモン、その顔は。フリージアの捕獲にてこずって、まさか捕獲できなかったと申すのではあるまいな」

 「いえ、そのようなことはありません、閣下。しかと雄と雌の二羽を生け捕って参りました」

 ラモンは、早速部下に命じて、捕獲したフリージアの入った鳥かごを、将軍の前に差し出した。鳥かごの中には、全身の白いつばめが二羽入っていた。まさに、フリージアだった。

 「おお、見事だ、ラモン」

 ゴルドバ将軍は、ラモンの差し出した鳥かごを手に取り、注意深く観察した。

 「で、雄と雌の区別はどうするのだ?」

 「はい。フリージアの雄は全身の羽が真っ白なのですが、雌は尾に若干の黒い羽毛が混じっています」

 ラモンの言うとおり、鳥かごの中の一羽は、尾の羽毛が若干黒くなっていた。

 「では、臥神殿。そなたが捕獲したフリージアもお見せ願えますかな」

 すると、霞寂が、荷馬車の近くで控えていた数名の男たちに命じて、鳥かごを運ばせた。

 「なんと、捕獲したのは二羽だけではないのですか」

 ゴルドバ将軍は、男たちがいくつもの鳥かごを運んでくる様子を見て驚いた。

 「はい。数えてはおりませんが、恐らくかごの中の鳥は、五十羽は下らないでしょう」

 霞寂が答えた。

 「五十羽だと!?馬鹿な!似たような鳥を捕まえてきただけではないのか!?」

 ラモンは、霞寂の言葉が信じられずに、鳥かごの一つを奪い取って、中を確認し始めた。

 本物のフリージアだった。

 ラモンは、他のかごも次々に手にとって、中の鳥を確認したが、すべてフリージアだった。しかも、それぞれのかごの中には、雄と雌のつがいが何組も入っていた。

 「まずは、一つ目の勝負はあったな」

 ゴルドバ将軍が、ラモンの悔しそうな顔に目を向けて言った。

 「閣下、これは引き分けではありませんか?数が多ければ勝ちという決まりなど、おっしゃってはおりませんでした。閣下は、ただ、雄と雌のそれぞれ一羽ずつを捕獲するようにおっしゃったではありませんか。それで、私は、こうして雄と雌の二羽を捕獲して参ったのです。もし数の多さを競うのでしたら、私とて、もっと多くのフリージアを捕獲してきたはずです」

 ラモンは、必死に訴えた。

 「なるほど。お主の言うことはもっともであるな。確かに、わしはそのように言った。二羽以上捕獲せよとは言わなかったのだから、数の多さで勝敗を決めてしまっては公平とは言えぬな」

 ラモンは、ゴルドバ将軍の言葉を聞いて安堵した。

 すると、臥神が、羽扇うせんを鳥かごの方に向けて、無言で霞寂に何かを命じた。

 霞寂は、臥神が何を言いたいのかすでに分かっているかのように、ゴルドバ将軍に、ラモンのフリージアの確認の許可を請い、注意深くフリージアの羽を確認し始めた。

 「まさか、雄の尾の羽を墨で塗って雌に見せかけているなどと申さんでくだされよ。そんな卑怯な真似など、私がするわけなどあるまい」

 ラモンは、何かに怯えるような声を隠そうとするような態度で、声をやや荒らげて言った。

 「そのようなことを確認しているのではございません」

 霞寂は、ラモンのことは気にせず、冷静にゆっくりとフリージアの確認を続けた。

 「将軍様、この雄の右羽のやや下の辺りと、雌の腹部の辺りをご覧ください」

 霞寂は、鳥かごをゴルドバ将軍に渡した。

 ゴルドバ将軍は、霞寂の言うフリージアの体の部位に目を向けた。

 「分かりにくいかもしれませんので、目を凝らして注意してご覧ください」

 霞寂が何を言おうとしているのか、不思議そうにフリージアの鳥かごを目の高さまで持ち上げて観察するゴルドバ将軍に、霞寂は、ゆっくりとした口調で言った。

 「うっすらとではございますが、今申し上げた部位に、血痕があるのがお分かり頂けますか?」

 確かに、霞寂の言うとおり、フリージアの羽毛に、うっすらと赤い染みのようなものが、ゴルドバ将軍の目にも確認できた。

 「それは、血痕を拭き取った跡でございます」

 「血痕を拭き取った跡だと?」

 「はい。それは、毒矢で傷を負ったときに流れた血の跡です。もし、お差し支えないようでしたら、鳥かごを開けて、ご自身の目で、羽毛の下に傷がないかどうかをご確認ください」

 ゴルドバ将軍は、ラモンの連れてきた部下に、鳥かごの中のフリージアを出すように命じた。

 部下は、ためらうようにラモンに視線を向けたが、ラモンは言葉を失っていた。

 「どうした?わしの命令が聞けぬのか?」

 ゴルドバ将軍は、戸惑うラモンの部下に、再度、鳥かごからフリージアを出すように命じた。

 かごから出されたフリージアは、警戒心の強い鳥だけあって、とても怯えているようだったが、全身を人間の手で掴まれた状態では、どうすることもできないと観念したのか、抵抗せずに静かになった。

 ゴルドバ将軍は、フリージアを霞寂に渡すように命じ、霞寂は、受け取ったフリージアの羽毛を少しずつゆっくりと逆立てるようにして、慎重に羽毛の下の傷の有無を確認した。

 そして、見つけた傷を、ゴルドバ将軍に示すようにして見せると、将軍は、ラモンに厳しい目を向けた。

 「この傷は何だ、ラモン」

 ラモンは、唇を噛んで黙ったまま、将軍の目を避けるように、うつむいてしまった。

 「この傷の匂いをご確認ください」

 霞寂は、フリージアを逃がさないように気を付けながら、手に持ったフリージアをゴルドバ将軍の顔の近くまで持ち上げた。

 ゴルドバ将軍は、言われたとおりに匂いを嗅いだ。

 「かすかではありますが、ヒソカズラの毒の匂いがしませんか?」

 「確かに、言われてみると、その匂いがするのう」

ゴルドバ将軍は、いくさのときにも使用することのあるヒソカズラの毒の匂いを感じ取った。

 「ご存知のように、ヒソカズラの毒は、死に至るような毒ではなく、神経毒です。恐らく、フリージアの体をわずかに傷つける程度に、ヒソカズラの毒を付けた矢を吹き矢で放って、フリージアを麻痺させてつかまえ、その後、傷から出た血を分からないように拭き取ったのでしょう」

 「そういうことであったか」

 ゴルドバ将軍は、将軍から顔をそむけているラモンの悪知恵は理解できたが、臥神がどのようにして、五十羽以上ものフリージアを捕獲したのかが気になった。

 「臥神殿、もしよろしければ、どうやってそれほどの数のフリージアを生きたまま無傷むきずで捕獲できたのか、ご説明願えるか」

 ゴルドバ将軍が、臥神に直接尋ねると、ラモンもそれを知りたいという顔で、臥神に目を向けた。

 「簡単なことだ。ブルー・ランベリーを使ったのだ」

 「ブルー・ランベリー?」

 「さよう。ブルー・ランベリーは、熟し過ぎたものしょくすると、体内で急速に発酵して、酒に強い大柄な男でも酔いつぶれるほどの強い酒になることは知っておろう。ブルー・ランベリーは、初夏にフリージアが飛来する涼しいトラキアの山岳地域では実をつけないが、低地の暖かい地域では収穫することが出来る。そのブルー・ランベリーを過度に熟成させたものを調整して、フリージアに与えたのだ」

 ゴルドバ将軍は、またしても、臥神の説明に感銘を受け、一回目の対決の勝敗はあったなと、ラモンに視線を移したが、ラモンは、食い下がるように言った。

 「閣下、次の月を増やす知恵比べだけで、勝敗を決めさせてくださいませんか」

 ゴルドバ将軍は、ラモンが何を言い出すのかと驚いたが、ラモンは、必死に負け惜しみの主張を始めた。

 「閣下は、フリージアを捕獲できたくらいでは、全軍を挙げて攻めてくるグランダル軍を撃退するのは難しいと仰り、不可能を可能にすることが出来るようでなければ、トラキアを救うことは出来ないとも仰いました。でしたら、ぜひとも、次の対決だけで、勝敗を決めさせてください」

 ゴルドバ将軍は、ラモンの必死の懇願に、どう応えるべきかと考え、臥神に目を向けた。

 「私は一向に構わぬが」

 臥神が一言答えると、ゴルドバ将軍はラモンの要請を受け入れた。

 「よかろう。お主の願いどおり、次の対決だけで勝敗を決めるとしよう」

 すると、ラモンは、表情を一変させて、にやりと笑みを浮かべた。

 ゴルドバ将軍は、日が沈み始めた空に目を向けた。昨晩と同じように、丸い月が東の空に昇り始めていた。

 ゴルドバ将軍が従者に酒の用意をするように命じると、酒の注がれたさかずきが全員に振舞われた。

 「では、ラモン、見せてもらえるかのう、とおの月を」

 ラモンは、暗くなり始めた空に輝き始めた月と棚田の水面を交互に眺め、月が棚田の水面に映り込むのを待った。

 「どうしたのだ?早く月を増やして見せぬか」

 「しばし、お待ちください」

 ラモンは、根気よく時間が過ぎるのを待った。

 月はゆっくりと東の空を昇り、徐々に棚田の水面に映り始めた。

 「いつまで待たせるのだ?」

 ゴルドバ将軍は、しびれを切らしたようにラモンに尋ねた。

 「もう少しです」

 ラモンは、月が完全に棚田の水面に映り込むのを確認すると、勝利はもらったと確信した。

 しかし、空に輝く月は、一枚の田の水面に映り込んでいるだけで、他の田の水面には映ってはいなかった。その後もしばらく時間が過ぎるのを待ちながら、棚田を見つめていたが、水面の月はゆっくりと移動するだけで、それぞれの田の水面に同時に映り込むことはなかった。

 ラモンは、またもや言葉を失って、唇を噛んだまま黙り込んでしまった。

 「先程までの自信はどこへ行ったのだ?月を増やす自信があって、わざわざ棚田まで足を運ばせたのであろう。どうしたのだ?出来ぬのか?」

 ラモンにはもはや打つ手はなかった。

 「では、次は臥神殿の番とするとしよう。臥神殿、お願いできますかな」

 ゴルドバ将軍が臥神に目を向けると、臥神は、持っていた羽扇うせんを高々と振り上げた。

 すると、散水車のわきで待機していた男たちが、一斉に散水車の把手とってを回し始めた。

 散水車から、勢いよく液体が噴射され、霧状になって棚田に降り注がれた。

 「何を撒いているのですかな」

 ゴルドバ将軍が、隣にいた霞寂に尋ねた。

 「油です」

 「油?」

 「はい。油にツユシグレの汁を混ぜたものです。ツユシグレの汁は、粘性が高く、油との親和性も高いのです。そのようなツユシグレの汁を油に混ぜると、油の表面張力が増すことが知られています。そして、その油を霧状にして撒くと、水面に落ちた油滴は、通常よりも大きく丸みを帯びた状態になるのです」

 「すると、どうなるのですかな」

 ゴルドバ将軍は、説明の続きを求めた。

 「棚田をご覧ください」

 ゴルドバ将軍が棚田に視線を移すと、その幻想的な光景のあまりの美しさに息を呑んだ。

 棚田の水面に浮かぶ油滴に反射する月の光が、数千、いや数万を超えるほどの沢山の小さな月のように輝きを放っていたのである。

 それはまるで、満天の夜空に輝く星々が、あるいは夜の棚田に現れた無数の光の妖精たちが、ほのかに輝く美しい光を放ちながら、アメンボのように水面を優雅に滑って戯れているかのようだった。

 「見事だ、臥神殿」

 ゴルドバ将軍は、さかずきを高々と掲げて、臥神の勝利を祝して乾杯した。

 「何ということをするのだ!これから稲が生長する棚田に油を撒くなぞ、サパタの農民たちを飢え死にさせる行為だ!」

 ラモンが突然、憤慨するような声で、心にもないことを、わざとらしく叫んだ。

 「案ずることはない。使用した油は、特殊な油で、二、三日もすれば完全に分解されてしまうだろう」

 臥神は、ラモンがどのように反論してくるかなどすべてお見通しであるかのように、冷静な姿勢を崩さずに、静かな口調で言った。

 ゴルドバ将軍が二人に与えた頭脳対決は、完全に臥神の勝利に終わったのであった。

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