第23話 人工降雨
「ヌークルの変異体?」
「はい。ヌークルの変異体は、美土奴国に広がるランドルの森の中で暮らす
「では、どこに存在しているのですか?」
「それは、糞樽族の集落の周辺に生息している
「珠喪羅?」
エドは、ランドルの森に生息する動植物については、数多くの種類を知っているつもりだったが、珠喪羅という動物は見たことも聞いたこともなかった。
「ご存知ないのも無理はありません。糞樽族が暮らす集落は、ランドルの森の中の辺境の地にあり、珠喪羅はその周辺の地域にしか生息していないのです。残念ながら、私も珠喪羅を見たことはありませんが、
「その珠喪羅という動物が、姫虯を食べ、その姫虯の体内にいたヌークルが、珠喪羅の体内で、何らかの理由で変異体になったということですか?」
「その通りです。珠喪羅のある一個体から、そのヌークルの変異体は生まれたそうです。そして、その変異体は、その珠喪羅が排泄した糞の中にも含まれています」
霞寂の話が、ヌークルから、エドの知らない四足動物にまで発展すると、生物学者としての好奇心がさらに湧き上がり、エドは興奮しながら尋ねた。
「媸糢奴や臥神殿は、その珠喪羅という動物を見たことがあるのですか?」
「はい。媸糢奴様は、かつて、実際に糞樽族の暮らす集落に足をお運びになり、その珠喪羅の糞を持ち帰ったのです。そして、臥神先生も、ご自身の研究を終えた後、数か月前に集落を訪ねて、その糞を持ち帰えられましたので、お二方とも珠喪羅をご覧になったことがあると思います」
「その集落へは簡単に行くことができるのですか?」
「いえ、糞樽族の集落がどこにあるのかは、美土奴国のごく一部の人間を除いて、誰も知りません」
「そのごく一部の人間というのが、媸糢奴と臥神殿なのですか?」
「はい。それ以外の誰にも知られぬように
「古くから伝わる叡智?」
「はい。糞樽族は、森の中で自然と共に暮らし、自然を保護すると共に、自然から生活の糧となる様々なものを頂きながら暮らしてきました。それは、食糧という意味だけではありません。生活を豊かにするための様々な知恵なのだそうです。糞樽族が、そのような名で呼ばれるのは、珠喪羅の
「モルスタンが、その動物の糞から作れるのですか?モルスタンと言えば、未だかつて発見されていない、科学者たちの間で存在が予言されていた未知の気体ではないですか!」
「そうです。彼らは、非常に熱効率のよい
「空を、ですか?まさか、鳥でもないのに、そのようなことが本当に出来るのですか?」
エドは、霞寂の口から、驚くようなことが次々に語られ、半ば信じられないというような顔をしながら尋ねた。
「詳しい仕組みは私には分かりませんが、空を飛ぶ乗り物に珠烷を利用するのです。その乗り物で時々上空まで昇って行き、森を
「そんな乗り物があるのですか。人間が空を飛ぶ技術をすでに得ていたなんて…」
エドは、驚くと共に、落胆を隠すことが出来なかった。
これまでエドは、鳥のように空を飛べたらどんなに良いだろうかと考え、鳥の羽を模倣したものをいくつも作っては、空を飛ぼうと試みてきたことがあった。しかし、それらはすべて失敗に終わり、一度、命を落としかねないような大怪我をしてからというもの、それ以来、安易に実験を行うのを止めてしまったのであったが、今でもその夢は
「私も糞樽族に会わせていただけませんか?」
エドが興奮した声で言った。
「それは出来ません。先程も申しましたように、糞樽族の集落の場所は、美土奴国の皇族と媸糢奴様、そして臥神先生しかご存知ないのです」
「では、臥神殿に場所を教えてくださるようにお頼みくださいませんか?」
「それも出来ません」
「どうしてですか?」
「糞樽族は、基本的に、彼らの認めた者以外の外部の人間との接触を好まないからです」
「なぜですか?」
「彼らは、部族に代々伝わる古代の
「それはどういうことですか?他の人間が、その叡智を戦争に応用するということですか?」
「さよう。しかし、残念なことに、その叡智の一部はすでに外部に漏れてしまったようです。糞樽族の民は、近いうちに、世界を破滅に導くような
「珠喪羅の糞を持ち去っただけで、どのようにそれを戦争に利用できるというのですか?」
霞寂は、すぐには答えなかった。そこで、エドは、仕方なく考察を始めた。
「少量の糞を持ち去ったところで、珠喪羅がいなければ、それ以上の糞は手に入れることは出来ない。少量の糞しかなければ、少量のモルスタンしか作れないはず…」
エドは、そう呟きながらも、霞寂に答えを求めるかのように視線を向けたが、霞寂はまだ何も言わずにエドを見つめていた。エドがすでに答えを知っていると分かっていたからである。
「珠喪羅の糞に含まれているヌークルの変異体が糞を発酵させてモルスタンを作るというのであれば、もしや、ヌークルの変異体を何らかの方法で増殖させて、珠喪羅の糞以外の餌を与えて、ヌークルの変異体にモルスタンを作らせるというのですか?」
「その通りです」
霞寂がようやく口を開いた。
「我々は、細菌を増やす方法を培養と呼んでいますが、ヌークルの変異体を培養するのは簡単に出来るのです。ヌークルの変異体は、有機物を含んだ水の中では、ほぼ無限といってよいほど爆発的に増殖していきます。つまり、河川や湖、海、あるいは水分を含んだ土の中で、限りなく増えていくのです。そのため、糞樽族の民は、発見したヌークルの変異体が、集落の外で増殖していかないように、厳重に管理していました」
「しかし、水の中で簡単に増殖してしまうのであれば、湿気の多いランドルの森の中では、簡単に集落の外に広がってしまうのではありませんか?」
「実は、ヌークルやヌークルの変異体は、高熱や乾燥にとても弱いのです。そこで、糞樽の民は、飼育していた、ヌークルの変異体を体内に宿した珠喪羅を、集落の外には出さず、その珠喪羅の糞は漏らさず回収し、樽の中に入れて保管してきました。そして、珠喪羅が糞をした場所は、火であぶり、ヌークルの変異体が集落の外に広がるのを防いでいたのです。しかし、ヌークルの変異体によって
「もしや、ロイが言っていた、アマラ神殿から港へと通ずる地下
「そうかもしれません」
「いや、待ってください」エドは、突然自分の言ったことの矛盾に気が付いた。「グランダル軍が空を飛行する乗り物を手に入れたのだとしたら、どうしてわざわざ港門を破って海軍の兵を上陸させようとするのでしょうか。初めから、その乗り物で兵士を上陸させれば済むことではありませんか」
エドは、腕を組んで考え込んだ。
「それは、グランダル軍がまだその乗り物の量産に成功していない証拠でしょう」
霞寂が落ち着いた声で答えた。
「そうか、そうですね。だとすると、グランダル軍がその乗り物を量産して全軍を挙げて攻めてくる前に、トラキアは対抗手段を講じなければならない、ということですね」
「さよう。そのために、臥神先生がいらっしゃったのです」
「臥神殿は、アマラ神殿に攻め込んできているグランダル軍を、本当に一人でせん滅することなど出来るのですか?」
「まだ信じられませぬかな?」
「はい。とても信じられません」
エドには霞寂の言うことがまだ信じられなかった。
「これから私もアマラ神殿に向かいますが、ご一緒に行って、臥神先生がどのようにグランダル軍を一掃するのか、ご自身の目で確認されてはいかがですかな?」
「いえ、そうしたいところですが、私はここで子供たちの面倒をみなければなりません。万が一グランダルの兵たちがここを襲ってくるようなことがあれば、子供たちを安全な場所へ避難させなければなりませんので」
「そうですか。では、私はこれで失礼させていただきます」
霞寂は、学舎の戸口から外に出ると、乗って来た馬車の方へと歩いていった。
「霞寂殿」
エドは、突然、忘れていたことを思い出したように、霞寂を追いかけていった。
「まだ疑問に思ったことがあるので教えてください」
馬車に乗り込んだ霞寂が振り向いた。
「手短にお願いできますかな」
「はい。あなたは先程、グランダル国は、食糧問題を解決するために、次々に周辺国を侵略し、今度はトラキアまでも攻め落とそうとしていると仰いました。ですが、グランダルの科学者がヌークルの変異体を手に入れたのでしたら、なぜその変異体を培養して国民に配らないのですか?そうすれば、国民はどこにでもある土を食べて、少なくとも飢えを凌ぐことが出来るではありませんか。何も全軍を挙げての戦争を引き起こさなくてもよいような気がするのですが」
エドは、食糧問題が戦争の引き金になっているのであれば、食糧が確保さえ出来れば、戦争を回避できるのではないか、自分は生物学者として何かが出来るのではないかと考え、真剣な思いで尋ねた。
「彼らにとっては、食とは生きるためだけのものではないのです」
霞寂は、少しあきれたような口調で静かに答えた。
「どういうことですか?」
「あなたは、生物の研究ばかりしてきたようですので、忘れてしまったのかもしれませんね。先程、子供たちがあなたから何を奪っていき、その後奪い合いを始めたか覚えていますか?」
「はい。トラキア城の食事が入った籠です」
エドは、霞寂が何を言おうとしているのか考えながら答えた。
「子供たちは、学舎の食事が用意できているというのに、それよりも籠の中の食事の方を選びました。それはなぜですかな?」
「もちろん、トラキア城の食事の方がおいしいからです」
そう答えてすぐに、エドは、はっと気が付いたといった顔をした。
「そう。そういうことです」
霞寂は、あたかも子供に教える教師のように、優しい口調で言った。
「動物たちは生きるために食べるのかもしれません。しかし、王家や貴族などの金持ちたちは、生きるためだけに食べるのではないのです。彼らにとって、食とは、楽しむためのものでもあるのです。一度美食の味を知ってしまったら、その習慣を捨てるようなことは容易には出来ないのです」
「しかし、ヌークルの変異体がいったん体内に根付けば、土を食べられるようになるのでしたら、ヌークルの変異体を培養して国民に配れば、少なくとも国家規模の飢えは解決出来るではありませんか。それから、国民全員が普通の食事が出来るようにするための作物の栽培方法などを考えても遅くはないのではないでしょうか?国民が死んでしまってからでは遅いではありませんか」
「仮に、国王や貴族たちが、自分たちの食習慣は捨てないが、国民には土を食べさせて飢えを
「それは、ヌークルの変異体が水の中で爆発的に増殖するような生き物だとしても、グランダル国は国土の大半が砂漠化してしまっているから、ということですか?」
「その通りです。国民の多くは、水すらまともに飲むことができない状況なのです」
「では、臥神殿は人々をどのように救おうというのですか?」
霞寂は、やや間をおいてから空を見上げながら答えた。
「雨です」
「雨?」
エドには、霞寂の答えの意味が分からなかった。
「雨にヌークルの変異体を含ませて、グランダル国に降らせればよいのです。人は必ず水を飲みますから、ヌークルを含んだ雨を降らせれば、国民全員にヌークルの変異体が行き渡ります」
エドは、思わず、なるほどと感心したが、まだ納得できなかった。
「ですが、雨を降らせるなんてことが出来るのですか?いくら臥神殿が天才的な賢者だとはいえ、自然まで操ることなど出来ないのではありませんか?」
「いえ、臥神先生でしたら出来るのです」
「まさか、美土奴国お得意の妖術を使うというのですか?」
「いえ、妖術ではありません。
「科学?」
「はい」
霞寂は、出発の合図を待っていた馬車の二頭の馬たちが、待ちきれずに走り出そうとしているのを、手綱を静かに引いて落ち着かせると、改めて説明を始めた。
「あなたは、雨がどのように作られるかをご存知ですかな」
「はい。簡単に言えば、空を漂う雲の中の水分が冷えて雨粒になって落ちてくるのです」
「その通りです。ですが、どのようにして雲が出来るかはご存知ですかな」
「蒸発して気化した水が、上空で冷やされて雲になるのです」
「では、気化した水が雲の粒になるには、何が必要だかご存知ですかな」
「いいえ、知りません」
「雲の粒が出来るには、大気中に浮遊する核となるための微粒子が必要なのです。そして、水蒸気が、その微粒子に凝結することで、雲になるのです。逆に言えば、その微粒子を雲に撒くことが出来れば、雲の粒は成長していき、雲の中で氷の形成が刺激され、雨を降らせることが出来るのです」
「まさか、その微粒子というのが、ヌークルの変異体だと仰るのですか?」
「はい。そのような微粒子になり得る細菌のことを、氷核活性細菌と呼ぶのですが、ヌークルの変異体は氷核活性細菌なのです。臥神先生は、ヌークルの変異体を雲に散布して、グランダル国に雨を降らせる計画なのです」
エドは、霞寂の説明を聞いて、驚愕の念を隠せない思いだった。まさか、そんなことが出来るなどとは到底思えなかったが、それだけ霞寂の説明は科学的に理にかなったものだったのである。
「では、臥神殿も、すでにモルスタンを利用した空を飛行する乗り物を発明されていて、それを使ってヌークルの変異体を大気中に散布するというわけですね」
霞寂は、ようやく納得したエドに微笑みながら頷いた。
「では、もう行かなければなりません」
霞寂が手綱を持ち直して出発しようとすると、エドが再び霞寂を引き止めた。
「霞寂殿、もう一つだけ教えてください」
霞寂は、あきれたような顔でエドの方に向き直り、馬の歩みを止めた。
「申し訳ないが、もう行かなくては」
「お願いです、もう一つだけです」
エドは、必死に霞寂を引きとめて、霞寂の馬車にしがみつきながら、最後の質問をした。
「あなたは、先程、ロイが臥神殿の計画について質問をしたときに、その計画については知らないと仰いました。しかし、今こうして私には説明してくださいました。それはどういうことなのですか?あなたは、ロイには嘘を仰ったのですか?」
「いいえ、嘘は申してはおりません。私が今あなたにお話ししたことは、臥神先生の計画のごく一部に過ぎません。私は、臥神先生の計画の全容は本当に存じていないのですよ。そして、今私があなたにお話ししたことは、あなたでしたら、生物学者として理解できると思ったので、お話ししたのです。ただ、それだけのことです」
「そうでしたか」
エドは、ようやく納得し、一歩下がって馬車から離れた。
「お引止めして申し訳ありませんでした」
エドが頭を下げながら陳謝すると、霞寂も突然思い出したように尋ねた。
「そういえば、忘れるところでしたが、私も一つお聞きしたいことがありました」
「何ですか?」
「あなたが先程お話しされた、ムーロンという博士が出会った異邦人の男というのは、その後どこへ行かれたかご存知ですかな」
「さあ、私は詳しくは知りませんが、ムーロン博士によると、トラキア軍の参謀のラモンという男が突然ムーロン博士の家を訪れ、連れ去ってしまったそうです」
「そうでしたか。では、私はもう御
そう言うと、霞寂は、ゆっくりと馬車を発進させてアマラ神殿に向かって走り去っていった。
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