切望

小野まる。

切望

切望


 男は地獄のような塹壕の中で、赤い赤い夕日を見上げ、タバコに火をつけた。

 男は傭兵だった。端金で言われるまま、あっちの戦争、こっちの戦争と渡り歩いていた。別に戦争が好きな訳ではない。殺すのも殺されるのもできればごめんだ。でも、男の父も祖父も、多分そのもっと前の先祖から、一族代々傭兵だった。だから男は、傭兵以外で生きていく術を知らなかった。人を殺すことでしか生きられない一族など、さっさと滅びるべきだったと思うが、どういう訳かこんな屑が生まれるまで、一族代々繁栄してしまった。

 男に向かってくる相手は、多分傭兵ではない。皆、何かを守るために命を賭して向かってくる。国のため、故郷のため、家族のため、愛する人のため、パンのため。時に銃で、爆撃機で、手榴弾で、ナイフで、石で、素手で。そういう人間達を男は銃で片っぱしから薙ぎ倒す。そうしないと、薙ぎ倒されるのはこちらだからだ。

 初めは「もうやめてくれよ」と、何かに懇願しながら、引き金を引いていた。でも、今はもう何も思わない。そして、今日もこのクソッタレな日を生きて終えようとしている。何人も死んだのに、自分が生きているのは、恐らく自分は神様とやらに嫌われているからだ。


 撤収の合図が鳴った。

「おい。」

 男は、さっきから何やらブツブツ呟いて蹲っている隣の若手に声を掛ける。こいつは最近部隊に入ってきた。恐らく今日初めて銃を握ったはずだ。

 若手は動かない。手を組み、十字を切りながら、一心に何かに祈っている様子だ。男は銃の先で若手をつつく。それでも、何も反応がない。

「おい。」

 男はもう一度呼びかけ、若手の顔に自分の耳を近づける。何を言っているのか気になった。

「天におられる我らの父よ。神よ。主よ。罪深い我を許したまえ。願わくば慈悲を。そうでなければ死を。どうかお導きを。我を許したまえ。アーメン。アーメン。アーメン。」

 若手は目を見開き、自分の額を地面に擦り付けながら、一心に祈っている。

 男は立ち上がった。こいつはダメだ。神様なんかに縋らないと生きていけない奴はこんなところに来るもんじゃない。こんな奴に構うより、自分の飯を取りに行く方が先だ。

「飯の時間だ。もう今日の戦争は終わった。明日の戦争が始まるまで間だがな。」

 初めて、若手がこちらを見た。魚のような目だった。

 若手はまた祈り始めた。

「先行くぞ。」

 阿保なやつだ。なんで、こんなとこに来ちまったのか。

 でも。人を殺して罪悪感を感じられる方が、まだマシだ。男はタバコを地面に放り投げ、自軍のテントへ戻った。


 夜。男は自分が寝泊まりするテントの中で、銃の手入れをしていた。一つ一つ部品を点検しながら、磨いていく。

 男の日常だ。人を殺して、生きていれば飯を食い、銃の手入れをして寝る。
面白くもなんともない人生だ。

 背後で音がした。瞬間、男は振り返る。

 テントの入り口に男がいた。アブドラだった。

 男と同じ時期に部隊に入った男だ。他にも10人くらいらいたと思うが、皆死んでしまった。だから、なんとなくいつも2人で一緒にいる。今回も同じテントで寝泊まりすることになった。所謂「同期」が俺たち2人だけだから、こういう時は自動的に同室にされる。

「遅かったな。」

 男はアブドラに声を掛ける。アブドラは笑いながら、着替え始めた。

「最近舞台に入った若手がいるだろう?あいつ、塹壕の中でイカれちまってな。ずっと、神に祈ってるんだ。哀れだろう。話を聞いてテントまで連れ帰ってきた。おかげで飯を食い損ねた。」

 男は呆れる。だが、アブドラはいつもこうだ。

 浅黒い肌に、190センチはあるだろう恵まれた体格で、一見怖いやつに見えるが、男が人生で会った人間の中で、一番いい奴だ。

「ご苦労なこった。」

 男はアブドラを見ながら、タバコに火をつける。

 アブドラは、タンクトップにズボンになると、十字架と聖書を棚に置き、神に祈り始めた。

「天に居られる我らが神よ。あなたの僕はあなたの慈悲により、今日一日生き延びることができました。願わくば神よ。私の愛する家族をお守り下さい。私に賜れる慈悲を私の愛するものにお与えください。アーメン。」

 いつものことだ。男は呆れてアブドラを見る。神に祈ったって何も起こりゃしない。多分神様とやらは忙しいんだろう。俺たちみたいなドブネズミの祈りを聞いている暇はない。

 アブドラが立ち上がり、十字架を丁寧に片付けた。男はタンクトップから覗くアブドラの逞しい右腕を見る。そこには、肩の始まりから、指の先までびっしりと何やら文字が刺れてある。

「お前。その右腕なんて書いてあるんだ。」

 アブドラとの付き合いは長い。恐らく5年は経つだろう。だが、あまりお互いを詮索しないことが自分たちの暗黙の了解だったから、今まで聞いたことはなかった。だが何故か今日は、口をついて、そんな質問をしてしまった。男は後悔した。アブドラが少しでも怪訝な顔をすれば、すぐに話題を逸らすことにした。

 だが、アブドラは気を悪くした風もなく、笑いながらこちらを見る。

「俺たち民族の言語だ。色々と書いてあるんだが、俺が一番気に入っているのはこの部分だ。」

 アブドラは、右の手の甲を指さす。

「『人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉によって生きるのである』」

「マタイ伝か。」

 男は呟く。アブドラが驚いたようにこちらを見た。

「お前。聖句を知っているのか。」

「母親がな。熱心な信者だったよ。俺もガキの時は絵本代わりに聖書を読まされた。だが、親父が死んでからおかしくなっちまってな。朝も夜も神に祈って、結局衰弱死しちまったよ。馬鹿げた話だ。」

「…そうか。」

 男はアブドラのこういうところを気に入っている。同情の言葉など、必要ない。

 アブドラは寝袋の上に腰掛け、男と同じく銃を磨き始めた。先に一通り手入れの終わった男はタバコの煙をふかしながら、なんとなくアブドラの様子を見ていた。

「お前も神に縋って生きてんのか。」

 アブドラは笑う。

「どうだかな。でも、神が見守って下さっているとは信じているよ。そうでなきゃ、やり切れねぇ。」

 アブドラが手元の銃から顔を上げ、灰色の瞳で男を見る。

「お前はどうなんだ。何に縋って生きているんだ。」

 男は乾いた声を出す。

「俺か?俺は神なんざに縋ったりしねぇ。子供の時に散々神の奇跡の話を読まされたが、俺は神の偉大さとやらが理解できなかった。自分の思い通りにならなけりゃ怒り出す馬鹿な奴だった。イカレた野郎だ。我儘で癇癪持ちのガキだよ。…そんなやつに縋るなら、俺はこいつに縋るね。」

 男は手元のタバコを顔の前で揺らす。

「お前も吸ってみるか。」

 立ち上がり、アブドラの前にタバコを差し出す。アブドラはしばらく戸惑っていたが、男の手元からタバコを受け取り、一気に吸い込んだ。途端に咽せ、大袈裟に咳をしている。男は声を上げて笑った。

「…まずいな。しかも臭い。」

 アブドラが呟く。

「あぁ。まずいんだ。タバコは。だから、気が紛れる。」

「なるほど。」

 アブドラはまた灰色の目をこちらに向ける。

「そんなものに縋って、まずいものを吸わないと生きていけないなんて、お前の人生もロクなもんじゃないな。」

「あぁ。その通りだ。」

 男は笑う。男はアブドラのこういうところを気に入っている。


 次の日もまた、泥沼のような戦争が始まった。

 男には政治も金の流れも何も分からない。自分がなんのために人を殺さなくちゃいけないのかも理解できない。でも、金を貰った分の仕事はする。男に与えられている使命は至極単純だ。男が死ぬまで目の前の敵を撃ち殺すこと。そうすれば、金が手に入る。生まれちまって、死ねないのなら、生きるしかない。生きるのには金がいる。だから、人を殺し続けなくては生きていけない。害虫みたいな人生だ。

 刹那、背後で轟音が鳴り響いた。どうやら、どこかの部隊に爆弾が直撃したらしい。男は不安に駆られる。あの音の方向はアブドラのいる部隊じゃないのか?

何人も死んだ奴を見送ってきた。ここでは、誰かが死ぬことなんて、ありふれた日常の一部だ。でも、アブドラは違う。男にとって、アブドラが死ぬことは「ありふれた日常」ではなく、「絶望の瞬間」だ。


 男は生まれて初めて神に祈る。

(神様とやら。昨日は散々あんたの悪口言って悪かったな。謝るよ。あれは俺の本心で、今でも意見は変わんねぇが、あんた慈悲深いんだろう?クズの悪口くらい許してくれるよな。クズにはあんたの偉大さがわかんねぇんだ。すまねぇな。俺は頭が悪いし学もねぇんだ。

 俺は、アブドラみてぇに祈りの作法もしらねぇが、まぁ聞いてくれ。あのな。俺は死んでもいいよ。いつだって覚悟できてるよ。人をこれだけ殺しまくってんだ。俺が誰かから殺されるのだって、そりゃしょうがねぇよ。でもな。アブドラは違うんだ。アイツは俺とは違うんだよ。

 …あいつは控えめなやつで、アンタにこんなこと言いやしねぇだろうから、代わりに俺がアンタに報告しとくよ。あいつが傭兵やってんのは、幼い妹や弟に金を送るためなんだ。アブドラの国じゃアイツら家族は、酷い目に遭ってんだ。肌が黒いってだけで、まともに学校にも行かせてもらえねぇし、仕事もないんだとよ。哀れな話じゃねぇか。人間の肌の色を分けて作ったアンタにも非があんじゃねぇのか?まぁそいつはいいや。アンタにも事情があったのかもしんねぇし。 

 …アンタ、哀れな奴好きだろう?なんだったかな。自己犠牲とやらも好きだったはずだ。お願いだ。アブドラを助けてやってくれよ。自分の金欲しさに人殺してる俺とは違うんだ。アブドラが死んだら、アイツの家族はどうなるんだよ。アブドラはいつもアンタに祈ってただろう?敬虔な信徒だっただろう?もし、今日アブドラが生きてたら、俺も跪いてアンタに祈るよ。アンタの偉大さを広めるよ。献金だってする。あぁ。そうだ。タバコもやめるよ。なぁ。お願いだよ。お願いだ。頼むよ。)

 男は生まれて初めて誰かのために心から神に祈る。祈りながら、引き金を引く。


 夜が来て、撤収の合図がした瞬間、男は塹壕から這い出し、アブドラが配属されていた部隊の方向へ走り出した。

 そこは、酷い有様だった。土と血に塗れた死体が転がっていた。地面に浮かぶ水溜りは、血で赤く染まっていた。ある者は腕がなく、ある者は下半身が丸ごと吹き飛んでいた。そんな地獄でアブドラを見つけた。アブドラは、右腕と右足が吹き飛び、辛うじて人間の形を保っていた。が、確認しなくともわかる。絶命していた。

 男は、呆然とする。しばらくアブドラを見下ろした後、周囲を見渡す。

 周囲は、とにかく灰色だった。赤い血の色だけが、妙に鮮やかに男の目に飛び込んでくる。重傷を負いながら生きている奴らが、呻いたり、泣いたり、水を欲しがったり、殺してくれと叫んでいた。衛生兵の怒声がする。

「おいっ。そいつはもうダメだ。助からねぇよ。そいつより、この男を運んでやれ。」

「担架と包帯が足りねぇっ!こっちに人を呼んでくれっ。」

「死体置き場に空きはあったか?早くなんとかしねぇと、今度は疫病が流行っちまう。」

 何度だって見た光景だった。もう慣れたはずだった。でも、今はやり切れない。

 男は麻痺した頭で、とにかくアブドラを持ち上げた。大柄な男だったはずなのに、嫌に軽い。

 そのまま自分の部隊のテントまで歩き出した。せめて、死体置き場まで運んでやるつもりだった。そうじゃないと、適当な穴に周りの死体と一緒くたにされて埋められてしまう。そんなのあんまりだと腹の中で呟く。

 自分の部隊までアブドラを運んでいると、隊長に見つかった。

「おい。何している。」

 男は掠れた声で答える。

「アブドラが死んだ。せめて死体置き場まで運んでやりたい。」

「…お前。こいつの銃は?」

 男は隊長の質問の意図を汲み取れない。だが、隊長の眉間に皺が刻まれるのを見て、理解した。アブドラの1人を雇う金より、銃の方が高いのだ。

「次からは銃も拾ってこい。」

 怒鳴れるかと思ったが、男を一瞥しただけで、隊長は立ち去った。


(遣り切れねぇな。)

男は腹の中で、死んでしまったアブドラに話しかける。

 お前、覚えてるか。俺とお前が部隊に入ったばっかりの時だ。俺が隊長のタバコ盗んだのがバレて、殴られて飯抜きにされた時だ。お前はただの同期ってだけで、俺に自分の缶詰くれたよな。あの缶詰、俺嫌いだったんだよ。でも、あん時は死ぬほど美味かった。

 あぁ。そうだ。あれは、珍しくお前が家族の写真なんか見てた時だ。俺がお前の妹指さして、「美人だな。」って話しかけた時、お前、嬉しそうだったな。口数の多くないお前が、妹がどれだけ気立がいいか、矢継ぎ早に話出したんだ。「いつか、俺の家に来て飯でも食え。」って、そんなこと、叶うはずもないのによ。

 お前が、同じ部隊の奴に「この奴隷が。」って、悪態つかれてた時、俺は腹が立ったよ。相手を殴り飛ばしてやった。そしたら、お前、黙って殴られた相手にタオルを差し出してたな。何も言わずに、ただ、悲しそうに。それで、テントに帰って俺に泣きながら礼を言ったんだ。馬鹿な奴だよ。俺は別にお前のためにやったんじゃなくて、ただ、ムカついたから殴っただけなのによ。

遣り切れねぇ。お前が死んで、俺みたいな奴が生き残って。お前が死んだのに、今度は銃も拾ってこいだとよ。畜生。畜生。畜生。


 男は這うように進み、死体置き場の空いている箇所にアブドラを寝かせた。自分もアブドラも血まみれだ。薄暗い部屋の中に、血の匂いが充満する。

「…すまねぇな。俺がもっと神とやらに目をかけて貰えるような人間だったら、お前だって助けてもらえたかもしれねぇな。」

 男はポケットから小型の聖書を取り出す。男が家を出るとき持ってきた唯一の母親の遺品だ。中身を見たことなどなかったが、なんとなくいつも肌身離さず持っていた。

 男は聖書をアブドラの腹の上に乗せた。そして、まだアブドラの体にくっ付いている左手を聖書の上に乗せた。

「俺よりお前が持ってた方が似合うな。こういうものは。お前はいい奴だったから、多分楽園に入れるさ。…俺は無理だろうから、これでお別れだ。」

 男は踵を返し、死体置き場を出た。辺りはすっかり暗くなっていた。男は軍服のポケットをまさぐって、タバコに火を付けた。そのまま深く息を吸い、宙に向かって煙を吐き出す。何も食べていない体にタバコの煙が行き渡る。鉛のような足を少しずつ前に出し、男は自分のテントまでゆっくり歩いた。


 男はいつもの倍近い時間をかけて、テントの前までやって来た。だが、何かおかしい。何かの気配がする。男はタバコを投げ捨てた。

 男は背中に構えていた銃を右手に持ち、左手でポケットから懐中電灯を取り出した。そのままゆっくりテントに入る。人影は見えない。

 瞬間、アブドラの荷物の方へ懐中電灯の光を向ける。

 そこに、犬が居た。まだ子犬だ。浅黒い色をした耳の垂れた子犬だ。男は一気に気が抜けた。野犬に襲われればひとたまりも無いが、目の前の子犬なら蹴飛ばしゃ勝てるだろう。

「なんだ。お前。出てけ。俺は動物は嫌いだ。」

子犬がこちらに歩いてくる。どういう訳か警戒心を感じない。

「おい。出てけ。」

 男は銃の先で、犬を突いた。だが、犬はキラキラ光る灰色の目でこちらを見上げてくる。普段なら蹴り出すところだが、男は疲れていた。それに、色々あって感傷的な気分になっていた。

 男は犬の背中に手を置く。温かった。ほっときゃそのうちどこかに行くだろうと考えて、男は犬を放置し、そのまま寝た。


 だが、三日経っても、一週間経っても、犬は全く出ていく気配がなかった。男は追い出すのも億劫で、なんとなく犬との共同生活を続けていた。餓死されても困るから、肉の切れ端やら、缶詰やらをあげている内に、犬はどんどんでかくなり、1ヶ月も経つ内に、立派な成犬になった。

 男は、割とこの犬を気に入っていた。余計なことを言わないし、寒い夜には重宝する。少々臭いが、慣れたらなんてこともなかった。


 犬との共同生活が始まって、2ヶ月が経った。その日の夜、男は夢を見た。

 夢の中で、男は川の辺りに立っていた。川の向かい側に死んだ父や母、それにアブドラが、見知らぬ人間と共に所在無さげに立っていた。どの顔もまるで生気がない。皆、俯いて自分の足先を見ている。ちょうど、初めて人を殺した新兵のようだ。

 男は、川の向かい側の人間たちを見ていた。すると、皆手に持っていたシャベルで穴を掘り出した。ふと気づけば、男もシャベルを持っていた。男は自分が着ている軍服のポケットをまさぐる。いつも入れてあるタバコがなかった。

 川の向かい側の人間たちの掘った穴が、徐々に深くなってきたようだ。すると、皆穴の中に潜っていった。男は面食らう。状況を飲み込めないでいると、川の上流からゆっくりとブルドーザーがやってきた。そのまま、無慈悲にも穴の上へ土を被せていった。

男は、手に持っていたシャベルを放り出して川へ入った。やめろ、やめろと叫ぶ。だが、声は思うように出ない。もつれる脚をがむしゃらに動かす。

「悔い改めよ。」

どこからか声がする。

「悔い改めよ。」

「なんでだよっ。」

男は虚空へ叫ぶ。

皆アンタに縋って、アンタを最後まで信じて、死んでいったじゃないか。

何が足りなかったんだ。献金か信心か行いか、それとも、俺が悪いのか。

「悔い改めよ。」

男は頭を抱えて、川の中に膝をつく。そして、悟った。皆楽園へは行けなかったのだと。


 瞬間、男は目を覚ました。体中に汗まみれだった。何度も浅い呼吸を繰り返す。男は泣いていた。自分がまだ泣けることに驚いた。男は顔を手で覆う。ゆっくり深呼吸をして、自分を落ち着かせた。そして、自分に言い聞かせる。

(あれは、ただの夢だ。俺が勝手に作り出した頭の中の妄想だ。)

 だが、信じられないほどリアルな夢だった。手に持っていたシャベルの無機質な冷たさ、川の臭い、父や母、アブドラたちの虚な目を思い出す。

 男は、ふと、腹の上に犬が乗っているのに気づいた。男は安堵する。犬の背に手をやった。暖かかった。生きているものの体温が手のひらから伝わってきた。


 その瞬間、凄まじい警報音と共に航空機の射撃音が鳴った。犬が飛び起きる。男は手元にあった銃を持ち、軍服の上着に袖を通す。

 敵襲だ。一刻も早く逃げなければ。また近くで航空機の掃射の音が聞こえた。すぐ近くだ。

 男は、犬と目が合う。気がつくと、犬を庇うように、犬の体に覆い被さっていた。男の肩に衝撃が走った。撃たれた。熱いような痛いような。だが、気持ちは穏やかだった。

(なんでだろうなぁ…。なんでこうなっちまったんだか…。)

 警報音、航空機のエンジン音、怒声、悲鳴、何かが破壊される音、そんな音ばかりが聞こえてくる。男は自分自身に向け嘲笑した。


 男の下から、犬が這い出してくる。そして、男に向かって吠え立ててきた。

(静かにしろよ。お前、俺がせっかく庇ってやったんだぞ。こういう時はな。静かにしてないとダメなんだ。それで、さっさとどっか行っちまえ。)

 男の想いが通じたのか、犬は吠えるのを止めた。だが、どういう訳か男の隣に寄り添うように寝そべった。

 男は困惑した。何をやってるんだ、この馬鹿が、と腹の中で悪態をついた。男は両腕に力を込めて、体を持ち上げる。そして、もう一度犬の上に覆い被さった。今度は犬も大人しくしていた。男は犬の体温に包まれる。

 男は犬に語りかけた。

(お前。長生きしろよ。こんなクソみてぇな世界で、長生きしろなんて、お前にとっちゃ随分酷なことを言ってるのは分かってる。でもな。俺はクズだから、俺の都合でお前に自分勝手に想いを託すよ。

 俺がせっかく助けてやった命なんだ。長生きして貰わなきゃこっちは無駄死にだ。生きて、生きて、生きて、そんで、次生まれてくる時も犬にしてもらえ。上手い具合に金持ちの家にでも潜り込めよ。間違ってもこんな戦場のテントなんかに忍び込むな。)

犬が男の顔を舐めてくる。男は、咽び泣いた。

(犬を守って死ぬなんざ、親父もお袋も悲しんでるだろうな。…だが、俺に似合いの最後だ。ざまぁねぇ。)

男は意識が遠くなる。土と血の匂い、そして、犬の生きている体温に抱かれる。なぜか、ひどく懐かしい気分だった。

(アブドラ。俺はやっぱり神様なんかに縋らねぇよ。アイツは碌でなしだ。でもな。この世界は案外悪くなかったよ。)

男は、そのまま胎児のように体を丸める。そして、死んだ。



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切望 小野まる。 @ono_maru26

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