第95話 おかえりなさい

 亮太は左手の中で熱くなっている八尺瓊勾玉やさかにのまがたまに、心の中でそっと感謝を述べた。


 思えばこれには随分と助けられた。これがなければ禁煙だって出来ていなかっただろうし、そもそも瘴気だって殆ど見ることが出来ない。八岐大蛇の姿はぼんやりとは見えたので、きっとこれを狗神に呑ませても最後の八岐大蛇を目視で確認することは出来るだろう。そう願いたかった。じゃないと戦えない。


「イヌガミー! お口開けるの!」

「く、口が開きません!」


 狗神・八岐大蛇が言った。狗神が口を開けたくとも、八岐大蛇は開けたくないのだろう。


「コウ、危険かもしれないが目の前まで飛んでくれ!」

「分かったのー!」


 今までの経験から、草薙剣を振り回しつつ近付くと首は口を開けた。


「行くのー!」

「おお!」


 みずちが一直線に狗神・八岐大蛇に向かって飛んでいく。亮太は八岐大蛇に敢えて見せつける様に草薙剣を構えた。これで両手を離している状態になり、足はぷるぷるいっている。


「イヌガミ! 頑張って開けろ! アキラが待ってるぞ!」

「! は、はい!」


 開けようとする力と閉じようとする力が互いを押さえ込もうとする。亮太はみずちの身体に更にしっかりと足でしがみつくと、体勢を低くしてすれ違う瞬間を狙う。


「開けろ!!」

「グガアアアアア!!」


 咆哮を上げて、狗神・八岐大蛇の口が亮太の頭一つ分程だけ開いた。今だ!


 亮太は鋭い牙の隙間にアンダースローの要領でポン、と放り込んだ。


 すると。


 八尺瓊勾玉を外した亮太の目には、もう瘴気は殆ど映らない。だが、苦しむ八岐大蛇の黒い鱗ははっきりと見えた。暴れているそれから、犬の様な耳が引っ込む。振り回される尻尾も、犬のそれから龍のそれへと変化していった。光の塊が八岐大蛇の身体から弾き飛ばされる。蓮だ!


「レン!」


 ぶんぶんと振り回される尻尾の一つが、人間の姿の蓮にぶつかりそうになる。


「イヌガミー!!」


 みずちが水撃で尻尾の軌道をずらしつつ猛スピードで急行する。亮太は空いた左腕で距離を測り。


「ぐおっ!」


 ドン! と落ちてきた蓮をキャッチした。抱く様に前に抱える。


「亮太捕まってなの!」

「捕まれねええっ!」


 迫りくる尻尾の追撃を避ける為、みずちがくるりと一回転を始める。足の力だけじゃ、確実に落ちる!すると、だらりとしていた蓮の身体に力が入り、片方の手で亮太の身体を掴み、もう片方でみずちの角を掴んだ。複雑な捻りを入れて、みずちの体勢が元に戻る。危ねえ、死ぬかと思った。


「亮太、只今戻りました」


 亮太の頬をくすぐる蓮の髪は、黒くなっていた。


「あれ? お前髪黒いぞ」

「え?」

「そんなこと言ってる場合じゃないの―! 一回降りるの!」

「お、おお!」


 森の中に隠れる様にみずちが降り立ち、亮太と蓮はみずちから降りた。地に足を着けると感じる浮いた様な感覚に違和感を覚えつつ、亮太は上空にいる最後の八岐大蛇を見上げた。何か動きがおかしい。苦しんでいる様に身体を捻らせたかと思うと、角が伸びては縮みを繰り返している。龍の姿を保っているのも難しそうだった。


「八尺瓊勾玉が効いている様ですね」


 ふう、と蓮が息を吐いた。蓮はいつもの禰宜の姿だったが、かなりあちこちが汚れている。亮太に向き直ると、事も無げに言った。


「ご面倒おかけ致しました」

「お前は本っっ当に馬鹿だよ」


 またじわりと亮太の目頭が熱くなった。もう涙腺は完全崩壊だ、でもいい、ちゃんと帰ってきたから。亮太は蓮の頭をがしっと掴むと、自分の肩に抱き寄せた。


「面倒なんかじゃねえ、お前を取り返すのが面倒なもんか、全く。ようやく帰ってきたな――おかえり」

「亮太、申し訳ありません、もっと早くお話していればこんなことには……!」


 蓮も亮太にしがみついた。亮太は蓮の黒くなった髪に頬を付けると、前までのふわふわな犬っぽい毛ではなくなっていることに気が付いた。もしやこれは。


「お前……犬になれるか?」

「え?」


 ほんのり頬を濡らした蓮が顔を上げるが、あれ? という表情をしている。


「いえ、あの……え?」


 蓮が困惑の表情になると、みずちが当たり前の様に言った。


えにしを断ち切るには、イヌガミの妖力も必要だったの。だからそれを使うって天照大神様が言ってたのー」

「え? え?」

「レン、お前人間になったんだよ」


 亮太が笑顔で言うと、蓮は戸惑った顔をして亮太を見つめ返してきた。


「わ、私が人間ですか?」

「これでアキラと一緒に年を取っていけるじゃねえか」


 戸籍とかは色々と大変そうだが。


「わ、私も、年を取るのですか?」

「俺みたいなおっさんになれるぞ」


 亮太がからかうと、一瞬考える素振りを見せた後、クソ真面目な顔で蓮が言った。


「是非亮太の様なおっさんになりたいと思います」


 冗談のつもりだったのに、宣言された。亮太は苦笑すると、蓮の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。


「アキラに怒られない程度にな」

「はい、肝に銘じます」

「ははっ」


 相変わらずのクソ真面目。だがこれも少しずつほぐされていくのだろうか。彼の宝物のアキラの手によって。


 亮太はみずちの方を向き、上空を形を変えつつ彷徨く八岐大蛇を指差した。


「コウ、あれは後はどう退治すればいいんだ?」

「身体ごと、と言ってましたよね」

「うん、それもちゃんと天照大神様から聞いてるの! バッチリなの!」

「おし、そしたら作戦会議だ」


 亮太がみずちに近寄ると、みずちが亮太に言った。


「亮太、僕をぎゅーっとして」

「うん? どうした?」


 別に構わない。むしろ大好きだからぎゅーっとする位お安い御用だ。亮太はすっかり大きくなったみずちの鼻面に抱きつくと、耳の辺りをよしよしと撫でた。温かくて気持ちいい。


「僕ね、亮太」

「うん?」


 何だかみずちの様子がおかしくはないか。亮太は顔を上げてみずちの赤いつぶらな瞳を覗き込んだ。


「どうした?」

「僕ね、うんとね」


 もごもごと言うだけで話が進まない。言いにくいことなのだろうか。亮太はみずちの頬を撫でながら待った。


「うん、聞いてるよ」

「お約束した話」

「うん、天照大神様としたお約束だろ?」

「そうなの。僕ね、役割を任された時にね、ご褒美は何がいいか聞かれたの」

「ご褒美?」

「そう、ご褒美」


 蛟龍の時はみずちにも瞼が出来る。それを瞑ると、まるで夢を見ているかの様なうっとりとした表情を浮かべた。


「僕ね、ずっと一人だったの。卵から孵った時には周りには誰もいなくて、怖くて寂しくて。でもね、森の中を見てたら、動物さん達は皆親子でいたの。それを見てたら僕もっと悲しくなっちゃってね」


 そうか、蛇は卵から還る。殻を破った時には親はもう傍にいなかったのだろう。


「そうしたらね、ある日僕の前に女の人の光の塊が現れたの」

「光の塊?」

「うん、それが天照大神様だったの」


 そうか、天照大神は高天原にいる太陽神。天岩戸に隠れたら世界が暗闇に包まれたという伝説がある位だ、その姿はそれ位神々しいものなのかもしれなかった。


 亮太はみずちを撫で続ける。まだ生まれたばかりの子供だったのに、明確な意思を持ち孤独を意識したみずち。元々選ばれた存在だったのかもしれないが、ずっと一人はこの可愛い甘えん坊にとってどれだけ寂しく思えただろう。


「天照大神様は草薙剣を持ってた。それで僕に言ったの。僕にお願いしたいことがある、ちゃんとその役割を果たしてくれたら、その代わり僕が欲しいものをあげるって」


 草薙剣の鞘としての役割。狗神が捻じ曲げたえにしの修正。ここまではみずちが言っていた内容だ。後は何か残されているだろうか。


「だから僕ね、お願いしたの。僕、本当の優しいお父さんとお母さんが欲しいのって」


 みずちが瞼をゆっくりと開けると、亮太を見つめた。

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