第62話 泣かせるつもりはなかった

 亮太が心配していた様な、それこそアキラにある様な物はコウの背中には何もなかった。


 綺麗なものだ。痩せているからもっとガリガリの背中をしているかと思っていたが、柔らかそうな肉がそれなりに付いていた。肩甲骨の間から腰に伸びる曲線は美しい、本当にそれしか言えない位美しかった。


 そして感じる強烈な違和感。首から肩、そして腰の曲線は、これは。


「……お、お前」


 コウの耳が赤かった。ゆっくりとコウが亮太を振り返るその顔は、羞恥からかピンク色になっていた。


「わわ!」


 亮太が慌ててネルシャツを脱いでいる間に、胸を腕で隠したコウがこちらに向こうとしていた。一瞬、ほんの一瞬だがその胸の膨らみが目に入ってきて脳裏に強烈に焼き付いた。


「ま、待て待て待て! 早まるな!」

「……亮太」


 亮太は急いで脱いだネルシャツを前からコウに被せ、なるべくコウに触れない様シャツの腕同士をコウの首の後ろで掴んだ。


 コウが潤んだ目で亮太をじっと見上げているのが分かったが、亮太は目を合わすことが出来なかった。


 代わりに言った。


「コウ、ごめん、俺が悪かった」


 心臓がバクバクいっている。口から飛び出しそうだ。


「背中を見せろなんて軽々しく言った俺が悪かった、許してくれ」

「別に、怒ってない」


 耳元で囁くコウのハスキーボイスが亮太をゾクゾクとさせる。いやいかん、ゾクゾクしてる場合じゃない。やっちまった、これは完全に亮太が悪い。


 考えてみたら酷いことばかりしていた。


「その、一緒の布団に寝るのも、俺がお前のコウにそう返事をしちゃったからだろ? お前の意見なんか何も聞かないで」

「亮太、それはまあ始めはそうだったけど」

「簡単に抱きついたりしたのも、本当に悪かった! ずっとお前が男だと思ってて、背中も何も考えないで見せろなんて言って、ああもうごめん!」

「亮太、私は」


 亮太は完全にパニックになっていた。若い女性がこんなおっさんと一緒の布団に寝たり手を繋いだりハグをしたり背中を見せろと言われたり、嫌に決まっている。だけどコウはみずちが懐いている亮太を避けることは出来なかったのだ、避ければ八岐大蛇を退治出来なくなる。きっと呑気にしていた亮太の横でいっぱいいっぱい我慢していたに違いない。


 それでも、嫌われたくない。だから一所懸命取り繕った。


「コウ、服を着てくれ」

「亮太」

「目を閉じてるから、早く」

「……亮太……」

「頼む、コウ」


 亮太はそう言うと、ネルシャツの袖を後ろで結んでから背中を向けた。もう自己嫌悪で消えてしまいたくなった。最低だ、何も知らずに居なくなったら寂しいなんて馬鹿なことを考えていた。コウの気持ちなんて何も考えずに。


 背後で服を着る音が聞こえてきた。亮太はようやく強張った体の力が抜けたのを感じた。


 いや、ほっとしている場合じゃない。帰ったら同じ布団で寝るのか? 確かにみずちはそれを望んでいるしみずちが成獣になるにはそれが手っ取り早いのだろう。だがコウの気持ちはどこに追いやられる? 申し訳なさで大きな穴を掘って埋まりたい気分だった。


 ああ、しかも今朝伝えた起こし方についてもありゃ完全にセクハラ発言だ。腕枕してジタバタしている場合なんかじゃなかった。


「コウ、服、着たか?」

「……うん」

「振り返って、大丈夫か?」

「……うん」


 亮太はそうっとコウを振り返った。コウが着ていた服を身に付けて、腕には亮太のネルシャツを持っていた。


 そして。


「コウ、済まなかった、本当に俺が無神経だった」


 コウの黄銅色の輝く様な瞳からは、大粒の涙がぼろぼろと溢れて亮太のネルシャツを濡らしていた。


 これすらも美しいと思ってしまう亮太は、とち狂ってるのかもしれなかった。


「帰ろう、な?」

「……亮太」

「ん?」


 コウ専用になった亮太のブルゾンをコウの背中に掛けようとして、あまり馴れ馴れしいのもどうかと思い止まっていると。


「亮太の馬鹿!!」


 耳がキーン、となる程の音量で、涙を流すコウが叫んだ。


 でも、その通りだ。


「……うん、俺は馬鹿なおっさんだ」


 亮太が言いながらブルゾンを掛けると、コウはぷいっと無言のまま外へと出て行ってしまった。深夜に一人で歩かせる訳にもいかない。亮太は慌てて鍵を閉めてシャッターも閉じると、急いでコウの後を追った。


 コウの啜り泣く声が亮太の心に突き刺さる。泣かせたのは亮太だ。言い訳のしようもない。


 女だということを隠していたのも、この容姿だ、きっと今まで嫌な目に遭ったこともあるのだろう。おっさんの亮太を信用出来ず、そのまま亮太の誤解を解こうとしなかったのはきっとそういうことだ。


 コウの細い首が震えている。出来ることなら、頭を撫でて抱き寄せて慰めてやりたい。


 でもやっちゃいけない。



 亮太は、悲しそうに泣くコウの数歩後を、コウの足跡を辿る様にただついて行くことしか出来なかった。



 家に帰ると、狗神が出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ……コウ様? どうされましたか?」

「寝る」

「……そうですか、おやすみなさいませ」


 コウは亮太のブルゾンを着たまま、亮太のネルシャツを持ったままズカズカと亮太の布団に入ると掛け布団を被って丸くなってしまった。


 おっさん臭いんじゃねえかと少々不安になったが、この状況で取り上げる訳にもいかない。


 ふっと人間の姿を取ると、蓮は静かに硝子戸を閉めた。また犬の姿に戻ると、台所で立ち尽くしている亮太を見上げた。


「……喧嘩、ですか?」

「いや……俺が全部悪い」

「ビール、ございますよ。飲みましょうか。付き合います」


 また蓮の姿になると、禰宜姿の蓮が冷蔵庫からビールを二本取り出して一つを亮太に手渡した。亮太は流しの戸にもたれかかって座ると、胡座をかいてプルトップを開けた。泣きたかった。


「亮太、そう悲しそうな顔をしないで下さい」


 蓮が慰める様に言う。ありがたいが、それに甘んじる訳にもいかない。


「俺は本当に馬鹿者だよ。ちっとも気付かなかった」


 蓮の眉がピクリと動いた。でも何も言わない。勿論こいつは知っていたのだ。知っていて黙っていたのだろうが、それを責める権利は亮太にはない。


「女だって何で気付かなかったかなあ」


 思わず愚痴が出る。ついでに下唇も出る。こんな姿は他の奴には見せられないが、蓮は亮太よりも遥かに長生きをしている妖だ。だから自然と情けない姿を見られてもいいかなと、そう思えた。


 蓮が小さく息を吐いて少し笑う。


「亮太は疑いませんから、言われたこと、見たままを信じてしまったのでしょう。実際に隠されていたのは事実ですから」

「まあなあ、見ず知らずのおっさんをいきなり信頼なんて出来ないよな、普通」


 なのに初日から同じ布団で寝かされ。どうして他の奴は誰も止めなかった。そう考え、女であることを隠してたからだと思い至る。言えなかったのだ。言ったらばれる。


 知らなかったのは自分だけ。仕方ない、元々こいつらは知り合い同士で亮太だけ部外者だ。仕方がないのだが、寂しかった。


「どう償えばいいんだ」

「何をされたんです?」

「いや、その、絵を描く時の材料として、背中を見せて欲しいと言ったらさっき上を脱いでそれで」

「見られたのですか」


 やはり蓮は遠慮もくそもない。亮太は正直に頷いた。


「見た」


 小ぶりではあったが、ちゃんとあった。手にぴったりとはいかない位の可愛らしいサイズだったが、でも柔らかそうだった。いや違う、そういうことじゃねえ。


「亮太、明日、アキラ様とみずちを連れて私達はギリギリまで外で過ごすことにします」

「へ?」

「情けない声を出さないで下さい。なので、朝、お二人共冷静になられてから今一度話し合いをされては如何でしょうか」


 つまり、逃げずに向き合えということだ。


「……意地悪」

「何を仰いますか。思いやりですよ」


 しれっと言うと、蓮は実に旨そうにビールを口に含んでゴクリと音を立てて飲み込んだのだった。

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