第21話 櫛名田比売

 部屋の中に入っていったレンが部屋の真ん中まで進むと亮太を振り返った。


 でかい男が二人も居ると、流石にこの部屋は狭く感じる。そういう意味でも犬の姿を取ってもらう方がいいのだろうな、そう亮太は思った。


 亮太が自分に注目していることを確認した蓮が目を閉じる。すると、急に蓮の輪郭が溶け始めた。


「おおっ」


 思わず声が出た。まるで柔らかい液体が混ざり合う様に、蓮の髪の毛の色が全身に回り小さくなっていく。塊の中は何色とも言えない光の塊の様な色が溶け合い、次第に液体の様だった境界線がふわふわの毛を生やしていった。


 狗神が目をパッチリと開けた。人の姿が溶け始めて犬の姿になるまで、僅かな間だった。亮太の感覚だと十五秒程の、短い間。


「とまあ、この様な感じです」


 こともなげに狗神が言った。それまで亮太は呆然としてただ突っ立っていただけだったが、狗神のその声を聞いて急にぞわっと鳥肌が立った。



 それは、歓喜だった。



 この世にこの様なものが存在することへの歓喜。そして、現実に見る機会などないと思えていたその色彩に、亮太は思わず声をなくしてただこの奇跡の余韻に浸った。


 諦めていた亮太の心の中の何かを、この光景が押した。


「亮太?」


 狗神が亮太の足元までとことことやってきて、ちょこんとお座りして亮太を見上げた。亮太はようやく正気に戻ると、おもむろにしゃがんでその場で胡座をかいた。狗神のふわふわの横顔をそっと撫でると、狗神が顔を傾けて亮太の手のひらに体重を乗せる。その様子があまりにも愛しくて、亮太は知らず微笑んだ。


 横からその様子を眺めていたアキラが意外そうな顔をしたが、亮太はそれには気付かなかった。


「イヌガミ、また今度、それを見せてくれるか?」

「これが見たいのですか? まあ構いませんが」

「うん。目に焼き付けておきたいんだ」

「? そうですか」


 目を細めて撫でるがままにさせる狗神を見て、亮太はさて、と思った。


 狗神のことはちゃんと教えてもらった。あと残すところはこの無口で大食漢の横に突っ立っている少女についてだ。


 亮太はアキラを見上げた。相変わらず読めない表情のアキラが亮太を静かに見返していた。


「そろそろ、お前のこともちゃんと教えてくれ」


 恐らく、アキラは見定めていたのだ。亮太が信用に足りる男かどうかを。だから狗神のことも隠そうとしていた。今日のことがなければ、時間をかけてゆっくりと判断していくつもりだったのだろう。そう思える程度には、亮太はアキラが慎重且つ判断力があると見ていた。こいつは、ただの馬鹿な子供じゃない。


 アキラが狗神を見る視線は、一介の犬を見る物とは一線を画していた。そう、これは主従の関係にある、あるじたる者の目だった。


 亮太は、先程の狗神の言葉を思い返していた。言っていたではないか。狗神は土地神ではあるが神使として使役されている、だから狗神が治める土地はアキラの管轄だと。狗神はこれまで嘘はついていない。恐らくだが、嘘などつけない性分なのだろう。つい余計なことを言ってしまいそうになってアキラに口を押さえつけられていることからも、容易に想像出来た。


 アキラは狗神の主人である。神使とは、神の使いのことだ。


「お前も神様ってことなのか?」


 アキラ自身には山の様に食うこと以外おかしな所は見られないが。


 アキラは偉そうに腕を組んで仁王立ちをしたまま、狗神の背後に立って亮太を見下ろした。


「そうとも言うし、そうとも言わない」

「お前も狗神もはっきりしないことばっか言うんだな」


 こんな回答じゃ何も分からない。亮太が思わず眉間に皺を寄せると、それを見たアキラは言い直すことにした様だった。


「私は人間として生まれてきた。でも、神の現身うつしみとしての役割を負っているらしい」

「現身?」

「そう。こんなこと信じられないかもしれないけど、そう言われてる私が一番信じられないから」

「ほお」

「変な合いの手入れないで。――ただ、狗神みたいな存在が寄ってくるからそうなんだなと思ってる」

「寄ってくるとは随分なお言葉ですね」


 横から狗神が抗議してきた。こういうところが実に狗神らしい。


「アキラ様は間違いなく櫛名田比売クシナダヒメの現世のお姿ですから。私の心眼をお疑いになるんですか」

櫛名田比売クシナダヒメ……ああ、稲田姫いなだひめか!」


 聞き覚えがあるなと思ったら、婆ちゃんを連れて行ったあの割子蕎麦屋のすぐ横の神社に祀られている神様の名前だ。石像が蕎麦屋の近くにあった。その隣に男神の石像もあった。あれは確か。


「えーと、須佐之男命スサノオノミコトの奥さんだ!」

「冗談でもやめて」


 アキラが思いきり嫌そうな顔をして亮太を睨みつけてきた。こいつ、相手が大人だろうが平気で睨みつけてくるが、今まで注意されなかったんだろうか。


「お前なあ、すぐにそうやって睨むなよ」

「睨んでない」

「じゃあ目つきが悪いんだ」

「亮太の方こそ目つき悪いでしょうが」

「そういうのを棚に上げるって言うんだよ、このバ……」

「亮太、アキラ様、話がずれていってますよ」


 亮太はハッとして続きそうになっていた言葉を寸での所で止めた。危ない危ない、さすがに大人げなかった。アキラを見上げると、苦々しげに、それでも口を閉じることにしたらしかった。


 ここは狗神が話をした方がいいんじゃないか? アキラは好戦的なのでつい言い争いになってしまう。亮太はそう思い、視線を狗神に移した。


「イヌガミ、お前が教えてくれ」

「またそうやって狗神の方ばっか」

「お前がそうやって偉そうにするからだろうが」

「偉そうになんてしてない」

「いいやしてるな」

「亮太! アキラ様!」


 先程よりも強めの口調で狗神が割り込んできた。亮太とアキラは同時に黙り込んだ。さすがに亮太も不貞腐れ顔になった。この小娘、生意気過ぎやしないか。勿論アキラは不服そうな顔をしてそれを隠そうともしていない。


 呆れた様に狗神が言った。


「お二人共落ち着いて下さい。私が話しますから、私が話しかけた時以外は黙って聞いていてください」


 異論はなかったので亮太は頷いたが、アキラはまだ不満そうだった。全く。亮太はそれ以上アキラには取り合わないことにして狗神を促した。


「狗神、頼む」

「畏まりました。須佐之男命スサノオノミコトくだりの所からでしたね。亮太は八岐大蛇やまたのおろち伝説はご存知でしょうか」


 亮太は頷いた。因幡の白兎と同じ位有名な話である。


須佐之男命スサノオノミコトが酒を飲ませて酔わせて八岐大蛇やまたのおろちの首をちょん切るやつだろ?」

「非常に雑な説明ですが、まあ大体そうです」

八岐大蛇やまたのおろちは股が八つあるのに首が九本じゃないんだよなー」

「亮太、話が逸れてます」

「あ、悪い」


 狗神と話しているとつい楽しくなって雑談に走ろうとしてしまう。元がバーテンダーという職業だし雑談は好きなせいもあるのかもしれなかった。


「何故八岐大蛇やまたのおろちが退治されたのかはご存知ですか?」

「……えーと、何か悪さをした、とかか?」


 記憶になかった。


櫛名田比売クシナダヒメの姉達を七人、食べたのです」

「そんな話だったか?」

「そうです。最後に食べられそうになっていた櫛名田比売クシナダヒメに一目惚れした須佐之男命スサノオノミコト櫛名田比売クシナダヒメを嫁にすることを条件に八岐大蛇やまたのおろちを退治しました。その時櫛名田比売クシナダヒメを櫛に変えて差して行ったことから、稲田姫のお名前が櫛名田比売クシナダヒメと呼ばれる様になりました」

「あー、そういう風に繋がってるんだな」


 それにしても、八岐大蛇やまたのおろちは人食い蛇の話だったのか。案外詳細までは覚えていないものである。


 関心している亮太をじっと見つめながら、狗神が先を続けた。


「その八岐大蛇やまたのおろちが復活の兆しを見せたのです。その頃から、段々と己を神の現身と自覚する者達が現れ始めました。そして、アキラ様がお生まれになったのです。その身に八岐大蛇やまたのおろちを封じた印を持って」

「……えーと」


 段々とついていけなくなってきた。


「何でアキラが八岐大蛇やまたのおろちを封じてるんだ? そんな話じゃなかっただろ?」

「伝承は伝承、事実は小説より奇なり、です」


 アキラは何か言いたいのか結んだ口をピクピクとさせているが、頑張って黙っていた。自分だけ話しをさせてもらえないのが不満に違いない。


「でもそしたら須佐之男命スサノオノミコトはどこに行ったんだ」

「問題はその須佐之男命スサノオノミコトなんです」


 狗神はあくまで真面目な顔で言う。亮太がアキラをもう一度見上げると、その顔からは怒りが滲み出てきていた。


「アキラ様の首を締めたのは、その須佐之男命スサノオノミコトです」


 狗神が言った。

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