第11話 犬の毛は何気に気持ちがいい

 その頃、亮太はスーパーDにいた。


 合鍵の作成を入り口側にある合鍵作成コーナーで頼むと、その間に一階の食品売り場に行く。十分程度で終わるそうなので、その隙に惣菜を買ってしまおうという時短作戦である。自分を入れて人間二人と犬一匹の面倒を見るには、今後はこうやって時間を効率よく使っていくしかなさそうだった。


 気ままな独り暮らし生活とはしばしのお別れ。まだそれがいいのか悪いのかは判断がつかない。


 下北沢はまるで迷路の様にごちゃごちゃとしている。住んでいればその内慣れるだろうが、一日二日過ごした程度で把握出来る程簡単な作りにはなってはいない。都会に住んでいた人間ならともかく、マックもピザ屋もない山奥から出てきたばかりのアキラには、目的地に辿り着くことも、その後亮太の家に帰ることもままならないだろうことは容易に想像が出来た。であれば、慣れるまではこうやって亮太が面倒を見てやる他はない。


 まずは南口をマスターし、北口はその後だ。南口から北口に抜けるルートは複数あるが、それも混乱の元となる。


 それまでは根気よく同じルートを叩き込んでいくしかないだろう、亮太はそう思っていた。

 何故か。


 亮太も散々迷った経験があるからだ。今はもう歩いて京王線の笹塚にだって行けるが、下北沢に住み始めた当初は位置関係が全く分からずとても苦労したのを覚えている。一ヶ月程経ち、ようやく迷わず南口から北口駅前の銀行に行けた時は、我ながら達成感があったものだ。あの感動は今でも忘れられない。


 ただし環状七号線略して環七の先はまだまだ未知の世界。世田谷線、小田急線、京王線に囲まれた通称世田谷トライアングルに入り込むと抜け出せないなどという笑い話はよく聞くが、その地域に足を踏み入れたことはまだなかった。


 そんな下らないことをつらつらと考えながら、惣菜コーナーを彷徨く。いくら人間と同じものでいいと言っても、塩分過多なのは犬にはよくないと聞いたことがある。


 腕時計をちらりと見ると、出勤まではまだあと二時間半あった。


「作るか」


 ブロッコリーを軽く茹でてにんにくを入れたオリーブオイルでさっと炒めると美味い。それに、焼くだけの豚の味噌漬け、それからもう揚げてある唐揚げ。なめこを買って、なめこの味噌汁もつけよう。


 先程食べたばかりなので正直全く腹は減っていなかったが、まあアキラと狗神が腹いっぱいになれば今日はとりあえずはよかった。


 結局暇つぶしグッズも何も買えなかったので、食後はのんびりとテレビでも見ててもらうしか他はなかったが、それも今日はもういい。後は明日明日、全部一日でやろうとするとパンクする。


 亮太は母親を見てそれを痛い程学んでいた。


 会計を済まし、合鍵作成コーナーに行くともう終わっていた。仕事が早い。


 スーパーの外に出る。まだ雨は止んではいないが、大分小雨に変わってきていた。もう傘は必要なさそうだった。


 亮太は軽く礼を言うと駆け足で帰路についた。



「ただいま」

「おかえりなさいませ」

「お、おお」


 犬に物凄く丁寧な出迎えをされた。こんな経験がある人間は、恐らく世の中に殆どいない。そもそも普通の犬は喋らない。


 亮太はスーパーの袋を台所にガサ、と置くと、早速調理をスタートする事にした。


 横に行儀よくお座りしている狗神に、一応聞いてみる。


「えーと、白飯は食べるか?」

「ええ、普通程度には。アキラ様はおかしな程食べますので、三合は必要かと」


 いいアドバイスをもらった。やはり犬から見てもアキラの食欲は異常らしかった。


「サンキュ」


 まずは米をさっと研ぎ、炊飯器にセット完了。次に味噌汁用にお湯を沸かし、ブロッコリー用にもう一つ鍋を用意する。


 二口ふたくちコンロではあるが、調理した料理を鍋に入れておけば温め直しも簡単だ。明日は鍋をもう一つ買おう、亮太は頭の中のメモに「鍋」と書いた。書いてもどこに行ったかすぐに見失ってしまうのだが。


 沸騰した味噌汁用の鍋には出汁の素、ブロッコリー用の鍋には塩。犬にも食べさせるならと思い、少しだけにした。ブロッコリーは硬めに茹でると噛みごたえがある。アキラみたいに呑み込むように食べる奴には、沢山噛む様になるのでいいかもしれない。タイマーを二分にセットした。


 亮太は小さな紙袋に入れられた鍵を取り出した。


「アキラー?」

「んー?」

「合鍵作った。キーホルダーはテレビの横の籠の中にあるから、好きなやつ付けとけ」

「分かった」


 店をやっていると、客が旅行に行くとお土産をくれたりすることも多い。食べ物なら食べたらなくなるのでいいのだが、物を貰うとなかなかに辛いものがある。いただき物を簡単に捨てる訳にもいかず、身に付ける物は多少気に食わずともしばらくは使用してから捨てたり外したりしている。


 キーホルダーがその一番いい例で、亮太はそんなに山の様に鍵は持っていないのに次から次へと貰うので、テレビの横の籠に山積みされている、というのが現状だった。


 アキラがガサゴソやっている姿がチラリと見える。亮太は狗神にお願いした。


「イヌガミ、これアキラに渡してくれるか?」

「かしこまりました」


 狗神は差し出された鍵をぱくりと口に加えると、とっとこと軽やかにアキラの元へと向かった。


 言葉が通じる犬。思った以上に便利かもしれない。狗神には悪いが、ついそう感じてしまった。


 お湯が沸騰してきたのでブロッコリーを入れ、もう一つの鍋に洗ったなめこも入れた。タイマーが鳴るまでしばし待機。


 タイマーが鳴るとブロッコリーをザルに上げた。一旦味噌汁の火も止めた。


「亮太」

「何だ」


 戻ってきた犬に呼び捨てされた。まあ別に構わないのだが。


「少し休まれた方がいいかと。お疲れの様ですので」

「イヌガミ……」


 亮太は胸がジンと熱くなった。なんて優しい言葉だろうか。もうしばらくの間、思いやりの言葉などかけられた記憶がない亮太は、素直に感動し、狗神の前にしゃがむと狗神の首に抱きついた。石鹸のいい香りがするふわふわの毛が頬に触れた。癖になりそうだった。


「お前はいい奴だなあ」

「そうですか? それは光栄です」


 亮太は顔を上げると、狗神の首をわしゃわしゃしてから立ち上がった。


「そうしたら一時間位寝させてもらおうかな」

「それがいいかと思います」


 そう言うと、狗神は亮太を先導して亮太の布団に先に寝転がった。


「私は腕枕が好きです」

「腕枕しろってことね。分かった分かった」


 アキラがチラリとこちらを見たが、何も言わずにテレビを消した。手には『下北沢グルメ』と書いてある貰い物の本を持っていた。籠の下に置いておいたのを発見したらしい。


 亮太は布団に横になると、腕を横に投げ出した。そこに当然の様に狗神が顎を乗せる。


 肌に直に触れる犬の毛はサラサラで何とも言えない感覚だったが、不快ではない。むしろ気持ちよかった。



 これは癖になるかもしれない。



 そんなことを思いながら目を瞑ると、狗神が体をピッタリと寄せてきた。何だろう、触れている部分が清らかになっていく様な、不思議な感覚だった。


 遠くなっていく意識の中で、ぼんやりと考える。イヌガミ、犬神、狗神。あれだ、犬の姿をした神様のことだ。島根の婆ちゃんちの方ではたまに祀ってあるのを見かけたが、そういえばこちらの方では見たことがない。関東はどちらかというと狐の方が多い気がする。

 


 狗神は神様っぽくはないが、近いものはあるのかもしれない。例えば猫又みたいに長生きしたとか。ならまあ喋るのも納得だ。



 我ながらもう少し疑ったりすべきだとは思えたが、だって喋る犬だ。


 亮太があれこれ考えていると。


「寝ましょう」


 狗神が囁いた。


 すると、睡魔は一瞬で襲ってきた。

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