命の重力加速度は21g/s²

詩野聡一郎

今日もツァラトゥストラの命日

 フェンス一枚。

 それが命の距離。

「よし」

 普段なら気にするような異性の目も、今はない。

 普段なら鬱陶しいような同性の声も、今はない。

 だから上着が捲れ上がるのも、スカートが捲れるのも、何もかも無視して、みっともなくフェンスをよじ登る。

 体重を乗せて掴むフェンスは想像通りの痛みを手に伝えてくるけれど、こんなんじゃ今の私を止められない。

 毎日のように「どうなるんだろう」と夢想していた行動も、いざ実行してしまったら呆気ないもので、私の力でも簡単にフェンスを乗り越えられてしまった。

 いや、乗り越えてやった。

「…………呆気な……」

 フェンス一枚を経てはじめて迷い込んだ向こう側は、なんだかすごく冷えた風が吹いている気がして、底知れない寒さに身体が震えてくる。

 このまま跳んでしまえばいいというのに、なんだか指がフェンスに絡みついたまま上手く離れてくれないので、ズルズルと降りていくしかなかった。

 あとは自然と、足裏が塀の上に着くまで落ちるだけ。

 ここまできてようやく指先が離れてくれたと思えば、今度は背中がフェンスから離れてくれないようだ。

 この分だと、どうやら生存本能なんていう不要でしかない感情が、私にもまだ残ってしまっていたらしい。

(ここから落ちたら、どうなるんだろう)

 ちょうどシャープペンシルがポケットに入れたままだったのを思い出したので、それを掴んで空気に晒しながら、じんわりと指の力を抜いてみる。

 完全に指の力がなくなるよりも先に、シャープペンシルは束縛に抗うように暴れ出して、自由を求めて堕天した。

 屋上と地面の距離は、落下したシャープペンシルの命の音を消してしまうほどに開いていたけれど、それは数秒後の私の姿なのだから、きっと砕け切れているであろうことは、火を見るよりも明らかだった。

 そう、結局のところ私の命なんていうものは、こんな文房具一本と同じぐらい。

 命に値段はつけられないって人は言うけれど、私の命なんてものは、せいぜい百円がいいところだろう。

 今日ここで飛び降りることで、そんな世迷言をこの世界から一つ消せるのなら、それも悪くないかもしれない。

「おや、先客」

「え――――」

 聞こえるはずのない他人の声に視線を向ければ、入り口には一人の男子生徒の姿があった。

 同学年かわからなければ、先輩か後輩かもわからないその顔は、軽薄な笑いを浮かべているように見えて、ほんの少し、癪に障った。

「あ、ごめん。お邪魔しちゃった?」

「……」

「どうぞどうぞ。続けて?」

「……え?」

 別に期待をしていたわけではないんだけど、止められるどころか促されるとは思わなかった。

 私の一世一代の決心を、こいつはテレビのお笑い番組か何かだとでも思っているんだろうか。

 明日からはもう私に関係のない正真正銘の他人だけど、よりにもよって最後に会話をするのがこんな人間だなんて考えると、さすがに凍り付いて硬くなっていた私の意志もうんざりして、少し融けだしてしまう。

「あー、でもまずいな」

 私の気持ちの切れ端が萎え始めていたところに、彼は困ったような声で言葉を紡いだ。

「ちょっと困る」

「……なにが?」

「だって君が今飛び降りると、居合わせた僕がなんか関係者みたいでしょ?」

「は?」

「警察にめんどくさいこと色々と聞かれそうだし」

「……」

「あれ、てっきり飛び降り自殺だと思ってたんだけど、違った?」

「……いや……まあ……」

 私の行動は彼の予想通りではあるんだけど、でも、彼の言葉は私の予想通りではなかった。

 てっきり自分が通ってる学校で何か事件が起こるのが嫌なんだろうと思っていたのに、彼の言葉と態度はまるで「飛び降りるのは構わないが、今されるのは困る」というスタンスを示しているように感じられて、困惑してしまう。

(何なんだろう、こいつ)

 彼はきっと、今まで出会ったことのないタイプの人間だと思う

 私を引き留めるわけでもなければ、私の背中を押すわけでもない。

 なにも触れてこないまま、ただただ「自分には関係ない」と線引きをしてくる。

 こういうのを、ドライなタイプと言うんだろうか。

「でも――」

 彼はまた、私が気に食わない薄ら笑いを浮かべて、

「死んだところで、何の意味もないよ?」

 ありきたりな言葉を、私に投げかけてくる。

「だから?」

 そんな言葉は何度も聞いてきた。

 こんな行動に意味がないなんて、わかりすぎてるほどによくわかってる。

 意味ない? お前になにがわかるの?

 知った風な顔で、知ったかぶりの言葉をかけられたって、私の心はピクリとも動かない。

 私の行動の意味なんて、私以外の誰にもわかるはずなんてない。

 でもまあ、私が死ぬことで精々みんな思い知れば良いとは、思う。

「君が死んだところで、誰も悲しまないでしょ」

「はぁ?」

「だって、君がこんなにも思い詰めてるって、誰も気づいてくれないんでしょ?」

「……」

「誰か気づいてくれてたら、死ぬ必要なんてないもんね」

「…………」

「そんな人たちが、君が死んで悲しむわけないじゃん」

 確かにそうなのかもしれないけど、こいつはとにかく気に障る言い方をする奴だなと思わずにはいられなかった。

「あんた、何が言いたいの?」

「馬鹿だなぁって」

「は? 喧嘩売ってるの?」

「ははは、僕はそんなつもりないけど、君がそう思うならそうなんじゃない?」

「ムカつく奴だな」

 おっと、思わず思ったままの言葉が外に出てしまった。

 まあいいや。少しは自分がクソだって思い知ればいい。

「要するにさ」

 だけど、私の悪態を意にも介さずに、彼は言葉を続けてしまう。

 なんなんだ、こいつのメンタル。これが無敵の人ってやつ?

「君一人が死んだところで、この世界はなんにも変わらないよってこと」

「……はぁ」

 結局、言い回しが遠回りだったり態度が大きいだけで、こいつも言うことは他の人と変わらないみたいだ。

 なんだか今、自分がものすごく無駄な時間を過ごしている気がする。

「そんなのわかってるっての」

「いやー、わかってないって」

「はぁ?」

 本当にいちいちムカつく言い方をするな、こいつ。

 いちいちそうやってマウント取らずに会話できないの?

「君が死んだら、ちょっとはみんなの心に傷が残るかもなって思ってるでしょ?」

「……」

 でも、その言葉は的確に的を射てくるものだから、本当に厄介だ。

 確かにそれは少し、思ってた。

「……死ぬべきじゃないとか、命を無駄にするなとか、言う人いるでしょ?」

「まあね」

「生きてれば良いことあるとか、きっと助けてくれる人がいるとかも」

「うん」

「みんなよくそんなウソ吐けるなって思う」

「ははは」

「これまで死んてきた人たちに失礼でしょ。あいつら、自殺者はみんな馬鹿だから死んだって言いたいワケ?」

「いや~、全くもってその通り」

「でしょ」

 ムカつくだけの奴かと思えば、案外話がわかるらしい。

 まあ、そのクセに人を食ったような態度なのは、随分と食えない奴だけど。

 うん。やっぱりプラマイはマイナスだし、「ムカつくだけの奴」でいいや。

「あとあれね。努力してないとか、逃げればいいのにとか言うだけの奴」

「いるね~」

「努力してないわけないし、逃げようとしてないわけないでしょ。死ぬ気で努力して死ぬ気で逃げてるっての」

「くっくっく」

「そうやっていつまでも結果論で“ホニャララしてないからそうなるんだ”って言ってればいいと思ってるの? 馬に人参ぶら下げるわけじゃないんだから」

「笑えるよね」

「ほんと最高。死んだ人よりよっぽど馬鹿でしょ、あいつら」

「だね」

 今まで誰ともこんな話ができなかったどころか、そもそも話が成立しなかったもんだから、ついつい饒舌になってしまう。

 馬と人参の例えは、自分でも言い得て妙だと思ってる。だって「良いことあるかもよ」ってずっとチラつかせるだけで、何も助けてくれずに死ぬまで走らされるだけだし。

 そんなの、信じる方がバカだ。「良いこと」があるんなら、言ってるお前が今すぐ寄越せっての。

「無責任で、自己中で、そのくせ口では綺麗事ばっかり言ってて、実際はなにもしてくれなくって」

 今度は彼が口を開いた。

「そうそう」

「クソみたいだよねぇ、この世界の人間って」

「ほんとそれ」

「それで、そこまでわかっててなんで死のうとするの?」

「……は?」

 おかしい。さっきまで話が合っていたのに、やっぱりここまでくると話が合わない。

 私が死のうとする理由がここまでわかっているのに、どうして私が死のうとすることを否定するんだろう。

「あんたさ。今までの話聞いててわからなかったの?」

「なにが?」

「私が死にたい理由」

「まあ、ちょっとは?」

「はぁ」

「なに?」

「ちょっとわかってるなら、なんで私の行動を否定するわけ?」

「ちょっとわからない部分があったって意味なんだけど」

「は? あんた本当に日本人なの?」

「ひどいなぁ」

 言葉とは裏腹に、こいつの表情はへらへらとしていて、私の言葉がちっとも心に響いていないようだ。

「君、世の中の人がみんな本当はクソだってわかってるんだよね?」

「当たり前でしょ」

「じゃあさ」

 そう言ったところで、彼は今日はじめて、なんだか真面目そうな表情を私に向けてきた。

「君が死んだ理由がわからないぐらい、みんな馬鹿だってなんでわからないの?」

「……え?」

 彼がなにを言ってるのか、私にはよくわからなかった。

 だけど、口は勝手に言葉を紡いでしまう。

「いや、遺書もあるから」

 遺書なら、出かける前に勉強机のロッカーに入れておいた。

 ポケットの中には、「勉強机のロッカーを調べて欲しい」って紙を糊でくっつけてあるし。

「遺書を読んだところで、わかるわけないでしょ」

「……は?」

「え、わからないの?」

 彼は心底意外そうな顔をする。

 それを見た私の中に、忘れかけていたムカつきが再び湧き出して、感情が目に映る世界を塗りつぶす。

「言いたいことがあるなら、ハッキリ言えば?」

「え、いいの?」

「そういう人を馬鹿にした態度、ほんとムカつくんだよね」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 彼はこめかみにに指をあてて少し考えたあと、前準備とばかりに息を吸い、それから口を開いて見せた。

「君が死んだら、まず警察が呼ばれて色々調べられるだろうね。

 何故だかわからないまま残りの授業は中止になって、みんな喜んでニコニコしたまま学校から帰るんだ。

 わかる? 君が死んだおかげで学校が休みになってラッキーってこと。きっと感謝されるよ。君が死んだことに。

 先生たちは夜遅くまで会議させられるだろうけど、まあ、きっと君のことを恨むだろうね。余計な仕事増やしやがってって。

 だって“先生”ってすぐいじめを隠すし、自殺した子がいても原因はいじめじゃないとか言うでしょ?

 生徒一人が死んだことに責任なんて感じるわけないでしょ。元々三年でいなくなる相手なんだから。

 口では責任を感じるとか言うだろうけど、あの人たちはいつも口だけだって君も知ってるんじゃないの?

 ほらね、誰も君が死んだことを悲しんじゃいないでしょ?

 ああ、あとは遺書だっけ。

 運よく君の遺書が見つかったとして、何が書いてあるか知らないけど、何が書いてあったって同じことだよ。

 君の言葉や気持ちを、本当の意味でみんなが理解できるわけないでしょ。表面的にわかったフリになるだけ。

 悲しむかもしれないね。苦しむかもしれないね。悪いことしたと思うかもしれないね。

 でもそれだけ。それだけなんだなぁ、これが。なんにも次に活かされないんだ。

 悲しいなあ申し訳ないなあって思うだけで、みんな明日には他の人をいじめてる。

 殴って殺してごめんねって言って、また殴って殺してごめんねって言って、また殴る。

 ごめんねなんて、みんな本当は思っちゃいないんだって。謝罪すれば許してもらえるって学習してるだけでしょ。

 だってみんな、口では謝罪してても「絶対に許さない」って言われると怒り出すでしょ?

 それってもう、許してもらえることを当たり前だと思ってるってことだよね。死ぬまで追い詰められた人が許すわけないのに。

 結局どこまでいってもテレビのワイドショー感覚なんだよなぁ。当事者なのに、自分には関係ないってどこかで思ってるんだ。

 だから、テレビに出てくる専門家みたいに、何も知らないクセにあーでもないこーでもないって言葉を並べ立てて君を理解したつもりになって、薄っぺらい共感を示して、ただただみんなで気持ちよくなるだけだよ。

 元々そんな子だったって君のせいにされて、スルーすることも大事だレジリエンスを高める教育をしようって言葉で君は啓発の道具にされる。

 そうした言葉はSNSみたいに拡散していって、いつの間にか君は言ってもないことを言ったことにされる。

 君の言葉は何もかもが捻じ曲げられて、他人の意見のエビデンスとして利用されるだけになる。

 君の感情は誰かの共感の材料にされて、他人に感情を与えるためのドラッグとして消費される。

 そんなことしてる暇があったら目の前の人に手を差し伸べたらいいのに、誰もしないでしょ?

 だから、君も助けてもらえなかったんだ。昔、別の“君”が死んでも、誰も何も学ばなかったから。

 ま、要するに、この世界の人間は君を死ぬまで追い詰めておきながら、君の“死”を利用して自分たちが気持ちよくなることしか考えられないぐらいには、自己中ってこと。だから――」

 彼の矢継ぎ早の言葉は溢れだしそうなほどの情報量だったけど、何故だか不思議なことに、するりと理解できてしまった。

「君が死んでも、何の意味もない」

「……」

「みんな喜んでおいしくムシャムシャと食べるだけだよ。君の“死”を」

 だけどその言葉は、もしかしたら正論なのかもしれないけど、でも、なんだかすごく、ムカついた。

「……だからなに?」

 私が死んだって意味がない? だからなんだって言うんだ。

 そんなお前の言葉にだって、なんの意味もないクセに。

「そこまで言うんなら、あんたが助けてくれんの?」

「今日会ったばかりでしょ? 僕ら」

「……」

「なんでわざわざ僕がそんなことしなきゃいけないわけ? 友達でもないのに」

「――だったら黙ってろよ!!」

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。

 何も喋るな何も聞かせるな何もわからないクセに知った風な口を利くな。

 私は私だ。ただ一人の私だ。私は私であって、お前の考えは私じゃない。

 私の言葉は私のものだ。私の身体は私のものだ。私の生死も私のものだ。

 今日会ったばかりのお前なんかが、私のための私の決断に指図をするな。

「わかってんだよこっちは! お前の言うことなんかさあ!」

 私を束縛するな。私を支配するな。私にまとわりつくな。

 私は、お前たちに言うことを聞かされる奴隷じゃない。

「じゃあどうしろっていうんだよ!? 死ぬ以外に方法なんかないだろ!」

「その通り。君は死ぬ以外に救われないだろうね」

「はあ?」

「ここで自殺しなかったら、死ぬまで苦しみ続けるんじゃない?」

「あんた、私を馬鹿にしてんの?」

 頭がおかしいのか? こいつ。

 いちいちこっちのやることなすことにケチつけないと気が済まないって?

 誰も彼もあーしろこーしろってうるさいんだよやっぱりこいつもそうだったのか。

 やっぱりそうだ。私以外の人間はみんな、私のことを傷つけることが気持ち良くて仕方がないんだ。

 こいつもやっぱり“人間”だったんだ。

「あんたにわかんの? 私の気持ちが?

 いい加減疲れてるんだよこっちは! 解放されたいんだよ!!

 毎日死にたくてしょうがないし窓ガラス見るたびに飛び降りたくてしょうがないんだよ!

 死にたいのに死にたいのに死にたいのにいっつもいっつも邪魔が入る。

 私が死んで何が悪いの? 私が死ぬのは自由でしょ?

 死ぬことに意味がないって? そんなことね、とっくにわかってんの。

 私なんかが死んだってほとんど誰も理解しないだろうなってことぐらいわかってんだって。

 でもね。死ぬ以外になにがあるわけ?

 こんなに生きるのが辛いのに、死ぬ以外の方法なんてあるわけないでしょ?

 このさき生きたって意味ないに決まってる。こんなんじゃ社会に通用しないって鬱陶しいぐらいに聞いてきた。

 いいよ通用しなくて。そうやって他人の気持ちを否定してばっかり足を引っ張ってばっかりの奴らが作った社会なんてこっちから願い下げだっての。

 だから死ぬ。ここで死なせてもらうっての。仲間に入れてなんてお願いしてやるもんかよ。

 ごめんなさいごめんなさい私が間違ってました私が悪かったですって私が謝ればみんなニコニコ喜ぶんでしょ?

 そんなキモいこと、もうやってられるかよ。自分の機嫌ぐらい自分で取れってのガキどもが。

 いい加減疲れたわこんな奴らの相手すんの。馬鹿げてるでしょ。馬鹿すぎでしょ、あいつら。

 何にもわからないんだから。何にもわかろうとしないんだから。

 だからさ。別に、あいつらにわかってもらおうなんて思っちゃいないんだ。

 ただ、この世界の誰か。そうだな、私みたいな人がいるなら、その人に届けばいいなと思ってるだけ。

 あんた、死なないんでしょ? そんなこと言うなら、私の代わりに私の言葉を伝えてよ。

 私にはさ。もう、この先の人生なんてないから。人を助ける職業とかも、就けやしない。

 もし就職しようとしたって、メサイアコンプレックスだのなんだのって、何も知らない奴らにレッテル貼りされて頭がおかしいって言われるに決まってんだしね。

 だったら死ぬしかないでしょ? ここで死ぬことでしか、何もできないでしょ?

 死んだら可哀想可哀想って言ってもらえるんでしょ? 生きてると何も話を聞いてもらえないのに、死んだら私の遺書はニュースに出るんでしょ?

 死んだ方が良いに決まってるじゃん、そんなの。死んだら私の声が誰かに届くんだ。だから邪魔しないでよ。だからさ、だから――」

 こんなに言葉を口にしたのは、感情を露にしたのは、いつぶりだろう。

 どんなに言葉を口にしても誰にも伝わらないし、どんなに感情を露にしても誰も触れてくれなかった。

 いつもどこか遠くから、駅の窓口にある透明なパネルを挟んだような距離感で、私に中身のない言葉が書かれた切符を差し出してくるだけ。

 その切符を手にしてどこかに向かっても、やっぱりその先は変わらないままの苦しみで溢れていて、信じてしまったことをいつも後悔する。

 励ましの言葉なんて嘘だ。背中を押すなんてただのポーズだ。もう二度と、他人の言うことなんて信じない。

 あいつらは、無意識に私を苦しめて喜んでいるだけに決まってるんだから。

「あんたに、否定される筋合いなんてないっての」

「なに言ってるの?」

 渾身の言葉を叩きつけたのに、憎らしい“あんた”は、変わらない薄ら笑いを浮かべるだけだ。

「僕は、君の自殺を否定なんてしてないよ」

「…………は?」

「勝手に死ねばいいじゃん。君の人生なんだし」

「……話をズラして、私を騙そうとしてんの?」

「え、さっき言ったでしょ? “続けて”って」

「……まあ」

 言われてみればそうだった。でも、なんだか頓智のような気がしてくる。

 散々ケチをつけておいて「否定してないよ」なんて、詐欺師の手法かなにかだろうか。

「君ってさ」

「……なに?」

「良いとか悪いとか言ってばかりで、なんでもかんでも肯定か否定かで捉えてるよね」

「は?」

「そんなに肩肘張ってばっかりで、肩凝らないの?」

「なに言ってんの?」

「馬鹿だなぁって」

「うるさい」

「僕がしてるのはディベートじゃなくて、ディスカッション」

「……は?」

「別に君を言い負かそうなんて思ってないから安心してよ。君、弱すぎるし」

「あ?」

 本当に、いちいちマウント取ってばかりでクソムカつく奴。

 性格悪すぎるでしょ、こいつ。

「いやあ、楽しかった楽しかった。そろそろ授業行かなきゃ」

「え? は?」

 その言葉と同時に、屋上にいるせいでいつもより少し遠い感じのチャイムが学校中を反響する。

 どうやら約一時間も死に損ねていたらしい。こんなクソ野郎のせいで。

「じゃ、ばいばい」

「待てよ」

 フェンスの向こう側にいるせいで肩を掴んで引き倒すこともできないから、八つ当たりついでに力づくでフェンスを揺らす。

「えぇ」

 その音が怖かったのか、おそらくそんなことはないから気まぐれだろうけど、やれやれといった調子で彼は足を止めた。

「なにか?」

「なにかじゃないっての」

「話はもう終わりでしょ?」

「え……」

 なんとなく引き留めてしまったけれど、確かに考えてみれば私たちの話はもう決裂している。

 これからこいつは授業に戻って、私はここから飛び降りる。

 だから、もう話すことはないといえばなかった。

「次の授業、なに?」

 だけど、久しぶりに成立した会話が懐かしいのか、なんとなくありきたりな話を振ってしまう。

 急に様変わりした話題に、彼は今日初めて驚いた顔を見せたけれど、すぐにムカつく顔に戻る。

「道徳」

「ははっ」

 笑える。よりにもよって道徳?

「さっきの授業は?」

「体育」

「あんた、体育サボって道徳出てんの?」

「まあ」

「普通、逆でしょ」

「ははは、まあそうかも」

 さっきはやっぱりこいつも他の奴と同じかと思ったのに、やっぱりこいつはどこかおかしい。

 おかしい奴に見えたかと思えば、おかしくない奴に見えたりする。

 掴み所がないっていうのは、こういうことを言うんだろうか。

「でも、道徳の授業って結構面白くない?」

「どこが? 全然面白くないでしょ」

「そうかなぁ」

 彼は心底不思議そうな顔をするので、なんだか馬鹿にされた気がして、少し苛立ちを感じた。

 道徳の授業とか、先生が中身のない言葉を垂れ流して悦に入るだけでしょ。何の役にも立ってないし。

「でも、こんなに教えられてもみんな馬鹿なままなんだなぁって思うと、結構面白いよ」

「……え?」

「授業してる先生も、受けてる生徒もみんながみんなずっと自己中なままで、他人をいつ殴ってもいいサンドバッグにすることしか考えてないって考えたらカッコ悪すぎてさ。そこら辺のコメディより笑えない?」

「……」

 そんな風に考えたことなんて、生まれて一度もなかった。

 自分はいつだって笑われ、馬鹿にされる側で、誰かを笑ったり馬鹿にしたりするということとは無縁だと思っていた。

 それは悪いことで、みっともないからしてはいけないと思っていた。

「さすがに、そろそろいかなきゃ」

「……」

「また明日……は違うか」

「……」

「じゃあね。もう今日で」

 そう言い、手を振って、彼は最後まで自由人なまま屋上から立ち去ってしまった。

 後に残された私はどこか興が醒めたような感覚を憶えるけれど、しかしフェンスを乗り越えて塀から屋上へと戻るつもりにもなれず、下に見える大地のどこにシャープペンシルが落ちたのかを目で追うということを、なんとなくしていた。

「はぁ」

 彼のように世界を見られたら、生きやすいのかもしれない。

 だけど、やっぱり私は、自分を苦しめてきた人たちと同じように、誰かを嘲笑って生きるというのは、とてもじゃないができそうにない。

 どこまで行っても私はこの世界に嫌われていて、この世界の住人にも愛されていない。

 どこまでいっても、私は独りだ。

「ふふ」

 そう思ったらなんだか少し、笑えてきた。

 眼下に広がる冷たい空間は、まだ眠い朝の布団のように、私を柔らかく手招いている気がする。

 希望も何もかも持たない今、このまま飛び降りたら、きっと心から純粋に死ぬことができると思う。

 きっとそれは、とっても気持ちいいんだろうな。

 だから。

 私は――

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