第431話 出発前①

 装備、糧食、輸送用の荷馬車。戦争に必要なそれらの準備は何の問題もなく進み、季節は冬から春へと移った。


 五月の中旬。明日には第一陣の出発を控えた午後。軍務長官ユーリは、アールクヴィスト大公家の御用商人フィリップと事務的な話し合いをしていた。


 第一陣の百人は五十人ずつに分かれ、商人とその護衛のふりをしてロードベルク王国内を移動する。その際にスキナー商会が全面的に協力してくれることになっていた。


「第一陣の隊商への偽装準備も済ませております。後は出発を待つばかりです」


「そうか、ご苦労……それにしても、本当にお前も第一陣に付いて来ていいのか?」


 ユーリが尋ねると、フィリップは商人らしい人好きのする笑みを浮かべながら頷く。


「ええ。最初ですので、私自ら行こうかと……それに、私はビッテンフェルト侯爵領までは行ったことがありますが、キヴィレフト伯爵領ラーデンは初めてです。王国一と評される港を一度目にしたいと思っていましたし、あちらの貿易商人たちと直接繋がりを得ることは将来的にも利点が大きい。せっかくの機会なので、できるだけ早く足を運びたいと思っています」


「なるほどな。お前がいいならこちらは何も言うまい」


 商魂逞しいフィリップの言葉に、ユーリは苦笑しながら返した。


 アールクヴィスト大公国軍の出兵は、第一陣百人、第二陣が二百人、そして第三陣が二百人を予定している。それぞれの陣でさらに数十人ずつに分かれ、軍勢がロードベルク王国内を縦断していると気づかれないようキヴィレフト伯爵領まで向かうことになる。


 第二陣からは予備役の兵も含まれることになるが、これがベトゥミア共和国と戦うための出兵であると明かされるのは、実際に戦いに臨む兵のみ。正規軍はもちろん、普段は一般平民である予備役の兵士たちにも他言禁止が命じられる。彼らは家族にさえ事実を隠して出発する。


 第二陣の予備役兵は国外でのロードベルク王国との合同演習という名目で、第三陣の予備役兵は王国北東部で発生した大規模な魔物暴走を討伐する助力という名目で、臣民に説明がなされる予定となっている。それにしては様子がおかしいと気づく者も出るだろうし、なかには妻に本当のことを話してしまう予備役兵もいるだろうが、それも織り込み済みだった。


 第二陣が出発するのは五月の下旬。その頃から少しずつ情報の漏洩が始まったとしても、それが王国南部の沿岸地域に届くまでには一か月から二か月ほどを要する。アールクヴィスト大公国軍がキヴィレフト伯爵領へと大規模な移動を行った事実が知れ渡るより、ベトゥミア共和国の再侵攻が始まる方が早い。


 真実を明かされず夫や父親、息子を送り出してしまった大公国臣民たちへは、公妃であるクラーラが説明をしてくれる。


 クラーラはその聡明さや育ちの良さを惜しみなく発揮して、今では大公国の母として民から慕われている。秘密裏の出兵はベトゥミア共和国を退けて大公国の安寧を守るために必要不可欠だったのだと彼女が説明すれば、臣民たちも納得してくれる。


「第一陣の指揮官はグラナート閣下ご自身が。第二陣がラドレー・ノルドハイム閣下と、移動中の補佐役にバート・ハイデマン閣下。第三陣がアールクヴィスト大公閣下自ら……ということでしたね?」


「ああ。それで間違いない。軍の移動だけでも合計一か月半をかけた長丁場になるが、頼んだぞ」


「お任せください。アールクヴィスト大公家の忠実な御用商会として、仰せの通りに役割を果たしてまいります」


・・・・・


 フィリップとの話し合いを終え、その後も細かな仕事を済ませたユーリが自身の屋敷に帰宅したのは、日が暮れてからだった。


「今日もお疲れさま。疲れたでしょう」


「ああ、少しな。とはいえ明日からは出征だ。あまり気疲れしてもいられん」


 子供たちと少し触れ合い、食事と入浴を済ませて居間で一段落つくユーリに、マイが寄り添いながら酒を注ぐ。ユーリは杯をとり、口をつける。明日は朝早くに出発なので、晩酌はワインを軽く一杯だけだ。


「……今回は大変ね。はるばるロードベルク王国南東部の端まで。次にあなたが帰って来るのは秋頃かしら?」


「早ければそのくらいになるな。戦後処理でどの程度かかるか未知数だが、年内には帰れるだろう。と言っても、今回の任務の大半は移動だ。大公国軍は敵の本隊とぶつかり合うわけでもないし、今までの戦いと比べれば楽なものだ」


「……そう」


 ユーリが気楽に言うのとは反対に、マイは心配そうな顔でユーリの肩に顔を寄せてくる。


 怖いのだろう、とユーリは思った。


 ユーリは今年で五十歳になる。ノエインの言う通り、今回の戦いを終えて当面は平和が訪れるとすれば、今回がユーリにとって人生最後の戦争になる。


 仮に数十年後、ノエインの息子エレオスの代になってまた何か戦争が起こったとしても、そのときに軍務長官として従軍するのはダントなどの一回り若い指揮官、あるいはユーリの息子ヤコフなどになるだろう。


 戦士としての人生には終わりが見えた。だからこそ、マイはこれほど心配そうな顔をしているのだ。夫が戦いで死なず、自分と共にこれからも老いてくれるという希望が見えたからこそ、その希望が失われるのが怖いのだ。


「大丈夫だ。俺は必ず生きて帰る」


 ユーリが断言すると、マイは目を丸くして、そして不機嫌そうな顔になる。


「それ、禁句じゃない。縁起が悪いわよ」


「ふっ、今さら何だ。死んでもおかしくない戦いを何度も生き延びてきたんだ。俺は長生きしてベッドの上で穏やかに死ぬよう運命づけられているに決まっている」


 ユーリは杯をあおってワインを飲み干すと、マイの方を向いた。彼女の顎に手を当て、彼女の顔をじっくりと見る。


 マイも今年で四十になるが、彼女は実年齢よりいくらか若く見える。昔と変わらず美しい、ユーリにとって最愛の妻だ。


「……何? あっ」


 マイを抱き上げたユーリは、彼女をベッドに運んだ。


・・・・・


「それじゃあ、俺がいねえ間のアスピダの警備はお前らに任せた……つっても、俺がいてもいなくても、普段から雑務はおめえらに丸投げしてるようなもんだな」


 ラドレーが言うと、執務室に呼び出されていたジェレミーとセシリアの夫婦は苦笑した。


 ラドレーは名目上、国境を守る要塞都市アスピダの警備責任者だが、自身は今も兵を率いてベゼル大森林に赴き、街道周辺の魔物狩りに勤しんでいる。


 机について行う仕事は、副官であるジェレミーや、クレイモアのアスピダ駐留部隊の隊長であるセシリアにほとんど丸投げ。最後に書類を確認して署名する手続きだけを、彼らに言われるがままに行っている状態だった。


 ジェレミーは国境警備の代理責任者として、セシリアは本土防衛のために残るクレイモア一個小隊の指揮官として、ここに留まる。明日の第二陣でラドレーとリックが発っても、残留組の二人がいればアスピダと国境警備の運営は問題なく回る。


「俺が言うことはひとつ。ベゼル街道周辺の魔物狩りだけはしっかりやっとけ。それだけだ……それと、これはここだけの話だがな。今回のベトゥミアとの戦いが終われば、大公国内に新しく貴族家が作られる。リックとダントあたりは確定だが、そこに加えてジェレミー、おめえも士爵になる。俺の推薦だ」


「……わ、私がですか?」


 目を見開くジェレミーに、ラドレーはいつもの強面のままで頷く。


「そうだ。理由はおめえが有能で、実績を見せてきたから。それだけだ。おめえが元々ランセル王国人だったことも、おめえがこっちに下った流れも関係ねえ」


 呆けた表情のジェレミーに、セシリアが明るい笑顔を向ける。それを受けて、ジェレミーもようやく実感が湧いたような笑顔になった。


「いいか、推薦した俺に恥をかかせんなよ。留守番の仕事もしっかりやれ。セシリア、おめえも旦那をしっかり支えてやれ」


「はっ、身命を賭して努めます!」


「お任せください。ご期待に応えてみせます!」


 鋭い声でラドレーが発した訓示に、ジェレミーもセシリアも敬礼で応えた。


・・・・・


「アレインさんっ! 元気に帰ってくださいよっ! うっかり死なないでくださいよっ! 三人目もできたんですからっ、自分がぶち込んだ種の責任はとってくださいっ!」


 第三子が宿る自身の腹を撫でながら、メアリーが夫で傀儡魔法使いのアレインを見送る。その言葉選びは、出征する者とそれを見送る者が行き交う広場で大声で発するものとしては品がない。


「おう、任せとけ! お前も、可愛い娘たちも、次に生まれる娘……か息子かまだ分かんねえけど、とにかく全員俺がこれからも面倒見てやる! たかが演習で死ぬわけねー!」


 メアリーに負けず劣らず元気よく答えたアレインは、キヴィレフト伯爵領へと向かう第二陣の一人。ゴーレムは分解されて荷馬車の荷台に収まっているので、身一つを運ぶだけの彼は身軽なものだった。


 古参のメイドであるメアリーはベトゥミア再侵攻の件を聞いているが、表向きは第二陣は演習での出動ということになっているので、二人とも一応発言には気をつけている。


 妻と明るく抱き合うアレイン以外にも、ラドレーやリックなど第二陣の顔ぶれが出発の準備を進め、家族と言葉を交わす。


 第二陣の出発には、君主であるノエインも立ち会っていた。ノエインの訓示――表向きの任務についての激励が終わると、正規兵や予備役兵、傀儡魔法使いなど第二陣の者たちが家族に見送られて出発する。


 メアリーも、夫の出征を見送る。このときばかりは彼女も静かに、どこか寂しげな表情で。


 見送りの集まりが解散し、メアリーも屋敷に戻った。使用人用の入り口から屋敷に入り、ひとまず食堂に入る。


「おかえりなさい~。お見送りお疲れさま~」


「おかえり。あなたも休憩にする?」


 時刻はちょうど、使用人たちが交代で休憩する時間帯。メアリーにとっては十年以上も共に働く同僚である、ロゼッタとキンバリーが出迎えてくれた。


「……そうするわっ」


 メアリーはいつもより少しだけ元気のない声で答え、空いている椅子に座る。


 空いているカップにお茶を注ぎ、二人がつまんでいた焼き菓子を自分もつまむ。


「アレインさんが心配~?」


 メアリーが少し落ち込んでいるのを見破ったロゼッタが尋ねる。メアリーは強がって答えようとして、この二人に強がっても意味はないと考え、微苦笑した。


「……心配ねっ。あの人なら大丈夫だとは思うけど、長く離れるのはやっぱり不安だわっ」


 メアリーがアレインと結婚したのはベトゥミア戦争の終戦直後。それ以降、夫となったアレインが長く家を空けたのはレーヴラント王国へと助力に出てヴィルゴア王国と戦ったときくらい。


 その際も、メアリーは強い不安と恐怖を感じた。アレインは無事に帰還したが、一歩間違えれば壊走していてもおかしくなかった中で敵に打ち勝ったという武勇伝を聞かされた時は肝が冷えた。


 夫はクレイモアの隊長格の一人だ。国を守るために戦うのが最大の使命だ。自分はそういう人間と結婚したのだ。それは分かっている。


 この戦いが終われば、おそらく以降当面は大きな戦いは起こらない。だからこそ、メアリーは怖かった。これからアレインが帰るまでの数か月、恐怖を抱え続けると思うと、今から気が重かった。


「そうよね~、私は夫が出征するのがまだ少し先だからいいけど~。離れる期間が長いほど不安も長くなるからね~」


「うちの夫は戦闘職じゃないからまだ安心だけど、あなたたちの夫は最前線に出るものね……辛いでしょう」


 ロゼッタの夫ペンスと、キンバリーの夫ヘンリクは、君主ノエインと共に最後の第三陣で発つ。第三陣が出発すれば、二人もまた不安な日々を過ごすことになる。


「……でもっ、信じて待つわっ! 皆が留守の間、あたしたちがお屋敷を守らないといけないんだしっ!」


 メアリーは努めて明るく笑った。どれだけ考えても、悩んでも、自分にできることはそれしかない。


 夫たちが後顧の憂いなく戦えるよう、ここに残って国を守る。不安と恐怖に打ち勝つ。それもまた戦いだ。

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