第432話 出発前②

 五月末。アールクヴィスト大公国軍の第三陣の出発を明日に控えた夜。ノエインは我が子エレオスと居間で話していた。


「……なるほど。それじゃあ、父上が帰ってくるのはもっと遅くなるということですね」


 明日に発つ第三陣は、ロードベルク王国北東部で発生した魔物暴走の討伐助力という名目で発つ。真の出征目的を知っているのは出征する当人たちと、ごく一部のアールクヴィスト大公家臣下だけ。


 ノエインは我が子たちにも今までそのことを黙っていた。そして、エレオスには出征前に真実を明かした。九歳になった息子ならば、国内に真実が明かされるまでの短い間、この秘密を黙っておくだけの分別があると信じて。


 戦いの前は、ある程度の歳になった息子には、本当のことを直接話しておきたかった。


「そうだね。そういうことになる。たぶん半年近くかかるかな……年内には帰って来たいけど」


「分かりました。その間、僕も母上や屋敷の皆の力になれるよう頑張ります」


 即座に答えたエレオスの言葉を聞いて、ノエインは表情をほころばせる。


「ありがとう。君は本当にいい子だね」


 エレオスは聡明で、聞き分けもいい。こうした場面で文句のひとつも言わずに、公世子としての自身に求められる役割を理解して、ノエインの期待に応える返事を見せてくれる。


 生きて帰ってくるつもりではあるが、自分に万が一のことがあってもエレオスがいれば大丈夫だとさえ思う。そう思いながら、自分が歳をとったと感じる。


「それじゃあエレオス、話は終わりだ。もう休んでいいよ」


「分かりました。あ、寝る前にフィリアに絵本を読んでやってもいいですか? 今日の昼に約束してあげたんです。もちろん、父上のキヴィレフト伯爵領へのご出征の件はまだ話しません」


「うん、もちろん構わないよ」


 父にぺこりと頭を下げ、エレオスは居間を出ていった。


 それを食堂の方から見守っていたクラーラが入れ替わりで居間に入り、三人分のお茶の載ったお盆を持つマチルダが後に続く。


「エレオスの聞き分けがよくて助かったね」


「ええ。あの子なら心配はないと思っていましたけど」


 我が子の利口さを褒めながら、ノエインとクラーラは笑い合う。ノエインの左にクラーラが、右にマチルダが座り、身体を寄せ合う。


「……僕たちが出発したら、クラーラには苦労をかけるね」


 ノエインは苦笑する。


 第一陣は重要な隊商を護衛する名目で、第二陣はロードベルク王国軍との共同訓練の名目で発った。予定時期を過ぎても第一陣と第二陣が戻って来なければ、臣民の間ですぐに話題になる。なので第三陣の出発後、数日経ったらクラーラが出征部隊の家族に真実を明かすことになる。


 兵士たちがアールクヴィスト大公国を発ったのは、隊商護衛や訓練、魔物討伐のためではない。間もなく襲来するベトゥミア共和国の軍勢に立ち向かうため、かつての復讐を果たすため、大公国の属するこの地域の平和を守るため、彼らは戦いに出た。兵士たちの家族は、ここで初めてその真実を知る。


 当然、反響が起こるだろう。兵士たちの家族は頭ではこの出征の意味や、出征の真の目的が秘密にされていた意味を理解してくれるだろうが、感情的には複雑な心境を抱く者もいるはず。自分が知らぬ間に夫を、父を、息子を大戦争に送り出していたと、後出しで明かされるのだから。


 兵士として出征した家族が生きて帰ってこない可能性は誰もが覚悟するだろうが、単なる護衛や訓練、魔物討伐の支援で発つのと、かつてロードベルク王国を窮地に陥れた大国との大戦争に発つのでは、見送る側の心構えも変わる。


 臣民たちの反響を受け止め、彼らの理解と協力を求めるのは、クラーラの役目だ。その役割は重い。大公国の母として臣民たち、特に女性や子供から絶大な支持を得ているクラーラならば十分に果たせるだろうが、楽な仕事ではない。


「私が公妃としての務めを果たすのは当然のことです。あなたとマチルダさんは敵と対峙して戦うんですから、そのことと比べたら私の仕事なんて、何でもありません……私のことなんて気にせずに、どうか無事でいてください」


「……ありがとう、クラーラ」


 クラーラに手を握られ、ノエインはそっと握り返す。


「マチルダさん。ノエイン様のこと、お願いしますね。この人と……必ず一緒にいてあげてください」


「もちろんです、クラーラ様」


 ノエインを挟んで互いに顔を見合わせ、クラーラとマチルダが言葉を交わす。


 クラーラは「ノエインを必ず守って」とは言わない。マチルダも「必ずノエインと生きて帰ってくる」とは言わない。


 マチルダはノエインと必ず一緒にいて、生死を共にする。クラーラはノエインの理想郷であるアールクヴィスト大公国に残り、国を守る。


 これはマチルダとクラーラの誓い。クラーラがノエインとの結婚を決意し、マチルダと二人でノエインを支えていくことを決めた日に交わされた絶対の誓いだ。


 二人は視線を合わせて頷き合い、両側からノエインを挟むように抱き締める。


 ノエインは二人と交互に目を合わせる。微笑を交わし、口づけを交わす。そして、寝室に移るために立ち上がった。二人に手をひかれるようにしてベッドに向かう。


 明日からはしばらく、三人一緒には寝られない。だから出発前夜は愛を交わすのだ。


・・・・・


「国王陛下。ベトゥミア共和国軍を迎え撃つ各軍の調整が完了いたしました。最終決定内容はこのようになっております」


 オスカーは軍務長官ラグナル・ブルクハルト伯爵から差し出された書類を受け取り、それに目を通す。書類にはロードベルク王国側の中央軍、西部軍、東部軍の編成と指揮系統が、整然と記されていた。


 まず、全軍の総大将かつ中央軍の大将を務めるのは、当然ながら国王であるオスカー・ロードベルク三世。


 中央軍の将として、ブルクハルト伯爵やジークフリート・ベヒトルスハイム侯爵、ライナルト・シュタウフェンベルク侯爵、エドムント・マルツェル伯爵、そしてノルトリンゲン伯爵などが並ぶ。予定されている総兵力は、ひとまず四万。ベトゥミア共和国の襲来と同時に集結を開始し、敵が王都リヒトハーゲンに到達するまでに軍勢を揃える計画が立てられている。


 そして西部軍の大将は、名目上はルボミール・ガルドウィン侯爵。しかし、まだ十代の彼では役者不足なので、南西部閥のアハッツ伯爵や、北西部閥からフレデリック・ケーニッツ伯爵家嫡男などが参謀に回る。


 西部軍は南西部閥の貴族領軍を中心に、ヴィキャンデル男爵、オッゴレン男爵など一部の北西部閥貴族も合流。総兵力は二万弱を予定している。さらにここへ、ランセル王国軍五千が友軍として合流予定となっている。


 最後に、東部軍の大将はブロニスラフ・ビッテンフェルト侯爵。また、名目上は大将と同格(実務運用上は大将の指揮下)の客将としてノエイン・アールクヴィスト大公が置かれる。


 中核となるのは両将の軍に加え、キヴィレフト伯爵をはじめとした南東部閥の貴族たちの軍勢。そして北東部閥から一部の貴族たちの軍勢。総兵力はおよそ二万強。そのうち五千は、パラス皇国との国境を固めるために割かれる。


 また、キヴィレフト伯爵領都ラーデンに拠点を置くロードベルク王国海軍も、実戦投入されることになる。指揮するのは王国軍から出向している将官と、ジュリアン・キヴィレフト伯爵。彼らはベトゥミア共和国軍の意表をついて、海上輸送を妨害することになる。


 これらの主力軍に加えて、オストライヒからリヒトハーゲンまで敷かれるであろう敵の輸送網を圧迫するための小部隊も多数置かれる。


 ミネリエン男爵の率いる聖教騎士団や、なんと大陸北部からはるばる助力を申し出てきたレーヴラント王国軍、さらには実験的に組織されたロードベルク王国の獣人部隊など、身体能力に優れる獣人・亜人たちが充てられる予定だ。


 総兵力ではベトゥミア共和国軍を上回る大軍。ロードベルク王国の歴史に残る大動員となる。


「……よかろう。これで負けるということはあるまい。軍務大臣、ご苦労だった」


「はっ」


 オスカーから労いの言葉を受けたブルクハルト伯爵は、静かに一礼する。


「それにしても、特にベヒトルスハイム侯爵やビッテンフェルト侯爵あたりには無理をさせることになるな。この戦がなければ、奴らは今年にも隠居していたであろうに。気の毒なことになった」


「ですが陛下。戦は貴族の誉れです。両侯爵には隠居前に華を持たせることができると、お考えになってはいかがでしょうか?」


「ははは、そうだな。物は言いようか……お前にとっても、これが最後の大戦か?」


「個人的には、そう願っております」


 ブルクハルト伯爵はオスカーの問いかけに頷く。彼ももう若くはない。数年後には次の軍務大臣を立て、第一線を退いてもおかしくない歳だ。


「そう願っている、か。まったく、この十数年は波乱続きだった。以降は平和を願いたいものだな」


 オスカーの治世下で、ロードベルク王国はこれまでにカドネ・ランセル支配下のランセル王国、パラス皇国、そしてベトゥミア共和国と大きな戦いをした。今回は二度目のベトゥミア共和国との戦い。わずか十五年ほどでの戦争としては多すぎる。


 オスカーの治世の前半分は、戦いとその復興に国力を費やす羽目になった。後半の治世は平和と発展を享受したい。そのためにも、これから始まる戦いに勝たなければならない。


「この編成計画通りにことが進むよう、しっかりやってくれ。頼んだぞ」


「御意。どうかお任せください、国王陛下」


 敬礼し退室するブルクハルト伯爵を、オスカーは見送った。

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