第419話 感染拡大①

 四月の時点で累計数十人程度だったヘルツゲンハイム病の感染者は、五月に入る頃には百人に届き、その後も増えていた。


 感染は領都ノエイナでは収まらず、鉱山都市キルデや要塞都市アスピダにも広がった。また、民のみならず、従士にも感染者が出た。


「……そっか、ザドレクの症状は軽いのか」


「あくまでも、他の患者と比較すれば、という程度ですが……ザドレクさんは体力もありますし、獣人は普人や亜人と比べてヘルツゲンハイム病で死亡しにくいという説もあるので、おそらくこのまま快方に向かうかと思います」


 大公家の屋敷の応接室でノエインが話しているのは、大公立ノエイナ医院で働く若き医師リリス。大公家所有農地の統括を担当する従士ザドレクがヘルツゲンハイム病らしき症状を見せたため、診察に来たのが彼女だった。


 君主への感染を防ぐため、ノエインとリリスの間には大きな板ガラスが立てられ、応接室の窓も全開になって換気がなされている。


「ああ、そういえば種族ごとに死亡率の違いがあるんだったね」


「ええ。医師の間ではそう考えられています。昔の流行時の記録をもとにたてられた説なので、ある程度信憑性もあります。ノエイン様、よくご存知でしたね?」


「子供の頃に書物でそんな話を読んだ気がするよ……ザドレクが無事に治る可能性が高いのなら、ひとまずよかった」


 ノエインは安堵の息を吐く。ノエインにとって臣下も臣民も等しく愛すべき存在だが、その中でも特によく見知った者が感染したと聞くのは、やはり心臓に悪い。


「ああ、それと、今日の午前中に別の医師がノルドハイム閣下――ラドレーさんの診察に行ったそうですが……少し症状が重いそうです」


 従士の中から出たもう一人の感染者であるラドレーのことをリリスが話題に出すと、その話を聞いたノエインの表情が硬くなる。


「……重症なの?」


「正直に言うと、その通りです。個人的には、ラドレーさんほど強い方なら無事に治ってくださると思いますが……」


 沈痛な面持ちで呟いたリリスに、ノエインは微苦笑して頷く。


「そうだね。彼が流行り病なんかに負けるとは思えない。そう信じたいよ」


「……それと、ラドレーさんがノエイン様にお伝えしてほしいと仰っていたそうです」


 要塞都市アスピダはロードベルク王国から最も遠いので、感染が広まる危険は最も少ないと、自分も兵士たちも住民たちも考えていた。油断していたとは言わないが、兵士や住民をもっと厳しく引き締めるべきだったかもしれない。感染者を発生させたのみならず、この事態に指揮を執るべき自分まで無様な有り様となった。詫びのしようもない。


 そうラドレーが語っていたらしいと、リリスは言った。


「どんな罰も受けると、仰っていたそうです」


「……そんなこと、気にしなくていいのに」


 ノエインは声が震えるのを堪え、顔を伏せた。


 高熱や咳に苦しみながら抱えているであろう罪悪感。身体が辛い中でも要塞都市アスピダの現状を憂い、ノエインに詫びる献身。ラドレーの心中を思うと、胸が苦しくなる。


 要塞都市アスピダとて、行うべき対策は行っていたのだ。真面目で自他に厳しく、リックやジェレミーなど優秀な部下も持つラドレーが、そこを抜かるはずもない。それでも感染が広がったのなら、それは流行り病そのもののせいだ。罰など与えるはずがない。


 ノエインは主君として、ただ彼の回復を祈るだけだ。


「……リリス、報告ありがとう。ザドレクの診察も、助かったよ。お疲れさま」


「いえ。他にも症状の出る方がいたら、いつでも駆けつけるので仰ってください」


 顔を上げ、笑顔を作ってノエインが言うと、リリスは一礼して退室していった。


・・・・・


「た、退屈だ」


 自宅の居間で、ダミアンはテーブルに突っ伏して息も絶え絶えに言った。


「……仕方ないじゃないですか。こんな状況なんですから」


 ソファの隣に座るクリスティが、ハーブ茶のカップを自分の口元に運びながら答える。


 感染のますますの拡大を受けて、アールクヴィスト大公国では全世帯に外出禁止令が言い渡された。


 商店や酒場、公衆浴場などは全て閉められ、最低限の必要物資のみ、家ごとの代表者が交代で買いに出ることを許されている。それも、軍による管理のもとで、スキナー商会から決まった品を渡されるかたちをとっている。何を買うかの選択肢はない。


 仕事も多くが中止されている。今は世帯が増えることも、店や工房が新たに開くこともないので建設作業は行われず、掘っても使うあてや売るあてがないので鉱山資源の採掘も休みとなっている。商店が閉まり、国境が封鎖されているので、商人たちが動けないのは言うまでもない。


 流行り病が広がる最中でも農作物は成長を止めてはくれないので、農民たちだけは働きに出ることとなる。それも、軍の管理のもと、最低限の人数が農地の区画ごとに交代制で農作業に出ている。


 隣り合う農地で同時に農作業が行われることはなく、仕事をさぼって雑談に耽るような者も皆無。もしそんなところを見られたら、最早エドガーやケノーゼに叱責される程度では済まないためだ。


 これがアールクヴィスト大公国の現状だった。そんな中で、何を作っても新規の需要がないため、おまけにそもそも鉄鉱石などの材料が入らないため、大公家直営の鍛冶工房も運営を止めている。仕事を生きがいとしているダミアンがいくら駄々をこねても、どうにもならない。


「もう十日だろお……? 退屈で死んじまうよお……」


「止めてください!」


 いつもとは違う、本気の怒気をはらんだクリスティの大声を受け、ダミアンは驚いて顔を上げた。


「本当に死んでる人だっているんですよ!? それなのに軽々しく死ぬなんて言わないでください!」


「……そ、そっか。悪かったよ」


 クリスティと結婚して、ダミアンは年々少しずつ、大人としての常識をわきまえるようになっている。自身の発言が軽率だったと思い、素直に謝る。


「それに、ダミアンさんが外に出て、もしヘルツゲンハイム病にかかったらと思うと……あなたが本当に死んでしまったらと思うと、私……」


 涙ぐんで俯いてしまった妻を前にダミアンは狼狽え、おろおろと彼女の肩を抱く。


「……よし!」


 そして、何かを決心した様子で言った。クリスティは顔を上げ、夫の方を見る。


「子供を作ろう!」


「はっ!?」


 唐突で、やや場違いにも思える提案に、クリスティは素っ頓狂な声を上げた。


「な、な、なん、なんですか急に」


「ほら、今までクリスティに言われたとき、俺は仕事が忙しいとか疲れたとか言って、子作りを後回しにしてきただろ? だけどさ、こんな大変な流行り病が起こって、世の中も自分も、いつどうなるか分からないって分かったからさ。クリスティとの子供が欲しいと思ったんだよ!」


「……じゃあ、今夜はもう避妊の魔法薬は使わないんですか?」


「そうしよう! 今夜と言わず、今から作ろう!」


 そう言って、ダミアンはクリスティの背中と膝の裏に手を回し、クリスティを抱き上げる。


「ちょ、ちょっとダミアンさん……」


「あれ? 嫌だったか?」


「……嫌じゃ、ないです」


 まるでお姫様のように抱き上げられたクリスティは、まんざらでもない表情で答え、そのまま大人しく寝室まで運ばれた。


・・・・・


「……こうして見ると、まるでキルデが廃墟にでもなってしまったみたいですね」


 アールクヴィスト大公国の北部、鉱山都市キルデ。現在は人口六百人ほどを数えるこの小都市の市街地を見回る大公国軍兵士が、共に見回りを行う大公家従士ダントに言った。


「そうだな。仕方ないとはいえ、寂しい光景だ」


 今では鉱山都市キルデの治安維持と北の国境警備の責任者となっているダントは、部下の漏らした感想に首肯で応じる。


 感染者が発生し、必要最低限度の外出以外が禁じられているのはここキルデも同じ。勝手に出歩いている者がいないか、必要な外出を行っている者同士が不用意に近づいて会話をしていないか、巡回して見張るのは今の大公国軍の重要な任務だった。


 キルデに駐留する軍の指揮官であるダントは、本来であれば部下に外での仕事を任せて自分は詰所の執務室に居座ることもできる立場だが、自身が守護を任されたこの地の現状を正しく把握するため、自らこうして巡回任務を行っている。


 廃墟にでもなってしまった、とは言い得て妙だと、ダントは部下の例えに感心する。彼の目に映るキルデの光景は、まさしく廃墟だった。


 鉱山資源の採掘を主産業とするここでは、その主産業が休止となれば多くの者が仕事を休まざるを得ない。必然的に、外を歩くのはダントたちのような見回りの軍人と、少数の農業従事者、あとは交代で買い物に出る各世帯の代表者程度だ。


 今ではそれなりに市域も広がったこのキルデで、同時に外に出ている者は二十人といないだろう。


 六百人の暮らす都市の屋外に、せいぜい十数人しか人がいないのだ。通りを見ても誰も歩いていない、という場面の方が多く、都市全体が死んでしまったかのような錯覚さえ覚える。


 実際は、住人たちは今も家の中にいて、流行り病が過ぎ去るのを待っているのだが。


「おお、これは従士ダント殿」


「……ヴィクターさん。どうも」


 巡回をしていれば、数少ない外出者とすれ違うこともある。この日ダントがすれ違ったのは、鉱山開発商会を運営し、ダントと並び立って鉱山都市キルデの社会を守るヴィクターだった。


「巡回中でしたか。ご苦労さまです」


「ありがとうございます。ヴィクターさんこそ、いつもお疲れさまです」


「何のなんの。このような状況です。この程度しか大公国のお力になれないのが申し訳なく思います」


 十分な距離を取り、鼻と口を布で隠した状態で、ダントとヴィクターは言葉を交わす。


 ヴィクターはその立場もあり、自己判断での外出を許されている数少ない人間だ。その立場を活かし、各世帯を回って玄関の扉越しに住人たちと会話し、何か生活に困ったことはないか、新たな感染者が出ていないかを聞いて回ってくれている。


 都市の名士である彼の、この行いのおかげで、住人たちはこの閉塞感あふれる状況でも比較的平穏を保っていた。


「この後もまた家々を回られるのですか?」


「ええ、今日は南西街区の家を全て回ろうと思っていますので」


 ダントの問いかけにヴィクターは頷く。独身の肉体労働者も多いキルデの世帯数は二百弱。そのうち四分の一を一日で回るのは、なかなかの重労働だ。


「そうですか。では、くれぐれもお気をつけて」


「ありがとうございます。軍の皆さんも、どうかご無理をなさいませんよう」


 ヴィクターは丁寧に一礼して、歩き去っていった。


「……ヴィクターさんがああやって明るさを保ってるんだ。軍人の俺たちが浮かない顔をしていては駄目だな」


「ですね」


 微苦笑した若い兵士を連れて、ダントは巡回を続ける。




★★★★★★★


次回から更新日をおよそ3日に1回(3の倍数の日)にペースアップしていこうと思います。

次の更新は9月18日となります。


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また、現在「このライトノベルがすごい!2023」の投票が行われています。拙著は1巻2巻ともに対象です。

このラノでの順位が高いとシリーズの安定した長期刊行にも繋がりますので、ご協力いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

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