第391話 微妙な黒幕

「やあイゴール、昨日ぶりだね。情報を吐いてくれたそうじゃない。協力ありがとう」


 ノエインがにこやかに言いながらイゴールの牢に入ると、そこには強烈な悪臭が漂っていた。


「うわぁ、凄いな」


 こもった空気の中に漂う血の臭い。そして尋問の痛みと恐怖に耐えかねて漏らしたのであろう排泄物の臭い。排泄物のうち尿は床にまで垂れて水溜まりを作っており、ノエインが立っている牢の入り口辺りには、君主の靴を汚さないために分厚いカーペットが敷かれている。


 尋問を担当していたペンスと見張り役の親衛隊兵士は口元に布を巻いており、それでも臭いに慣れきってしまったのか、平然としていた。


「……うぅ? ぅああぁ?」


 そして、うなだれて眠っていたらしいイゴールは、顔を上げて虚ろな目を見せる。昨日とはまるで別人のようになっていた。


 後々のために、顔にはほとんど傷はつけられていない。せいぜい殴られたことによる腫れが目元と頬にある程度で、それも数日もあれば引くだろう。


 しかし、首から下には尋問、もとい拷問の跡が確かに見てとれる。


 両手両足の先。かかと。腿。脇腹。上腕。身体の至るところにいくつも包帯が巻かれ、あるいは布が当てられ、それらには赤く血が滲んでいた。中でも右手の先に巻かれた包帯は、その膨らみの足りなさから指が何本か欠損しているのが分かる。


 さらに、股の間にも布が当てられ、その布も真っ赤に染まっていた。


「イゴール、目が覚めたかな?」


「……っ! ひ、ひいいいっ!」


 イゴールは虚ろな目でノエインを見留め、周囲を見回して自分の状況を確認すると、急激に怯えた表情へと変わった。


「嫌だ! もう嫌だ! 全部話した! 本当に全部話したんだ! だからもう止めてくれ! 止めてくれえぇ……」


 涙と鼻水を流しながらイゴールは叫び、その股の間からは血交じりの液体が垂れていく。


 悪臭に耐えかねたのか、傍らに控えるマチルダが小さく鼻を鳴らすのがノエインに聞こえた。


「あはは、大丈夫だよ。君が嘘をつかずに情報を話したことはちゃんと聞いてるから。尋問はもう終わりだよ」


「ほ、本当か、良かった、よかった……じゃ、じゃあ、解放してくれ。本当のことを言ったんだ。逃がしてくれよ、約束だ、約束しただろおぉ……」


 縋るような目で見てくるイゴールに、ノエインはにっこりと笑いかける。


「うん、約束だ。君を解放しよう……と言いたいところなんだけどね、」


 一瞬だけ希望に満ちた表情になったイゴールの顔が、一転して青ざめる。


「残念ながら、最初に情報を吐いたのは君じゃないんだ……というか、昨日僕が君に解放の条件を話すよりも前に、あの若い彼がべらべらと話してくれてたんだよね。だから、君が解放されることは最初からなかったんだよ。残念だね」


「……な、なんだよそれ……だってそいつが、俺に拷問してたそいつが言ったんだ。今吐けば間に合うって、早く吐いて自由になれって言ったんだ。言ったんだよぉ……何でだよ。ひでえよ。こんなの理不尽だ……」


「気の毒に、君の気持ちは分かるよ。だけどね、イゴール。世の中は理不尽なものなんだ。きっと君は、それをよく知ってるはずでしょう? 傭兵で、こういう汚れ仕事も請け負っていた君は、今まで人に理不尽を与える側だった。そして今、君自身が理不尽を被る番が来てる。それだけだよ」


 ノエインが語りかけると、イゴールは絶望的な表情を見せる。


「……くそ、ふざけるな。ふざけるなあぁ! 殺してやる! お前を殺してやる!」


「あはは、これだけ痛めつけられたのに元気だねぇ」


「俺を逃がさねえなら何でここに来た! 俺をあざ笑うためか!」


「まさか。君にはこれから死を以て、君がやったことの責任を取ってもらうからね。そのことを、この国の君主として直々に伝えに来たんだよ。僕なりの誠意さ」


「くそ! 馬鹿にしやがって! てめえ絶対に許さねえ! 今すぐムゴオッ! ムグ、モゴオオッ!」


 喚くイゴールの口にペンスが布を詰め込み、さらにその上から布を巻いて塞ぐ。


「それじゃあイゴール、次は処刑台でね」


 尚も悪あがきをするイゴールに手を振って、ノエインは牢を後にした。


・・・・・


「はあ、やっと臭いが鼻からとれた気がするよ……」


「お疲れさまでした、ノエイン様」


 自身の執務室に戻ったノエインは、マチルダに淹れてもらったお茶の香りを深く吸い込み、呟いた。先ほどまで悪臭に晒された自身の鼻を癒してやるために、今日は珍しくハーブ茶だ。


 執務室にはユーリと、外務長官であるバート・ハイデマン士爵もいる。


「にしても、黒幕は意外なところだったね」


 ミレリッツ商会の商会員を名乗る三人に尋問を行った結果、彼らが語った黒幕は、ロードベルク王国南西部のある貴族領に拠点を置く商会だった。


 南西部閥の盟主ガルドウィン侯爵家と領地を接する、ソロンハイト男爵家。その領地に拠点を置くヘルダー商会。そこの商会長の手先である二人の商人と、汚れ仕事の手伝い役として雇われた一人の傭兵。それが三人の正体だった。


 商会長の命令は、アールクヴィスト大公国、その中でも特に公都ノエイナの治安を乱し、交易都市としての評価を大きく落とすこと。


 そのための手段として、大公国ならではの特徴――普人も亜人も獣人も平等に扱われている点の、その不安定さを突くことを指示されていたという。その指示に基づいて、窃盗や暴行、落書きなどの具体的な犯行を考えたのがイゴールであるらしかった。


「私も、ソロンハイト男爵家とヘルダー商会の名前は知っています。ソロンハイト領にはロードベルク王国の南西部国境からランセル王国へと繋がる主要な街道の一つが通っていて、そこを経由しての貿易を牛耳っているのがヘルダー商会だったはずです」


 バートの説明を聞いて、ノエインはしばし考える。ユーリも顎髭を撫でつけながら考え込むような様子を見せる。


「確か、ベゼル街道を経由しての貿易が始まってから、南西部国境を経由しての貿易の規模は少し小さくなったんだったね?」


「……ということは、貿易規模の縮小によって利益の減ったソロンハイト家とヘルダー商会による、アールクヴィスト大公国への妨害、というのが真相になるか」


 ノエインたちの考察に対して、しかしバートは首をかしげた。


「普通に考えればそうなるんですが……ソロンハイト家の関与については、個人的には少し違和感があります。少なくとも話に聞いている限りの評判では、あの家はまともな貴族家だったはずです。現当主についても、南西部の派閥盟主を取り巻く主要貴族の一人として有能な人物だと聞いています」


「となると……それほどの貴族が、ロードベルク王家と繋がりの深いアールクヴィスト大公家の膝元で安易な工作活動をさせるとは思えんな」


「ええ。それに、南西部国境での貿易の規模は一時は縮小したとはいえ、それも大きな打撃にはなっていないと聞いています。特に大きな街道を抱えるガルドウィン侯爵領などは、ランセル王国との国交が活性化していることで、むしろ以前にも増して栄えていると」


「そう聞くとますます違和感があるね。工作で得られる利益と、失敗したときの損失がどう考えても釣り合わない」


 バートのさらなる説明を聞いたノエインとユーリは、さらに首をかしげる。バートも不可解そうな表情を見せる。


「……これは、もう少し調べた方が良さそうだね」


「そうだな。現段階の情報だけでは、推測するにも限界がある」


「それでは、私はソロンハイト家とヘルダー商会について、もっと詳しい情報を集めてみます」


 ヘルダー商会がどのような理由で公都ノエイナでの工作活動を行わせたのか。ソロンハイト家は関わっているのか。その真相については、さらなる調査が必要ということで話がまとまる。


「それじゃあ、バートには引き続き情報収集をお願いするね。僕たちの方は……公開処刑の準備だ」


 そう言って、ノエインはまた薄い笑みを浮かべた。

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