第384話 不穏な事件

 二月の終わり。アールクヴィスト大公国軍本部の総指揮官執務室で書類仕事を行っていたユーリ・グラナート準男爵のもとに、公都ノエイナの巡回を担当していた兵士が報告に訪れた。


「盗み?」


「はっ、北西街区の集合住宅の一室に、住人の留守中に侵入者があったとのことです。現場を見ましたが、酷く荒らされていました」


「……そうか、それで?」


 ユーリは小さく眉を顰めながら、そう尋ねる。


 アールクヴィスト大公国の治安は、隣国と比べると遥かに良い。しかしそれでも、窃盗事件や喧嘩から発展した傷害事件などは時おり起こっている。傷害致死や強姦などの凶悪事件も、今まで数えるほどしか起きていないが、皆無ではない。


 大公国では比較的低所得である労働者層向けの集合住宅に盗みが入るというのは、事件の中では軽い部類に入る。正規兵と予備役、クレイモアなどを合わせて五百人以上をまとめる立場のユーリに、急いで報告されるほどの出来事ではない。


「その事件現場が少々異様でした。被害者は猫人の若い男なのですが、おそらく盗み自体が目的ではなく、獣人への嫌悪感から起こった事件です。できる限り早く閣下のお耳に入れるべきかと思い、お時間を頂戴した次第です」


 歩兵部隊の小隊長で、今日の公都巡回の責任者である中年の兵士の言葉に、ユーリはより一層眉を顰めた。


「詳しく聞こう」


「はっ。実は……室内の荒らされ方が妙でした。金目の物を探して棚の中やベッドの下などが探られた様子はあり、実際に千レブロほどが盗まれていたそうなのですが、それ以外にも机や椅子が壊されていたり、毛布や衣類が切り裂かれていたりと、盗みではなく破壊が目的と思われる行動の痕跡がありました」


「……なるほど、確かにそれは妙だな」


「それに加えて……その、壁に大きく、獣人を侮蔑するような言葉が書かれていました。相当に下劣な言葉で書き殴られたもので、被害者や近隣の獣人たちが大きな衝撃を受け、怯えているようです」


「……」


 最初に聞いて想像したよりも深刻な事件かもしれない、とユーリは考えた。単なる一個人による嫌がらせならまだ良いが、これはもっと面倒な事態になるかもしれないと。


 一戦士としても大勢をまとめる指揮官としても戦いを重ねてきた身として、直感的に嫌な予感がした。


「よし、俺も現場を見よう」


「っ!? 閣下が自らですか?」


 さすがに軍務長官が自分の足で現場に出てくるとは思わなかったのか、小隊長は驚いた表情を見せる。


「下手をすると、今後しばらく後を引く事件だ。現場がどのような様子だったのか、俺自身の目で見てアールクヴィスト大公閣下にもご報告を入れねばならん。案内してくれ」


 武門の最上位であるユーリに有無を言わさぬ口調で言われては、一介の士官がそれ以上意見することはできない。小隊長は敬礼し、すぐにユーリを事件現場へと案内する。


・・・・・


 公都ノエイナは南東側に地主など富裕層の住宅が並び、南西側には職人街が、そして北側には商業区や中流層の家々が並ぶ。なかでも最も後に開発された北西街区には、独身者や低所得者向けの集合住宅も立ち並んでいる。


 木造三階建ての集合住宅の狭い一室、今回の事件現場に入ったユーリは、部屋の壁を見て険しい顔になった。


「……なるほど、酷いな」


 その壁には「半獣のくせに汚い足で街を這い回る人間もどきが」「半獣の分際で不相応な暮らしをしやがって」などの罵詈雑言が大きく書き殴られていた。ユーリでさえ思わず顔をしかめたのだ。自室に帰って来てこれを見た獣人の被害者がどれほどのショックを受けたことか。


「被害者への聴取の結果は?」


「まだ動揺が激しく聞き取りに少し難儀しましたが、これほどの憎悪を向けられることに、思い当たる節はないそうです。誰かの強い恨みを買ったことも、普人や亜人と揉めた記憶も特にないと」


 ユーリの問いかけに、現場での対応に当たっていた若い兵士が答える。


「ということは、犯人は獣人そのものへの憎悪でこのようなことをした可能性が高いわけか……」


 ユーリは顎髭を撫でつけながら考える。


 これが被害者への個人的な恨みから起こった事件であれば、話は単純だった。しかし、獣人そのものへの憎悪感情や差別感情からの犯行となると質が悪い。


 アールクヴィスト大公国での獣人の扱いは、このアドレオン大陸南部の常識から考えると相当に特殊だ。


 君主であるノエインの長年の政策もあり、マチルダやザドレク、ケノーゼやドミトリなど高い立場にいる獣人たちの存在も影響しているため、表立っての獣人への差別や迫害はほとんどない。


 普人や亜人の臣民もほとんどがこの現状を受け入れており、人によって距離感は違うものの、獣人の国民と概ね穏やかに共存している。喧嘩などの場で侮蔑的な言葉がつい口をついて出る者も偶にいるものの、普段から大っぴらに獣人を差別する者は皆無と言っていい。


 だからこそ、この事態は面倒だった。


 この国に暮らす普人や亜人の全てが、心の底から獣人を平等に見ているとはユーリも思っていない。ロードベルク王国からこの国へ移り住むまでに培った、獣人への差別感情を押し殺しながら暮らしている者もいるだろう。


 そのような者がいるとして、普段はそれを隠している分、特定は非常に難しい。犯人がこの一度きりで満足して溜飲を下げるとも限らない。模倣犯が出ないとも限らない。


「とりあえず、通常の犯罪捜査を行え。目撃証言や物証から犯人を特定できれば、それに越したことはない」


「了解しました」


 ユーリはひとまずの指示を出し、傍らに控える小隊長は敬礼をして答えた。


・・・・・


「……それで、今のところは手がかりは無しか」


 数日後。自身の執務室で、ノエインはユーリから事件について報告を受けていた。


「ああ。面目次第もない」


「仕方ないさ。時間と場所が悪かったね」


 深刻な表情で言ったユーリの罪悪感を和らげるために、ノエインは穏やかに笑い、首を横に振って見せる。


 大公国軍による捜査が行われた結果、目立った成果はなかった。


 事件が起きた当日、幸か不幸か被害者は親戚の家に泊まりに行っており、部屋は完全に留守の状態だった。集合住宅の一階にある犯行現場に犯人はおそらく窓から侵入しており、推定される犯行時刻が深夜だったこともあり、有力な目撃情報はない。


 そして、犯行現場に犯人のものと思われる証拠品なども残っていなかった。この状況から犯人を特定するのは、限りなく不可能に近い。


「これ以上できることは……人の出入りの多い公都北部を中心に、見回りを増やすくらいしかないかな。特に夜に」


「大公国軍としてもその前提で、巡回計画を組みなおした。内容に問題はないと思うが、ノエイン様にも一応確認してもらいたい」


 そう言ってユーリが渡してきた書類を、ノエインは受け取ってざっと目を通す。


「うん、問題ないと思うよ。可哀想に、臣民たちも不安がってるだろうからね。彼らにも声をかけながら、兵士が小まめに見回っていることを印象づけてあげてほしい」


「了解した。それと……これはあくまで個人的な意見というか、単なる勘なんだが」


 その言葉に、ノエインは書類から顔を上げて小さく笑みを浮かべた。


「聞かせてもらおうか。昔からユーリの勘は当たるからね」


「……今回の事件、少し嫌な予感がする。獣人嫌いな一個人の鬱憤晴らしでは終わらない気が。俺の考えすぎならそれに越したことはないが……もっと根深い問題を引き起こすような、不穏な気配が感じられる」


 深刻そうなユーリの顔を見て、ノエインも真剣な表情になった。


「そうか……だけど、現状でできることは」


「ああ、ほぼない。戦争と違って国内の問題で、相手はこの国の臣民だからな。俺の勘だけで兵士たちを動かして、滅多矢鱈に捜査の手を入れるわけにもいかん」


「だね。今の段階で、僕の名前で国全体に何か布告をするわけにもいかないし」


 後味の悪い事件だが、今できることは、これ以上似たような事件が起きないように治安維持に努めることだけだ。


 ノエインはあらためて見回りの強化に励むよう君主の名で指示を出し、ユーリは大公国軍の最高責任者としてそれに頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る