七話 愛
ゴーレム操作の訓練を延々と続ける日々は、ノエインの人生において、かつてなく過酷なものとなった。
ゴーレム操作に慣れるには、ひたすら操作をくり返すしかない。そう考えたノエインは、毎日何時間も、気が遠くなるほどゴーレムを動かし続けている。ゴーレムの両の拳を突き出させ、ゴーレムを歩かせ、ひたすらそれを続けている。
単純な操作のみとはいえ、そしてノエインの魔力がいかに豊富とはいえ、それだけの訓練を続けるのは楽ではない。一度魔力切れで気絶してマチルダにひどく心配されてからは適度に休むようにしているが、それでも過度の集中による精神的な疲労は抑えられず、毎日の訓練が終わる頃にはくたくたになっている。
そんな訓練の日々をくり返して一か月と少しが経った頃。これまで特に目に見える成果がない中で、今日も午前中ずっとゴーレムを動かしていたノエインは、昼食をとった後は休息のためにベッドで昼寝をしていた。
季節は秋の後半。窓から降り注ぐ柔らかな陽光に包まれて微睡みの中にいるノエインは、ふと、顔の近くに気配を感じた。その優しい気配はマチルダのものだ。
眠ってはいないが、まだ完全には起きてもいない。その曖昧な意識の中で、吐息が頬に届くほど近くにマチルダがいるのをノエインは感じる。
顔のすぐ傍に優しい気配が留まり、吐息が頬に触れる時間がしばらく続く。
おそらくマチルダは、眠るノエインの顔を間近でじっと見ている。何故そんなことをしているのだろうと思いながら、ノエインが目を開けるか迷っていると、その唇に何か柔らかいものが触れた。
薄らと目を開けると、マチルダは自分の顔をノエインの口元に寄せていた。触れた柔らかいものは彼女の唇だ。
マチルダはノエインの唇をついばむように、何度かキスをしてくる。そして、そのままノエインの唇に吸いつく。
ノエインの唇の表面が、マチルダの唾液で潤う。その少しだけ大胆なキスを終えて、ノエインの口元から顔を上げたマチルダと――今は驚きで目を見開いていたノエインの、視線がぶつかった。
「っ!!」
そこでようやくノエインが起きていることに気づいたマチルダは、ぎょっとした表情でベッドから飛び退く。
「マチルダ?」
「も、申し訳ございませんっ!」
ノエインは穏やかに声をかけたが、マチルダは青ざめて言った。そして、青い顔のままその場にひれ伏した。
「申し訳ございません! 奴隷の分際で、申し訳ございません!」
そうくり返すマチルダにどう返したものかと思いつつ、ノエインはひとまずベッドを降りて床に膝をつく。そうしてマチルダと視線の高さを合わせると、彼女に「顔を上げて、マチルダ」と、なるべく優しく聞こえるように言った。
おそるおそる顔を上げたマチルダに、ノエインは微笑みかける。
「どうして僕に口づけをしてくれたのか、教えて?」
「も、申し訳……」
「大丈夫。怒ってるんじゃないよ。ただ、マチルダが僕のことをどう思ってるのか知りたいんだ。教えて?」
口調はあくまで穏やかに、しかし真っすぐに視線を向けながら尋ねるノエインに、マチルダは怯えながらも口を開く。
「……お慕いしています。私はノエイン様を心から愛しています。奴隷の分際でとんでもない傲慢な感情だとは理解しています。それだけでなく、お眠りしているノエイン様に勝手に接吻するなど、許されない振る舞いです。どのような罰も甘んじてお受けします」
まるで死を覚悟したような顔でマチルダは言った。言い終えると、彼女は目をギュッと瞑り、手に力を込めてノエインの言葉を待っていた。
ノエインはそんな彼女に何と声をかけようか少し考えて――何も言わず、彼女を抱き締めることにした。
「……っ?」
マチルダは一瞬ビクッと身を竦ませて、自分が抱き締められているのだと気づくと驚いて目を見開く。
「ありがとう、マチルダ。嬉しいよ。嬉しい、凄く嬉しい」
今度はノエインの方が、吐息が届くほどの距離に顔を近づけてマチルダに語りかける。
「ねえマチルダ、僕のことを愛してるんだよね? どうして愛してるの? どんな風に愛してるの? どのくらい愛してるの? 教えて?」
そして、そう問いかけた。マチルダは数センチメートルの距離でノエインを見つめ返しながら、考えながら、ぽつぽつと語る。
「……私は、幼い頃に信じていた両親に奴隷として売られて、この屋敷で他の使用人や奴隷たちから酷い扱いを受けて、毎日絶望していました。もう一生、誰も私に優しくしてくれないのだと、世界中みんなが私を嫌っているのだと思っていました」
「……」
マチルダの生い立ちはノエインも知っている。
彼女の生家はキヴィレフト伯爵領のとある農村の小作農家で、彼女の両親は一番上の兄ばかりを大切にして、他の子供をあまり可愛がらなかった。一番上の兄以外の兄弟は、ある程度の歳になると急に家からいなくなっていった。
そんな環境でも生みの親を慕っていた彼女は、五歳を過ぎた頃に知らない男に引き渡され、金貨を手にした両親に見送られて家を出た。
そして、この屋敷に連れて来られ、わけが分からない過酷な日々の中で歳を重ね、やがて自分が両親によって奴隷商人に売られたのだと知った。他の兄弟たちも奴隷として売られ、あの日ついに自分の番が来たのだと知った。
そんな過去があったのだと、ノエインはこれまでに彼女から聞いていた。
「ですが、ノエイン様は違いました。ノエイン様は私に優しくしてくださいました。ノエイン様は……あの日、初めてお会いした日、私を撫でてくださいました。抱き締めてくださいました」
マチルダの目から涙が零れ出す。
「あの日から私の人生は変わりました。いえ、始まりました。それまでの私に人生はありませんでした、私は無でした。今の私は幸福で満たされています。全てノエイン様に与えていただいた幸福です。私はノエイン様から人生をいただきました。だから……」
泣きながら想いを語るマチルダがたまらなく可愛くて、ノエインは彼女の頬に手を添えた。マチルダはその手に自分の手をそっと重ねながら、なおも語る。
「だから、私はノエイン様を愛しています。私の全てをノエイン様にお捧げしたいと思っています。私の身体の全てを、髪の一本から血の一滴まで全てをノエイン様のものにしていただきたいです。私の全ての時間をノエイン様のために使いたいです。私の心の全てを、ノエイン様を愛することに使いたいです。私はノエイン様の一部になりたいです。ノエイン様が私の生きる意味の全てです。愛しています。申し訳ございません。愛しています」
マチルダが長い告白を終えて、それを聞いたノエインは――――笑みを浮かべた。
「あぁ……」
そして、吐息を零した。
これが愛か。そう思った。
愛、という概念は知識として知っている。様々な書物にそれは出てきた。伴侶に、親に、子に、友に。人が人に捧げる最も大きな好意として、愛は幾多の物語の中に、歴史の中に、手記や日記の中に記されていた。
それを今、ノエインはマチルダから受け取った。彼女のおかげでノエインは愛を知った。
いや、今までも受け取っていたのだろう。かつて可愛がったリスや雛鳥とは違う、もっと奥深くもっと熱い感情をマチルダが自分に向けてくれていることは、ノエインも何となく気づいていた。それが愛だったのだ。
確かな熱と感情と共に「愛している」と告げられ、言葉を尽くして自分のことをいかに大切に思っているか、特別に思っているかを語られる。自分のために涙を流される。自分が与えたものを肯定され、自分自身を肯定される。
愛とは何と素晴らしいものだろうか。愛を受けるとは、何と幸福なことだろうか。
ノエインは自身の心の内が満たされるのを感じた。それは身が震えるほどの高揚を伴い、同時にこれさえあれば生きていけると思えるほどの安らぎを伴う、かつてない、全能の幸福だった。
「……マチルダ」
ノエインは自分を愛してくれる目の前の存在の名前を呼びながら、笑みを深める。
それは常軌を逸した笑みだった。傍から見れば気が触れたと思われるであろう異様な笑みだった。
「ノエイン様……」
しかし、そんな笑みを浮かべるノエインを、マチルダは愛しいと感じる。ノエインが自分の愛を受け取って喜んでいるのだと分かり、自身もまた喜びを感じる。
「ありがとうマチルダ。僕は……僕も、君を愛してる。マチルダのことを心から愛してる」
そう言って、ノエインはマチルダを抱き締めた。
今までマチルダを可愛がるときに感じていた、彼女と触れ合うときに感じてきた、不思議な気持ち。リスや雛鳥を愛玩していたときとは違う、もっと複雑で壮大な気持ち。孤独も不安も、あらゆる負の感情が溶け去っていくような気持ち。
これが愛なのだろうとノエインは思った。自分がマチルダを愛していたのだと、この不思議な気持ちが愛だったのだと確信した。
「……これは、夢ではありませんか?」
ノエインに抱き締められながらしばらく黙り込んでいたマチルダは、そんなことを呟く。
「あははっ、もちろんだよ。だってこんなにあったかいでしょう?」
そう言いながら、ノエインはマチルダを一層強く抱き締める。互いの心臓の鼓動が感じられるほどに二人の身体が密着して、体温を伝え合う。
ノエインの肩にマチルダの涙が零れて、服の襟を温かく濡らした。
マチルダの両腕がノエインの背中に回り、ノエインが少し痛いと感じるほどに強く抱き締める。ノエインにしがみついたマチルダの身体が小さく震える。
「……私は世界一幸福な奴隷です」
マチルダの熱い吐息がノエインの耳にかかる。
「僕も幸福だよ、マチルダ。君の愛が僕を幸福にしてくれたんだ」
そう答えながら、ノエインはマチルダを抱き締める手を少し緩めて、彼女と目を合わせる。
今度はノエインの方から唇を重ねようとすると、マチルダが怯えるような表情を見せた。
「どうしたの、マチルダ? 口づけは嫌だった?」
ノエインも少し不安げな顔をして尋ねると、マチルダは慌てた様子で首を横に振る。
「いえ、違います。私がノエイン様を拒むことなどあり得ません。ただ……先ほどノエイン様に口づけをしたときの気持ちを思い出したのです。いつか来る、ノエイン様とお別れする日を想像したときの気持ちを」
「……?」
彼女は何を言っているのだろうとノエインは思った。自分たちは愛し合っているのだ。この先もずっと一緒にいるに決まっている。別れる理由がないし、別れる気もない。
「ノエイン様は、自分が成人したらこの屋敷を追い出されるのだろうと仰っています。そうなったら、キヴィレフト伯爵家に所有されている奴隷の私はまた本館の仕事に戻されます。ノエイン様のお傍にいられない人生など、私の人生ではありません。ノエイン様がこの屋敷を出られる日が、私の人生が終わる日です……そんな日が数年後にやってくるのだと思うと、寂しさと悲しさを堪えきれなくなって、眠っておられるノエイン様にあんな真似をしてしまったのです」
その話を聞いたノエインは息を呑んだ。
そして、彼女に対して何と可哀想なことをしてしまったのだろうと思った。
もうだいぶ前から、ノエインはいつか自分がキヴィレフト伯爵家を放逐された後も、彼女を傍に置きたいと思うようになっていた。ノエインにとって既に彼女が傍にいるのが当たり前で、その当たり前を永遠のものにしようと思っていた。
そのために金も貯めるつもりでいた。小遣いを少しずつ貯め、父の言い値でマチルダを買い取って連れて行くと決めていた。
しかし、それはノエインが頭の中で考えていただけのことだ。ノエイン自身はそうするのが当然と思っていたが、口に出して言わなければ彼女に分かるはずがない。彼女は、いつかノエインが自分を置いてこの屋敷を出ていくと思っていたのだ。
ノエインはマチルダの顔に両手を添え、まつ毛が触れ合うほどの距離で彼女を見つめながら口を開く。
「そんな日は来ないよ、マチルダ。僕がキヴィレフト伯爵家から追い出されるときは、君も連れて行く。幾ら払ってもクソ父上から君を買い取って連れて行く。売るのを拒否されたら攫ってでも連れて行く。絶対に連れて行く。ずっとそう決めてたんだ。だから僕たちはずっと一緒だ。一生一緒だ。一緒に生きて、一緒に歳をとって、一緒に死のう。ずっとずっと愛し合おう」
マチルダの目が大きく見開かれるのが、間近からでも分かった。
「マチルダ、これからもずっと僕の傍にいてくれる?」
「…………はい。どうかあなた様の傍で、私の全てを捧げさせてください」
滂沱の涙を溢れさせながら答えたマチルダに優しく微笑み、ノエインは今度こそ唇を寄せた。
二人の唇が重なり、二人の吐息が互いの口の中で混ざり合う。
最初よりも甘美で、もっとずっと深いキスは、その後もしばらく続いた。
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