五話 抱擁

 市街地での買い物の方法については、あっさりと解決策が見つかった。


 ロードベルク王国の人口およそ二百万人のうち、二割強は獣人だ。王国南部に位置するキヴィレフト伯爵領では獣人の割合はやや少なく二割弱ほどだが、それでも領地の人口七万人のうち一万数千人を、領都ラーデンだけで見ても人口三万人のうち五千人ほどを獣人が占めている。


 その半数以上が奴隷だが、あとの者は財産権を持つ平民だ。なかには職人や商人、自作農として一定の成功を収め、平均以上の収入を得ている者もいる。


 当然、そんな平民の獣人たちを客として獣人が経営する店も、ラーデンにはいくつも存在する。そこでなら、マチルダは問題なく必要な買い物を行うことができる。


 そのことに思い至ったノエインが、ラーデンの市街地西区にある獣人街までマチルダをお遣いに行かせると、以降は何の問題もなく必要な品を買うことができるようになった。


 獣人向けの店でも、よほど希少な品を求めるのでなければ大抵のものは手に入る。ノエインはマチルダのお遣いのおかげで日用品、消耗品、嗜好品を幅広く手に入れられるようになり、以前にもまして快適な生活環境を整えることができるようになった。


 そして、マチルダもその恩恵に与っていた。


「マチルダ、いい匂いだね。それに艶があって綺麗だよ」


「……ありがとうございます、ノエイン様」


 二人で並んでベッドに腰かけ、ノエインがマチルダの髪に顔を近づけて匂いを嗅ぎ、彼女の目を見て言うと、マチルダはそう答える。表情はあまり変わらないが、その頬はかすかに赤い。


 ノエインが褒めたのは、風呂から上がったマチルダが髪に薄く塗った香油だ。ノエインが自身の小遣いで彼女に買い与えたそれは、ほのかに柑橘系の爽やかな匂いがした。


 ノエインがマチルダの髪を撫でると、艶のある黒髪はさらさらとした手触りで指の間を抜ける。


 半年以上前、ノエインと出会った当初は、マチルダの髪は痛み、肌には殴られた痣や腫れが目立っていた。


 しかし、今は彼女の髪には艶が戻り、肌も綺麗になっていた。ノエインと同じ食事を取り、まめに入浴するようになったことで栄養状態や衛生状態が改善され、何より精神的な安らぎを得ている証左だ。


 そしてもうひとつ、マチルダには変化が表れていた。


「マチルダ、また少し胸が大きくなったね」


「はい、ノエイン様」


 ノエインが視線を向けた先、マチルダの顔よりやや下では、以前より一回り豊かになった胸が服を押し上げている。


 種族的な特性として、兎人の女性は胸が大きい傾向にある。それを考えると、今までのマチルダの胸はどちらかといえば控えめな大きさだった。


 しかし、成人したとはいえ十五歳でまだ成長の余地があり、食するものの質が急激に良くなったためか、マチルダの胸は明らかに発育を見せている。このまま種族に見合った大きさへと変化を遂げることだろう。


「……ノエイン様は、大きな胸はお嫌いですか?」


 もの珍しそうな視線を向けるノエインに、マチルダは尋ねる。その声には不安の色が少し含まれていた。


「そんなことないよ。むしろ大きい方が好きかも。気持ちいいし」


「そう、ですか……よかったです」


 ノエインの答えを聞いて、マチルダは顔をほころばせた。


 最近のマチルダは、こうして安心したような表情を見せることも多い。当初のような怯えや警戒の色を見せることは全くと言っていいほどなくなり、こうして自分がノエインから好かれているかを確認し、安堵するような言動もするようになった。


 それが、ノエインにとっても嬉しかった。できる限り可愛がり、できる限り優しくしてきたことに、彼女もこうして応えてくれているのだと思うと喜ばしかった。


「……ねえマチルダ。いつもの、いい?」


「もちろんです、ノエイン様。どうぞ」


 ノエインが甘えた表情で言うと、マチルダはそう答えて両手を広げる。ノエインは彼女と向かい合うような姿勢で彼女の膝にまたがり、抱きついた。


 年のわりにも小柄なノエインが、女性のわりに背が高いマチルダとこうして抱きつくと、ちょうど彼女の胸に顔を埋めるような体勢になる。マチルダもノエインの背中に手を回し、しっかりと抱き寄せてくる。


 こうしてマチルダの体温と匂い、彼女の肌の柔らかさ、彼女の息づかいを感じていると、とても不思議な気持ちに包まれる。心が穏やかになり、体の芯が温かくなる。


 ノエインはこの感覚がどうしようもなく好きで、今では夜眠るとき以外にも、たびたび彼女に抱きついていた。マチルダも嫌な顔をすることはなく、むしろ嬉しそうに受け入れてくれた。


 ときには服越しに胸に顔を埋めるだけでなく、マチルダの服のボタンを外し、彼女の素肌の胸に吸いつくこともある。そのときにマチルダの腕に力が込もり、彼女の吐息がより一層温かくなるのも、ノエインは好きだった。身も心もマチルダに包まれるこの触れ合いに、喩えようのない安らぎと満足感を覚えていた。


「……マチルダ」


「……ノエイン様」


 今日もノエインは、マチルダの服のボタンに手をかける。安らぎと満足感を得るために。


・・・・・


 出会った当初、マチルダにとってノエインは理解し難い存在だった。


 当主の息子でありながら小さな離れに閉じ込められて暮らし、世話係は獣人奴隷の自分一人だけ。まだ九歳であるにもかかわらず、妙に大人びた、どこか諦めて達観したような雰囲気を纏う、歪な少年。それがノエインだった。


 人としての歪さとは裏腹に、ノエインはあの乱暴で冷たい当主の息子とは思えないほど、マチルダに優しかった。


 最初はそれが怖かった。何かの罠か、気まぐれの遊びかと思った。いつ手のひらを返されて、ひどい暴力を振るわれるのだろうか。そんなことを考えていた。


 それがどうやら自分の勘違いらしいと、数週間が経った頃には思うようになっていた。


 ノエインはひたすらに優しかった。どこまでも可愛がってくれた。良い食事を与え、物を与え、穏やかな時間を与え、知識を与えてくれた。頭を撫で、抱き締めてくれた。


 ちょうど一年ほど前、ノエインと出会ったばかりの頃と比べて、マチルダは何もかもが変わった。肌や髪は綺麗になり、身に着ける衣服も綺麗になり、身体の発育は良くなり、自然と笑顔を浮かべられるようになり、そして賢くなった。


 今なら理解できる。ノエインがマチルダの食事を改善するために父に支払う一千レブロがどれほどの大金か。ノエインから与えられる石鹸や香油がどれほどの贅沢品か。ノエインから与えられた読み書きと算術の知識が、文章を読むことのできる知恵が、この世界を生きる上でどれほど貴重なものか。


 まだようやく十歳になったばかりの彼は、なんと偉大で、なんと慈悲深い人なのだろう。彼のような人の世話をして、傍にいることができる自分はなんと幸運で幸福なのだろう。


 そんなことを思いながら、マチルダは日々を生きている。一年前は知らなかった充足感に満たされながら。一年前は知らなかった安らぎに包まれながら。


「……ねえ、マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 ノエインは時おりそうするように、今日もマチルダに甘えた表情を見せる。マチルダはそれに微笑みと抱擁で応える。


 まだ十歳とはいえノエインは男で、自分は成人した女だ。それは分かっている。その上で、マチルダはこうしてノエインと抱き締め合うことが不快だなどとは微塵も思わない。むしろその逆だ。ただひたすらに大きな喜びを感じる。


 ノエイン以上の人間はいない。であれば、ノエイン以上の男もいない。まだ十歳でも彼はこれほど素晴らしいのだ。であれば、今後も彼以上の男などこの世にいるはずがない。マチルダはそう考えて、自身の考えを微塵も疑わない。


 間違いなく世界で一番素晴らしい人間であるノエインが、自分にはこうして素の表情で甘え、触れ合いを求めてくれる。それはマチルダにとって、身も心も震えるほどに嬉しいことだった。


 だからマチルダは、この触れ合いの時間に喩えようのない喜びを感じる。彼に仕える従者として。彼の傍にいる一人の女として。


 崇拝に近い愛情を抱き、しかし奴隷の身でそれを口に出すことはせず、マチルダはノエインを抱き締める。




★★★★★★★


お知らせ:

4月25日発売の書籍1巻の表紙デザインが公開されました。

近況ノートや作者Twitterでも公開していますので、ぜひご覧ください…!

また、書店や各販売サイトでの予約も始まっています。ご予約をいただけますと何よりの喜びです。

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