四話 マチルダの初めてのお遣い

 数週間が経つ頃には、ノエインもマチルダも、この離れでの暮らしに慣れた。


 当初は必要最低限の、それもノエイン一人分の備品や家具しかなかったこの離れだが、今はマチルダの分の椅子と、マチルダの分のタオルと、マチルダの新品の着替えも置かれている。茶葉も常備するようにしたので、単なる沸かした井戸水ではなく、味のあるお茶を好きな時に飲むこともできるようになった。


 これらの品は全て、初月の小遣いのいくらかの返金と引き換えに本館から引っ張ってきたもの。実質的にノエインが父から購入したかたちとなっている。


 最初より快適になったこの離れで、今はマチルダに読み書きと算術を教えるのがノエインの日常になっていた。


「全部正解だよ、すごいよマチルダ。もう一桁の足し算と引き算ができるようになっちゃったね」


 適当な練習問題を彼女に与えたノエインは、彼女の解答を見て感心する。


「文字も三十一個のうち十五個まで覚えちゃったし……マチルダはすごく頭が良いんだね。偉いよマチルダ、えらいえらい」


「……ありがとうございます、ノエイン様」


 ノエインがマチルダの頭を撫でると、マチルダはそう答える。表情こそほとんど変わらないものの、声にはまんざらでもなさそうな喜びの色が含まれる。


 今も時おり自身の扱いに困惑の表情を浮かべることもあるマチルダは、しかし少なくとも怯えを見せることはなくなった。ノエインから乱暴な扱いを受けることはないのだと理解し、信用した様子を見せていた。


「この調子なら、マチルダもそう遠くないうちに読み書き計算ができるようになるだろうね。そしたら買い物もできるようになるし、僕みたいに書物も読めるようになる。きっと楽しいことが増えるよ」


「はい、ノエイン様のお役に立てるようにがんばります」


 現状ノエインが新たな物品を手に入れるには、父への手紙をマチルダに届けさせて、父の言い値を支払って本館の物を譲り受けるしかない。しかし、マチルダが読み書き計算を覚えれば、彼女に屋敷の外へとお遣いに行ってもらうこともできるようになる。


 そのためにも、ノエインは毎日マチルダに知識を与えていた。


 そして、マチルダも与えられる知識を真面目に吸収していた。


 この離れでノエインに可愛がられていれば、もう本館で使用人や他の奴隷たちに虐められる辛い日々を送らなくてよくなる。蔑まれて殴られるのではなく、笑顔を向けられて頭を撫でてもらえる。そう理解しているからこそ、マチルダはノエインの役に立とうとしていた。


「それじゃあ、算術の勉強は今日はこのくらいにしておこう……少し疲れたね。それに喉が渇いたな」


「では、お茶をおいれしましょうか?」


「そうだね、お願いしようかな」


「すぐにご用意します。少しおまちください」


 そう言って台所に立つマチルダの後ろ姿を見ながら、ノエインはベッドに腰かけ、書物を開いた。この書物は屋敷の本館から借りてきたものだ。


 キヴィレフト伯爵家の屋敷本館には、それはそれは立派な書斎がある。大きな本棚がいくつも置かれ、そこには歴史書や学問の指南書、偉人の伝記や物語本、詩歌集、遠い国への旅行記、さらには昔の貴族の私的な日記まで、古今東西の多様な書物が数百冊も並んでいる。


 しかし、代々の伯爵家当主によって、歴史ある大貴族家としての見栄のために収集されただけのそれらは、マクシミリアンによって客人に披露されることはあるものの、手に取って読まれることはほとんどない。


 ノエインは本館で暮らしていたとき、これらの書物を時おり読んでいた。読書をしている間は大人しいからと、父にもそれを許されていた。


 この離れに移されてからも、それらの書物を読む権利について、手紙を通じて父に求めた。結果、「月に三千レブロを小遣いから返還すること」を条件にそれを許され、その条件を受け入れた。


 ノエインは離れを出られないので、マチルダを本館へと遣いに出し、数冊ずつ書物を持ってこさせている。マチルダはまだ字が満足に読めないので、彼女がどのような本を取って来るかは今は完全に運任せだ。


 三千レブロ。平民の家族が一か月暮らせるほどの高額な借り賃と引き換えに書物に触れる権利を得たのは、単なる暇つぶしのためだけではない。社会を知らない自分が、書物の知識の上でだけでも社会を、人の世を、人の関わり方を知っておくためだ。


 そして、いつか放逐されて自由を得る日が来たときに、見たこともない外の世界で生き抜いていく術を備えておくためだ。


「おまたせしました、ノエイン様」


 ノエインが手にしている物語本を数ページほど読み進めたとき、マチルダがそう言ってテーブルにお茶のカップを置いた。


「ありがとう、マチルダ」


 ノエインは彼女に笑顔を向けながら書物をベッドに置き、お茶を手に取る。ふうふうと吹いて冷ましてから、一口飲む。


「……うん、美味しいよ。お茶を淹れるのが上手になったね」


「お褒めにあずかりうれしいです、ノエイン様」


 当初はノエインもマチルダもお茶の淹れ方など知らなかったので、味がやけに渋くなったり濃くなったり、逆に薄すぎたりしていた。


 しかし、先週マチルダが書斎から持って来た書物の中に「もてなしの作法」という本が偶然あり、その中にお茶の淹れ方が詳細に記されていた。


 ノエインがそれを読み、マチルダにも口頭で知識を教えたことで、マチルダのお茶淹れの技術は目に見えて上達している。


「……平和だね、マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 ノエインが陶器製のカップでお茶を飲みながら呟くと、木製のカップでお茶を飲みながらマチルダが答える。


 そして、夕食までの時間はノエインは読書をして過ごす。マチルダは風呂の用意をしたり、部屋の掃除をしたり、裏庭に干していた洗濯物を取り込んだりしつつ、その合間に文字を覚えるための勉強をする。


 そんな光景が、二人の日常として馴染みつつあった。


 小さな離れと裏庭だけが世界の全て。そんな歪な環境で、それでもノエインはマチルダという同居人がいるおかげで、少なくとも温もりのある日々を過ごしている。


・・・・・


 離れで共に暮らすようになってから数か月が経ち、マチルダはノエインから受けた教育のおかげで、それなりの単語が読めるようになった。また、桁の多い計算はまだ難しいものの、貨幣を数えるかたちでなら買い物ができる程度の計算能力も身に着けた。


 そこで、ノエインは初めて彼女を屋敷の外へとお遣いに出した。


 ノエインは離れから外に出ることは許されていないが、マチルダは別だ。彼女はこうした用を言いつけるためにノエインに与えられた奴隷だ。


 日に三度の食事こそ本館から提供されるが、それ以外のもの――魔道具を使うための魔石、石鹸などの消耗品、お茶や菓子などの嗜好品、紙やインク、その他とにかく食事以外の一切だ――は毎月の小遣いで買わなければならない。


 父親の言い値で屋敷の備品をもらうよりも、街で購入した方が安いし早い。だからこそ、ノエインはマチルダを市街地に行かせた。


 今ごろ彼女は買い物をしている頃だろうか。お釣りの計算はちゃんとできているだろうか。そんなことを考えながら待っていると、離れの扉が叩かれる。


「マチルダ? ずいぶん早く帰って……っ、」


 扉の方を向いたノエインは、帰って来たマチルダがずぶ濡れになっているのを見て息を呑む。


 マチルダの表情は暗い。怪我はしておらず、今は秋なのでずぶ濡れでも凍えるほど寒いということもないだろうが、どう見てもただ事ではない。


「何があったの?」


「……申し訳ございません、ノエイン様」


 そう言って、マチルダは事情を話し始める。


 ノエインは本館で暮らしていた頃、使用人たちの雑談を盗み聞きして、このキヴィレフト伯爵領の領都ラーデンでは大店として知られた商会の名前をいくつか記憶していた。


 マチルダにもそれらの商会の名前を教え、どれかの店に行けば質の良い買い物ができるだろうと伝えてお遣いに出した。


 しかし、ここは獣人への迫害感情が激しい王国南部だ。大手商会に赴いたマチルダは、獣人奴隷であることを理由に店の中に入ることさえ許されなかった。


「キヴィレフト伯爵家からの遣いだ」と言えば入店できたかもしれないが、勝手にマチルダにそんなことを名乗らせたのが父に知られると後でどうなるか分からない。そもそもキヴィレフト伯爵家では普通は獣人奴隷を買い物の遣いになど出さず、ノエインは伯爵家の人間であることを証明するものを持っていない。


 マチルダは最後には水をかけられて追い払われ、途方に暮れて帰って来たのだという。


「私はノエイン様のお役にたてませんでした。私はだめな奴隷です。申し訳ございません」


 膝をつき、絶望的な表情で謝るマチルダに、ノエインは歩み寄る。


 そして、彼女を優しく抱き締めた。自身の服が濡れるのも厭わず、ずぶ濡れの彼女を抱き締めた。


 小柄なノエインの腕では、女性にしては背が高いマチルダをしっかりと包むことはできなかったが、それでも彼女を精一杯抱き締めた。


「大丈夫だよ、マチルダ。僕こそごめんね。何も考えずに君をお遣いに出してしまった。そのせいで君を辛い目に遭わせてしまった。マチルダは何も悪くない。何も気にしなくていいんだよ」


「……はい、ノエイン様」


 マチルダはそう答えながら、おそるおそるといった様子で、自身の手もノエインの背中に回す。


「もう一度、買い物にいきます。今度こそ、ノエイン様にあたえられた役目をはたしてきます。なので、どうか捨てないでください」


 そう言いながら、マチルダの声と体はかすかに震えていた。


「僕がマチルダを捨てることなんてないよ。君をずっと可愛がるって決めたんだから。君はこれからも僕だけのお世話係だよ」


 ノエインはマチルダを抱く腕に、さらに力を込める。


「今日はもう外には行かなくていい。可哀想なことをしたね。今日はもう、ずっと一緒にいよう。お風呂で温まって、ずっと僕の傍にいるといい。買い物の仕方は、また考えよう。大丈夫だよ」


 マチルダが落ち着くまでノエインは彼女を抱き締め続け、その後は言葉通り、二人で過ごした。


★★★★★★★


次回の更新時には書籍1巻の書影(表紙デザイン)についてお知らせできるかと思います……!

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